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カントの「定言命法」を理解し直す

カント倫理学と言えば、「定言命法」と教科書的にはよく言われる。これは別に間違いではない。というか本質でもあると思う。

教科書的には、仮言命法が「〜ならば、〜せよ」と条件付きの命法と表されるのに対して、定言命法は「〜せよ」という条件なしの命法と表される。

これには少しむず痒さを感じる。別に間違っているわけではない。ただ、少し物足りない表現で、誤解を生んでしまうのではないかと思ってしまう。そこで、少し「定言命法」についての教科書的な理解から離れて、考え直していこうと思う。

※これはただの大学院生が非公式に書いているものなので、参考程度に読んでほしいです。レポートとかに引用はしない方がいいと思うよ。

1、教科書的理解の欠点①

教科書的には、仮言命法は条件付きで「〜ならば、〜べし」と、定言命法は条件なしで「〜べし」と表されるだろう。さて、何が問題なのであろうか。

具体例を出して考えてみる。
例えば道徳法則が与える命法に、「殺人を犯せ」という命法があるとする。このとき、定言命法は「殺人を犯せ」と表現できるだろう。そして、仮言命法は条件付きであるので、「自身の命が守られるならば、殺人を犯せ」と表現できる。

このとき、定言命法よりも仮言命法の方が、直観的に善い行為をしてると言えるだろう。

極端なケースで考えたが、教科書的な書き方は、定言命法で表現するよりも、仮言命法で表現した方が倫理的に許容できる行為を表現するができる可能性があり、命法の倫理的な価値が反転してしまう可能性がある。

こういったことから分かるとおり、そもそも命法が倫理的に善い行為を含むことを前提とせねばならない。このことは忘れられがちだと思われる。

2、教科書的理解の欠点②

さらに、「〜べし」という形で表現できるのが定言命法と捉えてしまいがちであるが、これは誤解である。

実は仮言命法でも、「〜べし」と表現することができる。それはただ条件を隠すだけでいい。「〜ならば、〜べし」という表現の「〜ならば」を隠せば、「〜べし」と表現されるということである。

これはただ表現の問題と思うかもしれないが、そうとも言い切れないところもある。

例えば、「親切にせよ」という命法があるとする。一見すると、この命法は定言命法に思えるかもしれない。しかし、私たちはどのような人に親切に接するだろうか。ご老人や障がいを持っている人の方が若くて健康な人よりも親切に接しがちではないだろうか。つまり、「親切にせよ」の前に「相手が〜ならば」という条件が隠れている可能性を捨てきれないのではないか

と、このように「〜せよ」と表現される命法全部が定言命法というわけではない

ここからわかることは、命法の表現が大切というわけではないことである。

3、命法とは?

さて、それでは命法とはどのようなものであろうか。

これまでから分かったことは、
①命法には倫理的な善さが前提とされる
②命法の表現は重要ではない
という2点である。

端的に言うと、命法とは、道徳法則のあらわれ方である。(少し大雑把すぎるが)

カントは道徳法則があると考えた。道徳法則は、何が善であるかを規定している。もしこの世界が道徳法則に支配されているならば、悪は起きないはずである。しかし悪は起きてしまう。殺人やいじめは起きているであろう。それでは、道徳法則はどこに効力があるのか。それは、私たちが生きている世界ではないところである。(カントはこれを叡智界と呼ぶ)この違う世界には、神や天使などがいると考えられている。

そうした別世界に効力があり、善さを規定する道徳法則が、人間にあらわれる際に、命法としてあらわれるのだ

4、人間とは?

ここで疑問が残るであろう。どうして別世界の道徳法則が人間にあらわれることができるのか、である。

それは、人間は、私たちが生きている世界だけでなく、理性を持つということによって、別世界にもコミットできるからである。カントが想定する別世界に属するものは理性によって意志が規定されている。

人間も理性を持つ。しかし、人間の意志規定は理性だけではない。

例えば、テスト勉強やレポートなどしなくてはいけないことがあるとき、手もとのスマホをいじってしまったり、おなかが空いたらご飯を食べたりしてしまうであろう。つまり、理性的に考えたらしなくてはいけないことを消化することがよいだろうが、人間はやりたくないことから目を背けがちであったり、生物的に不可欠な行為をしがちであったりする。もう少し整理すると、人間は理性以外にも、楽な方に逃げることや生物的な要因によって、意志が規定されることがあるのだ。

