駒場祭を終えて

初Note投稿です。超超長文です。14,000字あります。読んで欲しいというより、単にどこかに忘れないうちに書きたかっただけです。
「駒場祭を終えて」などと書いていますが、内容は今回の駒場祭の1年ほど前からの自分語りです。たまに1年以上前の自分語りも入ってます。ダルいと思ったら飛ばすか、ブラウザバックしてください。

1年前の駒場祭はオンラインで、まだ僕は東大落研に所属していました。当時僕はまだコントの脚本とかにすごい自信があった頃で、ぶっ飛んだ設定から出オチにならずにちゃんと上手いこと構成された良いコントが作れる!などと思い上がっていました。そして当時の相方に台本を見せたところ、「設定が天才的」と言われ、これは絶対ウケるぞ!!と意気込んで駒場祭用のネタ収録会場に向かいました。

結果は惨敗。先輩からかけられた言葉は「演技に熱が入ってたね」それだけでした。初コントにして全てを出し切った、全てやれることを詰め込みつつ、かと言って詰め込みすぎてお客さんを置いてけぼりにしないよう最大限配慮した結果の惨敗でした。

そんなに上手くいかないことは心のどこかで想定はしていました。初コントで大ウケするなど思い上がりもいいところです。しかしそれ以上にショックだったのが、他の大ウケしてるネタの数々が僕には全く笑えないものだったのです。落研をバカにしているのではなく、とにかく自分の笑いの感覚が普通の人と致命的にズレてるということを思い知らされました。僕の渾身の初コントが大滑りしたのは台本の練りが甘かったのではなく、そもそも根本から何もかも間違っている、と言われてるような気がしました。

11月末、駒場祭を終えてからお笑いを続けようか毎日悩みました。
『感覚のズレ』ずっとこのせいで僕は集団の中でうまくやっていけませんでした。中高のサッカー部でも諦めずに最後まで続けましたが結局周りからは空気の読めない鈍臭いズレてるバカな不愉快な奴だと思われてるのが手に取るように分かりました。同じことが早くも落研でも起こりかけていることは今までの経験から明らかでした。でも当時組んだ相方は天才的で優しくて、コイツとならいつか本当に面白いコントが作れるんじゃないかと思い、なかなか落研をやめる決心がつきませんでした。

しかし落研の部会に行くと徐々に息が詰まる重いをするようになりました。理由はすぐわかりました。周りが楽しそうな話をしていても僕の発言が微妙にズレていて周りを困らせているのです。高校までに何度も味わった感覚でした。そして、そういう思いをした環境では一度も幸せになったことがありませんでした。周りのせいではありません。全部自分の感覚がズレているせいです。

程なくして落研はやめました。大好きだった相方にはラインでお詫びしました。長文で労りのメールが返ってきましたが急に落研を辞めることを責める内容は一つもなく、ただただお疲れと言ってくれました。大学で今後出会うことのない親友になったかも知れない人を自分の手で失ったと思いました。


そこから2〜3週間は先のことを考えないようにしていました。今後の学生生活はもう充実することはないかも知れない。その機会を自分で踏み潰したかも知れない。そう思うと先のことを考える気力はありませんでした。いつも僕に執着して、僕がむしろ邪険に扱ってる先輩の家に行ってヤケ酒をしたりして先輩を心配させました。4つ下の同クラからも心配されました。それくらい元気がなかったのでしょう。

お笑いを始める前は多浪交流会というところで文化祭の企画に出店したり、取材を受けたりしていました。複数の大手新聞社をはじめ数々のメディアから受験時代の話を取材され、個別にネット記事を出すなど比較的精力的に活動していたと思います。しかしそれらは全て「受験の話」です。大学に入ってから何も新しい事を生み出さずに今までの成果にアグラをかいて人々の注目を集めてばかりでは人間としてゴミになる、という危機感は徐々に大きくなっていきました。
ようやくお笑いという活動を始めても、落研を辞めた今、自分はもう多浪コンテンツ以外に本当に何も無いんだな、大学生活の話を聞かれても何も答えられない人間になるんだなと思ってました。

早くも2〜3週間後に訪れた転換期は、知り合いの美大生が描いた漫画を僕に見せてくれた時でした。睡眠不足で死ぬほど大変そうだけど好きなことを追いかける姿を見て、このままお笑いをやめたまま大学生活を終えることはできないと思いました。最初のサークル選びの時に落研ともう一つのお笑いサークルで迷って落研を選んだので、今度はもう一つの候補だった笑論法に入ることにしました。

