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同調圧力を嫌う生き方がもたらしたもの

義妹生活(ぎまいせいかつ)を見てふと思い出したこと

2024年夏アニメのシーズンがやってきました。春アニメがかなりの名作揃いだったので、夏アニメは失速するかと思いきや、期待が持てるクオリティのアニメが多く、制作会社の方達には尊敬の念を覚えます。

その中で「義妹生活」というアニメがスタートしました。ここではネタバレに繋がるような内容はとくに書きませんが、胸にチクッとくるシーンがありまして、そこについて述べたいと思います。

親が再婚して同居することになった主人公と同じ歳の義理の妹である綾瀬さん(髪をブリーチして金髪にしてる美少女)が主人公に対して、「1人以外はみんな切っちゃった、別に切ってもいい人程度の人しか切ってないから。何考えているか分からない,それを伝える努力もしない子達の機嫌を伺ってる時間がもったいない…」っていう台詞を言ったシーンで胸にチクリとした。

自分が高校生だった頃も同じ価値観だったから。

自分が高校生だった頃

もう30年も前の話なので、記憶がおぼろげだが世間の感覚とのずれを感じたのが高校1年の冬だったと思う。それまで周りに愛想を振りまいていた自分が徒労に終わったエピソードがあり、それまでの自分の行動が馬鹿馬鹿しくなり、周りに何も求めなくなった。

何をしていたかというと、今でいうところのメタ認知思考実験を繰り返していた。人として世界を知覚すること、自分という存在を知覚すること、それを書き留めること。

高校2年になって倫理の授業があり、自分のそういう思考実験を昔の哲学者もやってたのか、と感動することになる。
周りに愛想振りまく無駄な時間をする必要はない。孤独を恐れて同調圧力に従う必要もなく、解き放たれた魂は真の自由を手にする。と言うことを実感していた。

倫理の授業がきっかけになり、同じような思考をしている人が他にもいるかもしれないと、外に目を向けるようになった。そこで村上龍・村上春樹・山田詠美・ヘルマンヘッセ・トーマスマンなどなどの小説家と出会うことになる。

ノルウェイの森を読んでビートルズに興味がわき、ビートルズからUKロックの系譜をたどったり、J-WAVEで最新の洋楽アーティストに触れたりした。BlurとかOasisとかUnderworldとかChemical Brothersとか。

尾崎豊が亡くなったのは確か僕が中2の頃だったと思うけど、高2の頃にドラマの主題歌でリバイバルして,そこで改めて聞いてその歌の温かさに触れたりした。

同調圧力から解き放たれたことで、自分の興味のまま様々な作品と出会い、感動し、自分も創作をしていた。とても充実した時間だったと思う。未だにその頃執筆したものは机の引き出しにしまってある。

自分の好きなコンテンツが他人とのカケハシになっていく

いつ終わるとも知れない大学受験2浪目のはてにやっと大学生になり、クラスメイトのメンバーと出会うことになるわけだけど、サブカル好きが集まっていたためか、コンテンツを通じた友達ネットワークが形成されていった。
好きなものについて語り合うのってこんなに面白いんだということを知った。

その原体験は私のベースになっている。今だと「推し」という言葉で表現されるものと大体同義だが、新しいコンテンツ体験を通じて人と繋がっていくことを今も続けている。

組織に縛られない生き方

上記の原体験を是とし、同調圧力を是としない本分のまま社会人となった私はたまたま恵まれていたのかもしれない。

そこは毎日が文化祭のようなクリエイティブの世界であり、何よりも成果物が是とされる環境だった。会社は自分に対してその中で価値発揮していくことを求めた。
大会社における社内政治などとは無縁の環境で自分の価値を磨いていくことができた。

クライアントワークは成果物の納品だったが、事業会社に転職すると成果に繋がる施策を完遂することが求められた。その違いはあったものの引き続きクリエイティブ制作をつづけていた。成果に繋がる施策こそが評価されるという世界。そういう世界にいると組織なんてあまり意識せず、あとからついてくるものだと思っていた。

でもそのあと気づくことになる。そういった環境も誰かが守って構築し整備した世界なのだということに。

私はその守られた世界が何度も壊される経験をした。組織として弱いから守れないのか、、、守るためには社内政治に身を投じないといけないのか?そのために同調圧力の中で自分を殺さなければいけないのか?そうまでして守りたい環境ってそもそもなんなのか?

私の価値観は出世欲ではない。仕事を通じたクリエイティブ活動が誰かのためになることである、といえる。

その自問自答を続けるくらいなら会社を飛び出した方が自分の経験値も増え、提供出来るバリューも多岐にわたるだろうという結論に毎回たどり着くことになる。

自由意志 or 組織作り

上記のようなスタンスの人同士で仕事をする場合,お互い理解し合えるので上手くいくけれど、組織に守られて仕事をしている人からしたら、はた迷惑な話でしかない。変に関わることでとばっちりを食うと思うだろう。

そう思わないにしても、様々な人と調整して物事を進めるスタンスの人からしたら、言いたいことだけ言ってるやつのように思われてしまうのも当然だ。そしてそういう人は組織にとどめておくのは難しいと思うだろう。

そう周りから思われても、組織に縛られない働き方を継続すべきなのか?同調圧力に従わず、自分の自由意志を尊重するという,今までの自分を突き動かしてきたWILLに従うべきなのか?

その意思決定は今はまだ正しいのかもしれない、でもそれは時期に正しくなくなるとも感じている。年齢を重ねていくことで、上記のような意思決定ができる機会が減っていくから。

そうなってくると、考え方を変える必要がある。環境を、組織を守る側に回らなければならない。

シグナルの出し方を意識する

組織の問題に向き合うことで、そこで働いてる人達が気持ちよく働ける環境をつくるには、どうすればいいか?について考える。

「自分がやっていることは正しいことだ」みんなそう思っている。
「アイツがやってることはおかしいのではないか?」そう思う人もいる。
組織の問題の根源は突き詰めるとこのズレなのだろうなと思う。
そのズレはほおって置けばいつか地雷になり、スイッチを誰かが踏むと爆発する。

最近思うのは、その全体像を先ず把握した上で、良い感じの着地点を想定し、そこに誘導するためのシグナルを出すことなんだろうなと思う。そうすることで地雷は解除できる。こともある。

もちろん会社組織は事業戦略の変更が起点となり、いくらでも変容するものだ。それを受け入れた上で、上記の活動をする。それが良い成果に結びつくと信じて行う。
そういったスタンスが重要なんだなと思うようになった。

ただし、依然として同調圧力を生み出す組織は受け入れられないと思う。私という人間は過去そういう環境で酷く傷つき,それは非生産的だと強く思ったからだ。

そこで冒頭話した「義妹生活」だ。
綾瀬さんの言葉から,そこはかつて自分がいた場所だと思った。そして、遠く旅をして今自分はここにいる。

終わりに

大人ってなんだろうなと、この歳になってまだ思っている。
波風立てないのが大人なのか、バランサー至上主義が正しいのか?

誰にとってもほどよい距離感でサポートできるような大人になりたいなと思う。昨年お亡くなりになった私の元上司の方みたいに。
ああいう大人になりたいな。。


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