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個人の中の多様さのはなし

星野源と若林正恭の「LIGHT HOUSE」が面白い。
共感と発見が入り混じる、答えのない思考に想いを馳せる、昏く心地よい時間。

「個人の中の多様さ」に関する話がいくつかあって、なるほどなぁ、と思うと同時に、自分の中の価値観と照らし合わせるために、このnoteを書いている。

・人って変化が苦手、人の変化を喜べたり面白いねと言える人は少ない
・人が幅を持って存在することができなくなっている

レッテルやイメージが人を動きづらくし、自己開示や変化を阻む。こんな話があった。

まず思ったのは、自分がレッテルを貼る側になっていないか、だった。あの人ってこういう人だよねーとか、流行りのMBTIであーなるほど、となるとか。分かった風な口を聞く感じ。

正直いうと自分は分析癖があって(しようと思ってしてるわけじゃないが・・・)、昔はいっそうこの傾向が強かったように思う。人から聞いた噂などは信用しないが、自分の五感と第六感で感じた「こういう人」という感覚を強く信じすぎるイメージ。

本人から悩み相談を受けたときとか、他己分析をお願いされたときにその感覚が役立つ、というようなこともあって、なんなら当時は得意分野であり長所だと思っていた節すらある。

ただいつからか、誰の得にもならない・頼まれてもいない分析や考察はしなくなった。感覚的には、昔は人に対してくっきりとした輪郭を持って接している感じだったが、今はその人物像にモヤをかけている感じ。発言や行動という一つ一つの要素だけを受け止めようとしている感じ。

なんでだろう。人と関わる中で、排他主義的で、人の多面性を否定する、傷つけるような危うさをはらんでいると直感したのかもしれない。逃げ恥でみくりさんが同じようなことをして「こざかしい」と言われていたのはぐさっと来たし。そこまで分かりやすく表面化していなくても、きっと誰かを傷つけて、言葉なく離れていった人もいるということを、受け止めなければならない。

今のモヤがかった状態が、自分や相手にとって真にいいのか悪いのかは分からない。相手を直視せず向き合わず、責任を持たないようにして心地いい距離を保っているだけかもしれない。ただ、冒頭にあったとおり、(自分自身・他人によって)人物像を固定化する行為がその人の逃げ場や挑戦を奪うことは明白だと思うし、今はそっちのほうが怖いと感じてしまう。

その人と私とか、その人と誰かとか、その人と何かの一時的な関係性や共感が連続して置かれているだけであって、そこには変化の余地が残されている。それは「可能性」だと考えたいし、そう考えるからこそ、もっとその人を大事にできるんじゃないかとも思う。

できてるかできてないかは別の話で、書きながら余計分からなくなってきた節もあるが、なんとなく、今はこんなムード。

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