最初に笑論法に顔を出したのは12月の客入れライブ。今だからこそ言いますが、正直入部を躊躇うほどライブのクオリティは低いと感じました。(後で見返しても再生回数がたまたまブッチギリで一番低い回でした。)それでも「ここで何もしなかったらまた何もない人間になってしまう」という危機感はありライブを見ながら葛藤してました。入部の決め手になったのは現副代表の山下くんです。全身から滲み出るサイコパス感を見て「この人とコントを組みたい!」と思いました。

即座に入会を決め、山下くんにコントの台本があるから組んでくれないか、と言い後日ラインで台本の原案を送りました。山下くんは台本をメチャクチャ褒めてくれたのですが個人的には落研の件があったので相方が褒めてもちゃんと客前でウケるか不安は残り続けてました。

初めての参加となる1月ライブ、僕は山下くんとコント、先代の代表の今村さんと漫才をやりました。どちらも台本はほとんど僕が書いてました。最初のコントが終わってすぐアカデミー賞の吉田くんに「良いコント。設定だけじゃなく、何個か山があって」と褒めてもらいました。他の人の反応も悪くはなくようやく手応えを感じることができました。かと思ったら、その後に披露した漫才はまさかのそれ以上にウケました。ちゃんと自分が想定したところで笑いが起こるのみならず、「ここはそこまでウケないかな」と思ってたところでも大きな笑いが起きて、ここなら自分のやりたいネタが受け入れられるのかも知れない、と思いはじめていました。

ライブ終了後たくさんの笑論法の人たちと話をしました。みんな台本を褒めてくれました。「初めてなのにすごい」「ちゃんと面白かった」「コントで笑論法を引っ張っていってほしい」みんながプラスの評価をしてくれている中、1人だけちょっと返事に詰まってから「構成がしっかりしてた」とだけ返した同期がいました。なんか俺のネタあんまり好きじゃなさそうだな‥と思いましたが、なぜかそいつに「コントやらない?台本はあるから」とコンビ結成を持ちかけてました。こういう人を遠ざけたら段々独りよがりなネタを書く気がしたのです。敢えて一番感性の合わなそうな奴ほど組んでみたら意外と上手く行くみたいなこともあると思い、そいつとコンビを組みました。後に僕にとってのメインコンビとなる赤福チャイムが結成されました。

2月ライブも僕は3ネタを披露し、ライブ全体としても大成功に終わりお客さんからも高評価を受けました。見に来てくれた知り合いも「こんなに面白いとは思わなかった」と言ってくれました。当時僕は長期休暇になると精神が病むという厄介な体質だったので準備の時は何度も全てを投げ出したくなりましたが、終わってみるとやって良かったとなるから不思議なものです。今でも2月ライブは繰り返し見ます。

しかし2月ライブが終わり3月になるとまた空虚な日々が続きました。心の重荷の核となっている思いはいつも同じで「今年一年何もできてない」という思いでした。お笑いも始めたばかりでほとんど新入生みたいな状態で、他のやっていたことは多浪交流会経由で新聞社相手に同じような受験の話をするだけ。何か1年間続けた事で自分の中に積み上がっているものが一つもないと思いました。後輩が入ってくるのが怖くなりました。3月10日、先輩とカフェで東大の合格発表を見てffの受験生が受かって、僕の予備校時代からの友達が落ちてる事を確認し、これから後輩が入ること、「サークルの先輩」としてみられる可能性が1%でもあることに恐怖していました。4月が永遠に来なければいいと思ってました。


その後結局色々と嬉しいことはあり、なんだかんだ3月後半は不安に塗れることもなくなんとか過ごすことができました。3月ライブは先述した赤福チャイムで出て、2月以上の高評価をもらいました。あぁここは固定コンビになるんだろうな、とこの時期にはもう思い始めていました。

