せれーのさんに花束を
こんばんは、今日もお疲れ様です。
時々「福島太郎は一人のために」という表現を使いますが、今回も題名のとおり、「せれーのさん」への感謝を綴るためだけの稿になります。少し「題名のない物語」の裏話的な要素もあります。
さて、まずは12月に入り取り組み、実質的には構想0日、制作5日のような感じで「一旦完結」した「題名のない物語」ですが、「完結はしたが完成していない」という状況です。少し休憩を挿むことになりますが、いつか完成させたいです。
御承知の方もいると思いますが、このお話の出発点が、スウィングマンさんの中の人の一人、せれーのさんのこの記事になります。
是非、この記事をコメント欄まで読んでいただいてから、この稿の続きを読むと楽しんでいただけると思います。
私がいれたコメントがこれですね
「せれーのさんに愛されて、一緒に暮らせて幸せだったと思います」
せれーのさんに会ったこともないくせに、「適当なコメントを入れるな」と叱られそうですが、このコメントには理由があります。
(屋内のポット栽培とはいえ、紫蘇を枯らす?あんなに強いのに)
と考えた時の一つの解として浮かんだのが
「水のやり過ぎ、愛情のこめ過ぎです」
ということでした。短い命だったかもしれませんが、それだけ愛情を注がれた紫蘇は幸せ者ですよ。ということをコメントで伝えたくなったのです。適度に成長して食べられることも幸せだと思いますが、愛情をたくさんいただき、寿命の限り生きたことも幸せだったのかなぁとの考えに至り、食べられることが本来の役割だけど、一緒にいたことは幸せだよね。と思いつつ、
食べていただけない切なさもあるかな、という考えが羽海野チカ先生の「はちみつとクローバー」の最終回のナレーション
『実らなかった恋に意味はあるのだろうか』
につながりました。
「枯れた紫蘇にも、実らない恋にも、ちゃんと意味はある。それは素敵な経験です。大切なことなのです」
ということになり、「夢で逢えたら」の木元の台詞
「紫蘇は、君と一緒に暮らせて幸せだったと思う」
に繋がります。ところが、ところがですよ。今度はこの台詞で悩むことになります。
「紫蘇は君と暮らせたから幸せだけど、僕は君と暮らすことも逢うこともできない」
という心象風景がある台詞になっているのですよね。
「なんか恰好つけて、君の幸せを祈っているとか、夢で逢いたいようなことを仰ってますが、じゃあ何で別れたのさ。お前ら、太郎、そんなバットエンドでいいのかい」
ということで、せれーのさんのサーブを受け、一人で、レシーブ、トス、スパイクしてしまったのが「題名のない物語」となります。
一旦完結しての感想としては「書くことができて良かった」という安堵感です。ハッピーエンドにできて良かった。木元は選択を間違えてばかりだけど「機械仕掛けの神様」の役を西野が果たしてくれて、セカオワのおかげで「最後は歌で終わる」ことができました。ちなみに「歌で始まり歌で終わりました」。実は当初の予定では中盤で「木元と西野がカラオケに行く場面」がありましたが、二人から「チガウソウジャナイ」と言われ割愛しましたが、完結できて、満足してます。達成感はありません。あるのは「読者目線での満足」です。全10話の5話以降は、キャラが勝手に動き出し「作者、何も考えてないじゃない状態」となり、作者目線は消えていました。
物語を動かしたのは、西野と最終話の見出し「セレーノ」です。私もよくわかっていないのですが「セレーノ」とは「爽快な青空」という意味のようです。なので、最終話では、まず青空のイメージがあり、その下に西野がいる姿が重なり、歌が重なる形になりました。
また、これも全くの偶然ですが、地元では「ほんとうの空がある福島」というのは、意義のあるコピーでもあります。「せれーの」さんが「青空」という意味だからこそ、西野が青空の下で立つ場面を描くために、最終話が生まれ、「空は青く」で始まる歌に繋がったことになります。
未完成ではありますが、正直、こんな物語の語り部になれるとは思いませんでした。また、中心はせれーのさんですが、note界の様々な方へのリスペクトとインスパイアがあればこそ、完結することができた物語となりました。いつものことですが「自分で書いた気がしません」
せれーのさん、本当にありがとうございます。あなたが居てくれたから、物語が生まれ、完結し、太郎は幸せな気持ちを抱くことができます。
花束を渡すことは難しいですが、是非、10万PVを達成し「ゆうべはおたのしみでしたね」を実現できることを願ってます。
『いつも、いつまでの君の幸せを祈っている』