人間は理性を持ち、理性以外の意志を規定する要因も持つ。それゆえに人間は理性的な別世界にコミットできる。よって、道徳法則が命法として人間のみにあらわれることができる。

5、仮言命法の誤解を解く

定言命法について考える前に仮言命法についての誤解を解いていこうと思う。(誤解は言い過ぎかもしれないが)

命法は道徳法則が人間にあらわれる際のあらわれ方であった。しかし、命法の形は関係ないものでもあった。つまり、人間にあらわれる道徳法則が条件付きの仮言的としてあらわれても、条件なしの定言的としてあらわされても関係のないことなのであると言える。なぜなら、人間は別世界を生きているわけではないので、その条件によって何が起こるかは分からないからと言える。もし、世界の意志みたいなものがあるとしても、人間の行為が起こす結果は分からないだろう。

そうであるなら、仮言命法とはどういったものなのだろうか。

仮言命法は、命法が人間にあらわれるが、その命法を人間が条件付きでしか守ることができないような場合である。そのとき、仮言命法となるのである。

つまり、人間に命法としてあらわれた道徳法則に対して、理性以外の意志規定を持つ人間が、完全に理性のみで意志規定できない場合に条件付きの命法となってしまうのだ。

例を出して考える。
道徳法則が「親切にせよ」という命法として、人間にあらわれたとする。しかし、もし目の前にいる人が自分の苦手な人であったらどうだろうか。このとき理性的には親切にしなくてはいけないが、苦手という意識が邪魔をし、完全に親切に接することは難しいだろう。このとき「親切にせよ」という命法に、人間が条件をつけてしまい、命法が仮言的になってしまうのだ。

つまり、仮言命法は、人間が理性以外の意志規定を持っているがゆえに、人間自身が命法に勝手に条件をつけてしまうので、生まれてしまうのだ。

6、定言命法を捉え直す

仮言命法は人間の意志規定が理性だけでないがゆえに生まれてしまうことが分かった。そこで、定言命法を捉え直すことができる。

定言命法は、人間の意志規定を道徳法則のみが行うときの命法である。(少し簡潔に言いすぎかもしれないが)

このとき、道徳法則を守ることで何が起きるかは分からない。もし、何か悪いことが起きたとしても偶然であるとカントは言う。(詳しくは「嘘論文」へ)すなわち、道徳法則という中身がない(あるいは分からない)形式にのみ意志規定をされる場合が定言命法である。

したがって、人間が持っている理性以外の意志規定が介入しなく、それゆえに「なぜ」その行為を行うべきかが人間には明確でないと言える。

ただ、人間は思ったより「なぜ」が分かることが多い。この「なぜ」が分かるのが行為後なら問題はない。この「なぜ」を先に据え、そこから意志規定をし、行為するのが仮言命法による行為となるのだ。(この「なぜ」は定言命法の場合、道徳法則が「~べし」となっているからと言ってもいいかもしれない)

以上のことを踏まえると、定言命法は「〜べし」と条件づけや理由づけがない形で表現できる、人間の理性のみからの意志規定と言える。

7、まとめ

仮言命法は「〜ならば、〜べし」という条件つきの命法で、定言命法は「〜べし」という条件づけなしの命法と説明される。

ただ、その説明は少し物足りない説明でもある。

命法は道徳法則の人間へのあらわれ方を示している。その人間は行為への意志規定を理性以外にも持つ。理性以外の意志規定が人間の現実的な要因として、人間の理性の意志規定を制限する可能性がある。それが仮言命法である。

そういった仮言命法に対して、人間の現実的な意志規定要因にかかわらず理性のみからの意志規定ができる命法が定言命法である。

換言すると、定言命法は行為の「なぜ」にかかわらない人間の意志規定であると言えるかもしれない。

補足

ここでは、定言命法の基本的な成り立ちを書いたつもりである。定言命法には「普遍化の定式」や「目的の定式」などの重要な定式もある。また、カント倫理学には、他にも「自律」などの重要概念がある。ここではこれらには触れきれなかった。

文献

『実践理性批判』

『道徳形而上学の基礎づけ』
『人倫の形而上学の基礎づけ』『道徳形而上学原論』なども翻訳違いではあるが、『人倫の形而上学』は別の著作。「基礎づけ」や「原論」が付いてるかどうかで違う書物になる。