この時期は笑論法の同期が出るという外部ライブも見に行き、他大で活躍しているコンビをたくさん見ました。その中で1人だけ、あるコンビの片方の人に対してネタを見る前から、立ち振る舞いと声で「この人絶対面白いだろうな」と妙にワクワクした人がいました。何というか、舞台で聞いていて人が無条件で笑ってしまうような周波数で声を出しているような不思議な感じがしました。その人の組んでいる『ゴーレム』というコンビはスマホのメモ機能にすかさず残しました。何の偶然か、笑論法の部長の笠原君がちょうどゴーレムを「笑論法に入らないか」と誘っていたらしく、ライブ後なぜか一緒にご飯を食べに行くことになりましたが、僕とその人は一番離れていて全く話すことはありませんでした。寡黙そうな人で話しかけるのは怖かったし、正直笑論法もすぐ辞めてしまうんだろうなと思っていました。のちにその人と第2のメインコンビ「健康浪人兼好」というとんでもない名前で組むことになります。


学年が変わり4月になり後輩が入ってきました。僕は多浪交流会の代表となり、多浪交流会にも笑論法にも後輩がたくさん入ってきました。

春休みが空けたというのに、2年生になってからいつまでも楽しくない日々は続いていました。辛いというにはあまりに恵まれている状況のはずですが何故か不満は募り、イライラは止まらずおかしくなっていくのが自分でもわかりました。次第に絶対やめようと思っていたツイッターでの過度な自虐・不満の垂れ流しを日常的にやるようになりました。4月ライブはあまりウケませんでした。自信があった新ネタの漫才は滑り出しは上々でしたが途中で入れたボケがコンプラを違反しすぎていて初めて「場が凍りつく」という状況を経験しました。漫才はYoutube上に上がることはありませんでした。

4月ライブの帰りに他の部員と夕飯を食べる中、先述したゴーレムの「あどばいざん(芸名です)」という人が誰か別の人と漫才を組みたいと言っているのを聞きました。今のコンビではできないような、強いツッコミが必要なネタができたから笑論法の誰かと組みたい、と。「僕ツッコミだし声だけは一番でかいんで良かったら」と言って、その場で結成しました。ネタ合わせの日にあどばいざんが「僕は健康であなたは浪人してるのでコンビ名は健康浪人で。」と言われウソだろコイツ?となったのを覚えています。すかさず「いや僕だって健康ですよ!」とどう考えてもズレてる0点のツッコミをしたら向こうがすかさず「じゃあ健康浪人兼好で。」と言われ今のコンビ名になりました。決め手となったのはあいさつの時に「どうもー健康浪人兼好でーす」と言った時にリズム感が良すぎて笑ってしまったことでした。即席コンビのつもりでした。

最初のネタ見せで僕はネタを飛ばしました。本気で死にたいと思いましたが何故か部員からの評判は上々でした。フワフワしたあどばいざんのキャラに僕の切れ味の強さの相性がいい。他にもいろんな肯定的コメントがありましたがこれだけ何故かメッチャ覚えてます。初めて自分のキャラが上手くハマる相方に出会えたと思いました。ネタを一度飛ばしたトラウマに怯えながら死ぬ気で挑んだ5月ライブ、健康浪人兼好は2分半という短い時間ながらそのライブ全体でも1,2を争うウケ量で終わりました。ネタ合わせの時点で来月もやろう、と言ってネタまで作っていたので、来月も出ることにしました。6月ライブは5月を超えるネタの覚えづらさでしたがなんとかノーミスで終わらせることができ、6分越えというどう考えてもダレる長さのはずなのに最後までちゃんとウケて終わりました。徐々に健康浪人兼好に注力するようになりました。

一方の赤福チャイムというコンビはこの時期あまり注力してませんでした。4月ライブでやったネタで5月頭に初の外部ライブをやりましたが結果は散々でした。得票式のライブで初参加にしては悪くはない得票数でしたが見にきた友達や母親の反応の微妙さが全てを物語っていました。相方は五月祭のライブに諸事情で出られず、そこから7月までは組まれることはありませんでした。

7月頭、キングオブコントに赤福チャイムで出ることはどちらともなく言いました。2ヶ月以上ブランクはありましたがやはりどこかでメインコンビだと捉えてる自分がいました。健康浪人兼好のほうが明らかに部内ウケは圧倒的に良かったしそっちに注力していましたし、正直赤福はお互いに面白いと思う感性が少しズレてると感じていました。それでも絶対にここは解散したくないと思っていました。

赤福チャイムの相方、笠原くんは大学お笑い特有の「恥ずかしいことをやりたがらない」の真逆をいくような人間でした。センス系のボケ、過度な下ネタ、超正統派しゃべくり、どれも笠原くんとやったことはなく、やるのはいつもギャグ漫画のような万一外したら恐ろしい空気になりかねない超ストレートのバカコントかバカコント漫才でした。台本をガチガチに構成して、練りの甘さをなくしてとにかく「恥ずかしい時間」をなくしたがる傾向のある僕にとって、余計な捻りを入れない笠原くんのスタイルはすごい貴重に見えたし、もっともっと評価されるべきだと思っていました。

7月に赤福チャイムでキングオブコントに出て惨敗。そこから期末試験期間で部会からは離れていました。部会の納会はコロナの都合で流れました。

8月頭、夏休みが始まると同時に僕は健康浪人兼好で、大学芸会というお笑いの大会に出ることにしました。大学生お笑いの大会の中で最も大きなものの一つで、決勝の動画などをみて憧れていた舞台の一つでした。
予選当日、これまでにないほど温かい会場で僕は逆にプレッシャーを感じていました。舞台袖で聞こえる拍手笑いの連発。大学お笑い界では有名なスメタナというコンビが5秒に1回くらいのペースで拍手笑いを取ってて緊張で吐きそうになってました。

僕らの出番。大きなボケのところで人生初の拍手笑いをもらいました。この調子で進めば勝ち上がれるかも、と思った矢先、相方がネタを飛ばしました。上手くフォローすれば小さい傷で済んだものの僕にそんなことができるはずもなく、そのあとはずっとグダグダで終わりました。その時の拍手笑いが夏休みを通した個人的なお笑いのピークでした。「笑い声」がネタを飛ばす契機になる、これは今後のお笑いをやる上で心にトラウマと共に強く刻み込まれた教訓でした。

翌週、赤福チャイムで出た外部ライブでは台風の日でお客さんが2人しか入らず、しかも得票数は0票で最下位。この頃は精神的におかしくなっていました。毎日のように神社に行き賽銭を投げてました。1日中神社巡りをして早く死ぬかこの状態から抜け出したいと思っていました。最悪植物状態になってもいいと思っていました。おかしな話です。特段ものすごい辛いことがあったわけでもないのにこの一年は本当にずっと楽しくありませんでした。お笑いで月一でウケる経験がなければ、賞レースに挑んだ達成感がなければ本当に抜け殻の一年でした。今年僕は厄年(前厄)だったのですが、こんな生殺しの状態ならいっそのこと大きい不幸に見舞われた方が余計なことを考えなくて済むんじゃないか、とすら思ってました。真綿で首が絞められてる感覚でした。原因は分かりません。

M-1は3組エントリーしました。健康浪人兼好、赤福チャイム、そして笑論法の同期のローリエ・万和(もちろん芸名です)と組んだ即席のコンビでした。万和くんは僕が笑論法で一番良い台本を書いてると感じた人でした。彼がM-1で8組分出る(!?)と聞いていて半ば数合わせ感覚で組んだコンビでした。M-1予選はどれも8月末から9月頭にかけて。その本番直前に笑論法で8月ライブがありました。

もう自信は完全になくなってましたが、仮に相方に迷惑をかける形になってもライブには出てやると思ってました。出なかったら何も残せない。どうせ俺が落ち込んでるのなんて周りにバレてないから普通の顔して出れば何事もなく上手くいくだろ。そもそもこんなに精神状態が悪いのは俺のせいじゃなくて厄年のせい‥言い訳をつけては平気な顔してネタ合わせに行ってました。もう、能力もなければそれを埋め合わせるための努力もしてませんでした。能力も努力もしなくても、周りへの配慮とか人を大切にする気持ちとか、とにかくそう言ったモラルを捨てれば自分のことに注げるエネルギーが増えて、半ばドーピング的に周りのレベルについていけると思っていました。

迎えた8月ライブ、万和くんとの即席コンビは思っていたよりイマイチな反応でした。彼が考えたボケだけは大きくウケてました。健康浪人兼好は安定してウケていました。が、最後に相方がネタを飛ばしました。完全に大学芸会の良くないイメージが染み付いているようでした。珍しく向こうから繰り返しネタ合わせを提案して準備していて、トラウマになってないか心配しました。

赤福チャイムはコントメインで過去一度しか漫才はやってませんでした。僕は基本、特に漫才ではツッコミ以外能がないので当然他のコンビでもツッコミばかりやっていましたが、この時思い切ってボケに回ることにしました。動きが面白いから躍動感を活かせばイメージが変わるかも、と。赤福チャイムは発想の突飛さの割に2人の見せ方がかなり地味でした。そこにテコを入れたらいくらかマシになるかも?と思っていましたが、もうこのコンビは漫才もコントも、ボケもツッコミの入れ替えもやれることはほとんど全部やっていたのでどこかで今回もダメだったらどうしよう、、という不安が消えることはありませんでした。

結果は期待していたよりもかなり上々の反応でした。先輩の高橋さんという、笑論法で一番外部で成果を出している人からは特に絶賛されました。これM-1ワンチャンあるんじゃない?とまで褒めてくれたり、「このコンビでやる漫才としてはこのフォーマットが正解」と言ってくれた先輩もいました。一番長く組んでおきながら、ずっと方向性に彷徨い続けていた赤福チャイムでようやく一つの型を見つけることができました。ライブ終わり、ずっと僕は興奮して相方の笠原くんに話しかけまくってました。急に元気になって調子乗りすぎてるのを見て、さぞかしウザいだろうな、と思いながら、それでも嬉しさが勝って話し続けました。

2日後のM-1予選本番、僕がメインで組んでる健康浪人兼好と赤福チャイムはまさかの同じ日に割り当てられました。午前は健康浪人兼好で午後は赤福チャイム。よりによってこの二組の日程が被るなんてつくづく天に見放されてるなと思っていました。
午前中、健康浪人兼好はノーミスでした。驚くほど緊張は無く伸び伸びとできました。毎度大喜利で笑わせるスタイルのネタでしたが1ボケ1ボケどこかしらで笑いは起こっていました。前後の組の反応を見る限り悪くはない出来かなと思いました。
午後の赤福チャイム、個人的な本命でした。昼を挟んでネタ合わせを何度も繰り返して、お互い二度目となるM-1の予選(相方も別コンビで一度出ていました)に挑むことになりました。
終わった後、とにかく失望しました。お客さんの笑いが全くなかったわけではないのですが、一番の山となるくだりでほとんど笑いは起こっていませんでした。期待値が高かっただけに落差が大きく感じました。一番大きな笑いが起こったのは先輩のアドバイスで差し替えてもらって生まれたボケでした。ハッキリ言って、「自分たちで努力してM-1で奮闘した」とはとても恥ずかしくて言えない結果でした。それでも笑いの量は少しはあったので審査員がどう判断してくれるか?それを考えたら通過してる可能性はあるんじゃないか?と甘〜い考えを待っていました。
その日の夜に出たM-1の結果は言うまでも無く二組とも惨敗。奇しくも健康浪人兼好の前に出ていたコンビがアマチュアで珍しく通過していました。

9月、3組目となる即席コンビでM-1に出ました。前2組が落ちてはいましたが相方は天才だし台本はいいしで、ここがぬるっと通過する可能性は高いと思っていたのでいつになく本気でした(いつもそうですが)。あろうことか予選当日の昼まで旅行で長野にいたのでそのままの足でM-1会場に直行しました。両手いっぱいに果物を持って渋谷のシダックスカルチャーホールに特攻しました。

本番15分前というギリギリの時間までネタを変更・調整してそのまま舞台に出ました。出来自体はノーミスで上々でしたが会場のウケはあんまりでした。右端のギャルだけ爆笑してました。落選。

この時期から自分が何もできない人間だという思いはどんどん強くなっていきました。お笑いのみならず勉強もできず、かと言って人と楽しめる趣味もない、遊びすら満足にできない、自分が1番恐れていた、なりたくなかった人間になってしまったと感じていました。お笑いの外部ライブは基本0票最下位。賞レースは当たり前ですが全部1回戦落ち。勉強は「とりあえずサボらずやっていれば知能に問題がない限り下回らないライン」を超えることはありませんでした。
何故か人は見放すことはありませんでしたが自分で「努力」したと思っていた部分が文字通り全く報われないまま時間が過ぎていき、もうお笑いも大学もやめようと思いました。しかし考えてみたら、お笑いをやめたら何も打ち込むものがない大学生、大学を辞めたらただの人になるだけです。そこで人生が終わるわけではありません。今辛いだけなら逃げて環境を捨てれば良いだけですが、自分の能力の無さと今後一生付き合っていかなければならないことにとにかく腹が立ちました。
当たり前ですが自分からは死ぬまで逃げられないのですが、それは理不尽だと思いました。普通に生きたいだけなのに順当な報われ方もせずただ「存在している」以上のプラス評価がなされないまま、今までと同様今後も生きていかなければならないのは不公平です。自殺なんて全く考えてませんでした。報われてないまま、借金を返してもらってないような状態のまま人生を打ち切りにするくらいなら生まれない方がマシです。

東京で最凶と呼ばれる縁切り神社に行き、そこで絵馬を買って「自分の性格と縁が切れますように」と書いて有り金を賽銭に入れてお願いしました。「『自分』と縁が切れますように」とお願いしたのはこの半年で何回目か分かりませんでしたが、もう最後にしようと思い1番強いお願いをしました。これでダメなら人生が一生我慢の時間になる、と思い、ある程度必死でした。お笑いの合宿前日のことでした。帰りに近所の公園に行ったらものすごい綺麗に見えました。

9月半ばに行われた合宿中はとにかく楽しかったです。大喜利をやってみたら意外と楽しかったり、コピー漫才をしたり、でも大半の時間はBBQをしたりただただ楽しいだけの遊ぶ時間でした。翌週にはお客さんを入れた大きな部内ライブがあったのでとにかく楽しみでした。

合宿翌日、東大の進学振り分けで僕は第一希望だった法学部に進学が決まりました。嬉しさも束の間、夕方に喉の痛みが走りました。コロナでした。ライブ当日、僕は家で謹慎しながら法学部科目の予習をしてました。不思議と辛いとは思いませんでした。

10月、法学部授業が本格的に始まるや否や4組目となるM-1予選への出場をしました。9月にやった万和くんが組んでる本コンビに僕が入ったトリオの漫才です。台本はいつものことながら練られまくってる良ネタでした。ここまでのM-1予選でやったネタとは全くちがうものだったので、枠的にワンチャン通るのでは?といつものように甘い考えを持って挑みました。その日は僕らはおろか、110組以上受けて5組しか通らないという最悪の日でした。

法学部の授業は覚悟していた以上のハードさでボロボロになり、お風呂にも入れない状態で大学に行くようなことも増えていきました。10月半ば、月末に他大学との対決ライブがありそこに出るためのオーディションが部内で開かれました。僕は健康浪人兼好で参加しました。

相方のあどばいざんはいつになく気合が入っていました。普段は熱心にネタ合わせする感はそこまでない(すみません)ので思わず「なんでそんなに今日気合入ってるんですか?」と聞きました。
すると「今までは『勝ちたい』だったけど今日は『負けられない』っていう思いが強いから」と言ってました。オーディションに参加するのは後輩の1年が多く、そこに2年3年のコンビが実力で負けるわけにはいかないということだったのでしょう。ネタは今までで1番難しく複雑でしたが1番面白いと個人的には思う、このコンビでできる最高のネタだと思いました。プレッシャーなんかでパフォーマンスが落ちたら勿体無い、と思いとにかく練習を繰り返しました。自然に言葉が出てくるくらいまで何度も。

オーディション本番、ネタを飛ばしました。落選しました。相方の顔は見てません。この時に何を考えていたかもあんまり覚えてません。家に帰ってとにかく明るかったのは覚えています。もう笑論法はそんなにコミットしなくていいかな、と思ってました。

翌朝以降は地獄でした。一気に自己嫌悪が募り何もできなくなりました。来週の部内ライブはどんな顔して出ればいい?とか、笑論法辞めたらおれはこの先何に打ち込めばいい?とか、自分のことばっかりでした。健康浪人兼好の相方にはラインで謝りました。電話はできませんでした。ライブは今月お休みしましょう、とだけ伝えました。


10月末の部内ライブはもう行くのもやめようかと思っていましたが、赤福チャイムでは漫才をやることが決まっていて、かつ万和くんがM1に出たトリオで参加すると言ってしまったので行かざるを得なくなり、参加することにしました。明らかに元気のない僕の顔を見て先輩の高橋さんが心配してました。よりによってお笑いのライブで元気のない顔をして人を困らせてる状態に自分がなってると知り、まるで他人事のように「そんな奴死ねばいいのに」とか思ってました。

10月ライブトップバッターは赤福チャイム、M-1に落ちたその日から作り始めていたネタでした。上々の出来でした。今までの中で1番狙ったところがウケており、かつ無理もない、とても二人にあってるネタだと思いました。他の人からも悪くはない評価でした。1番ネタに厳しいはずの副代表が「トップだけどすごい盛り上がった」と言ってくれました。

しかしその後にそれを遥かに上回るコンビが大量に出てきました。誇張抜きでこの10月ライブは全体として過去最高の出来だったと思います。とにかく圧倒され続けました。後半に出たトリオの漫才はメチャクチャちゃんとウケました。同じ万和くんが作った台本なのに今までと反応がここまで違うのは何故?と思いましたがとにかくよかったです。このライブを出て、やっぱりもう少しだけ続けようと思いました。ライブをやらなくてもこの人たちの近くにいないと損する気がしました。

翌週、赤福チャイムの相方の笠原くんから連絡がありました。『学生お笑いNo.1決定戦』という大会で決勝に残ったというのです。嘘でしょ?と思い確認してみると確かに赤福チャイムの名前があります。準決勝では完全に勝負に出た挑戦的なネタをやりました。正統派のネタでは勝てないけど狂気だけなら誰にも負けない、その狂気と愚直さが100%出たネタでした。普通はこのネタでは通らないけどこれでダメならもう何やってもどうせ無理だから仕方ない‥と思ってやったネタでした。
ようやく初となる外部での勝ち星を挙げられました。

翌月11月からは駒場祭の準備が本格的に始まりました。僕は笑論法、多浪交流会に加え、東大藝大交流会というサークルでも企画副責任者をやっていたので準備・登録などで忙しい日々が続きました。家に帰らない日も出てくる中、問題が起きました。駒場祭1週間前、母親がコロナになってしまったのです。帰ってくるなと言われました。直前のこの時期、濃厚接触で自宅謹慎をすることは致命的でした。友達複数人の家に泊めてもらいながら授業を受け、ネタ合わせをし、企画登録をしました。ようやくお笑いも流れがのってきたのです。ようやく報われ出したこの時期に余計なことで手間を取らせるな!と怒りでいっぱいでした。母親を心配する気持ちなどありません。とっくに人としてのモラルは失ってました。

駒場祭2日前、自宅謹慎が解ける時期にようやく家に帰りました。が、詳細は書きませんがここで父親と大喧嘩しました。「出てけ」とまで言われ、再び荷物をまとめて出ていきました。しかし、もう行く宛はありませんでした。終電もすぎ、もう今年百回はお祈りに行ったであろう近所の神社に賽銭を投げ呪詛のように愚痴を吐きました。弟からラインがきました。玄関でなら寝られるから気づかれないよう帰ってこい、と。帰ったら布団が置いてありました。もうとにかく自分が情けなかったですが、元々自分は屑なんだから今更こんなことで情けないとか思う必要もないよな、とか思いながらぐっすり寝ました。翌朝は早めに出ました。

駒場祭前日、テントの設営は多浪交流会は何とか建てられ、東大藝大交流会は二人しか人がいなかったので途中まで二人でものを運んでいました。諸々の準備が終わらなすぎて発狂しそうでしたがなんとか終わらせ、急いで駒場から池袋に向かって相方とネタ合わせをしました。M-1の準決勝進出者の発表を見て再び発狂し、そのまま相方と夕飯を食って家に帰りました。帰る途中、喧嘩した父親からメールが届いていました。

「忙しい時ほど自分の都合を捨てて人と接しないと目が曇って相手が見えず場が動かずうまくいかない。ひとにやさしく。」

この半年の自分のダメなところを総括するようなアドバイスでした。悔しさも感じませんでした。俺は何やってんだ、と思いながら帰りました。

家に帰ると家族は温かく迎えてくれました。母親は特にコロナの症状もなく、既に陰性でした。その日も玄関で寝ましたが駒場祭当日の準備も済ませいつもよりぐっすり寝られました。

迎えた駒場祭当日1日目、この日は多浪交流会に終日いました。初日はまずまずの売り上げで150冊くらい売れました。
2日目、午前中は笑論法のライブでした。しかし多浪交流会のテントの立ち上げに人が足りず、おまけにお釣り入れを持ち帰った副代表が寝坊してしまったのでみんなでお釣りを出しつつ調整しなければならず、なかなかテントから離れられずギリギリの時間に会場に入りました。

笑論法ライブでは赤福チャイムと健康浪人兼好で出ました。共に超自信作でした。赤福チャイムでやるコントは本来9月末にやろうとしてたもので、設定を相方が考えて僕が超絶賛して、それを元に台本を僕が作り相方が超絶賛するという過去一自信があるネタでした。
健康浪人兼好は10月の惨劇があった後、「二人でネタを作ろう」と相方に言われました。今までは相方のあどばいざんがネタを100%作っていたので今回はお互いにネタを出し合ったらやる時に無理がないんじゃないか?とのことでした。そして、相方に「せっかくだから多浪を使った漫才しよう」と言われました。個人的にはここまであえて避けてきた『多浪漫才』、多浪コンテンツに頼らずともネタは作れる、という思いがあったせいでしたが過去最悪のスランプに陥ってる今そんな寝ぼけたことを言ってる暇はありません。とにかく藁をもすがる思いで多浪エピソードを提供して、そこからネタを作りました。

ライブ当日、東大の教室には立ち見が出るほど人が入りました。緊張してたら笑論法の先輩、高橋さんから「気負いすぎだよもっと楽しまなきゃ」と言われ、もう怖いものなしの気持ちで楽しもうと思いました。

前半ブロックのトリで健康浪人兼好の多浪漫才。最初からしばらく落ち着いた時間が続き、最初の大ボケで撒いた火薬が爆発するかのようにウケました。聞いたことないくらいの笑い声でしたが調子に乗ることなく、とにかくこういう時こそネタを飛ばしたりミスらないように慎重に進めました。結果は大成功。ツイッターで書いてくれる人や、午後に多浪のテントで「多浪漫才みました!メッチャ面白かったです!」と言ってくれる人がいるほどでした。目頭が熱くなりました。

後半での赤福チャイム、実は部内でのネタ見せができぬまま本番に披露したネタでした。最初に長ーいナレーションがあって、明転と同時にネタバラシでしっかりウケました。設定から見せ方から展開から、何から何まで僕のやりたいことが全部詰め込まれたネタでした。こちらも大成功に終わりました。後で見返した時、部員たちの笑い声が入っていてとても嬉しくなりました。

午後は多浪交流会でテント販売、途中朝日新聞社の方から取材を受けて、それが翌朝テレ朝のニュースになりました。この日は300冊以上売れ大成功でした。

最終日となる3日目、午前中は笑論法でLove-1グランプリ(愛をテーマにしたネタで勝負する大会)という珍奇な企画があり、赤福チャイムで参加しました。結果はまさかの準優勝。一般のお客さんよりも部内メンバーが圧倒的に笑ってたのが(良いことかは分かりませんが)嬉しかったです。かと思ったら一般のお客さんでも一人拍手笑いしてる人がいて胸が熱くなりました。

午後の最終ライブ、昨日以上に人が入る中同じネタをしました。健康浪人も赤福も昨日以上にウケました。赤福に関しては冒頭でトラブルがあったものの一切問題なく進められました。トラブルもネタ飛ばしも怖く無くなっていました。


駒場祭が終わって、今年初めて「頑張ってよかった」と心から思えました。辛い辛いと言ってきても周りが見捨てなかったから、支えてくれたから駒場祭も全ての企画で大成功できました。そしてこの一年辛いながらもずっと耐えられたのは、お笑いという頑張るものが一つ芯として残っていたからです。ここを捨てたら何も感じない生活になってしまう、そう考えてしまってやめる決心がつかなかったことが、こんな形で花開くとは思いませんでした。


駒場祭終了後、健康浪人兼好では漫才を続け、赤福チャイムは成功した経験も多いからコントに絞ろうか、と話をしていましたがここで嬉しいサプライズがありました。『大学生M-1グランプリ』で赤福チャイムが一次審査を通過し、350組中30〜40組しか残らない二次審査に進んだのです。漫才もやらなきゃいけなくなった、と相方とネタを作っています。

来年は健康浪人兼好で同期ライブに呼ばれ、赤福チャイムでは高円寺とかの地下を荒らしまわる謎賞レースの妖怪になりたいです!

以上!

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