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努力が報われない皇室という世界!同世代の雅子さまを勝手に分析してみた

私は1964年生まれ。雅子さまは1963年生まれ。1歳上の先輩だ。(学校は全然違うけど)そのせいか勝手に親近感を感じている。

恵まれた職場環境

雅子さまも私も、男女雇用機会均等法が施行された頃に社会人になった。
頑張れば女性も男性と同等に仕事をさせてもらえる時代に入り、同年代の大卒女子は、とにかくガツガツと仕事をした。

それでも多くの女子は、男女雇用機会均等法なんて看板だけで実際は会社のアクセサリーにすぎないことを、働き出してすぐに実感したものだ。

そんな中、雅子さまは外務省の職員に、それも花形の北米局に配属された。もちろん、超優秀であったからなのだろうが、そこにはお父様の経歴もあったのかもしれない。

しかし、雅子さまは決してお飾りなんぞにならず、凄まじいパワーで働いた。おそらく、男女雇用機会均等法だの男性と同じように働こうだの、そんなみみっちい考えは端からなかったに違いない。仕事をすることにおいて男女の区別があろうなど、想像すらしていなかっただろう。

多くの女子が、望むと望まないとにかかわらず、現実として男女差別を突き付けられるのに対し、雅子さまが身を置いた社会は、ひどく高度でリベラルな世界だったのだ。

恵まれた家庭環境

雅子さまのお父様は外交官。各国を渡り歩き、雅子さまも幼少時からいろいろな国で生活された。我々一般大衆とは違うハイレベルな生活環境で過ごしてきたのだ。

きっと、つらい思いも数々経験してきたに違いない。しかし、それを乗り越える強靭な知性と、豊かな感性を身につけられた。結果、ご自身も外務省の外交官に登り詰めたのだ。

たぐいまれな努力家

雅子さまはもともと頭がいいのはもちろん、それを上回る、ものすごい努力家なのだと思う。その努力も息も絶え絶えやるのではなく、まるで呼吸するかのように当たり前にやるのだから嫌みがない。

ここでちょっと卑近な例を。私の知り合いに雅子という名前の女性が3人いるのだが、3人とも努力をしていることを人に感じさせない努力家で、しかも、とても行動力がある。

普通なら「大変だな」「面倒だな」と尻込みしてしまうようなことでも、前進するために必要と思ったら、‘雅子さん’はやるのだ。周りが「えっ?」と思っているうちに、ニコニコとやり始めてしまうのである。

皇后雅子さまにも同じものを感じる。愛子さまの公園デビューも、学校への御付き添い登校も、「前へ進むために必要」と思ったからこそ、やったのではないか。「皇室だから」とか「前例がない」とか関係なく、自分の考えで行動したまでのことなのだ。

姓名判断家ではないからわからないが、「雅子」という名前にはそうした気質があるような気がする。


努力が報われない皇室で人生初の挫折を経験

頑張り屋で前向きで行動力のある雅子さまは、小さい時からとてつもない努力を重ね、結果として望んだ果実を手に入れてきた。
しかし、裏を返せば雅子さまは、「正攻法の努力が通じる世界」に生きてきたともいえる。

世の中には家庭環境等のために、どんなに頑張ろうにも底辺から這い上がれない現実を突きつけられる人もいる。

雅子さまは皇室に入り、初めてこうした現実にぶち当たったのではないか。これまでの努力が一向に通じない、自分の力が及ばないという、人生初の挫折を味わったのではないか。

それが、お世継ぎ問題である。

まじめな雅子さまは、自分の努力が足りないと深く悩まれたに違いない。こればかりは不可抗力でどうしようもないのに。

にもかかわらず世間は雅子さまをバッシングする。
国民なんて薄情なものだ。弱っているものをさらに叩くのだから。

こうして雅子さまは挫折から絶望というものを知ったのだろう。


愛子さま誕生も不遇の時代が続く

その後、愛子さまが誕生した。
男子ではないが、絶望を経たのちのお子さまの誕生に、心の底から喜ばれたのだろう。記者会見で涙を流された。

しかし、その後も雅子さまへのバッシングは続いた。お后の最も重要な任務を果たしていないことに。

それってあんまりじゃないか。雅子さまが悪いわけじゃないのに、どうして雅子さまが責められなければいけないのだろう。

論理的な思考に長けた雅子さまだからこそ、このあまりにも理不尽な現実に、なすすべもなく力尽きてしまった。帯状疱疹、適応障害と続く、長い長い不遇に時代に入ったのである。


皇室の雅子さまは羽をもぎ取られた鳥

普通の人間なら逃げ出すか、自殺してしまう状況を、雅子さまはもう何年も何年も耐えて、努力を続けている。

私には雅子さまが羽をむしりとられた痛ましい鳥のように見える。

もしも皇室に入っていなかったら、その羽できっと大空を羽ばたいていたことだろう。それだけの知性と力を備えた方なのに。理不尽な伝統と国民の容赦ないバッシングがその羽をもいだ。1人のとても有能な女性の命の源泉をもいだのだ。私の目にはそのように映った。


時代の苦しみを身代わりとなって受ける

長い時間が過ぎた。
絶望は雅子さまの根底を覆した。
それまでの、能動的で主体的な雅子さまの人生が変わった。

思うに皇室という場所は、100%受け身を強いられるところのように感じる。
1人の自律した人間として、自分の頭で考え、行動することが許されないところなのだと思う。

何せ天皇は、戦後ようやく人間になれたのだから。当り前の人間として生きることが禁じられているのが皇室なのだと思う。

では、皇室の人間とは何なのかというと、その時代の国民の苦しみを自らの身に引き受ける存在なのではなかろうか。

代受苦という仏教用語がある。仏さまが大衆の苦しみを代わりに自ら受けることだという。皇室は国民の苦しみを身代わりとなって自ら引き受ける代受苦なのだと思う。

雅子さまが心の病にかかっているのは、平成以降、時代がメンタルに主眼が置かれるようになったことを象徴している。程度の差こそあれ、誰もが精神の問題を抱えるような時代になったのだ。

国民の苦しみをあえて自らの身に受けることで、雅子さまは皇室として役目を果たそうとしているではなかろうか。絶望を経て雅子さまは、新たな受け身の形を見出し、能動的に受動態たらんとしているのではないだろうか。

雅子さまはこれからどうなっていくのだろう。同世代としてその生き方が非常に気になる。できればもう一度大空にその羽を羽ばたかせて舞い上がるところを見てみたい。

コロナ禍で難しい対応を迫られているが、だからこその発想の大逆転を見せてほしい。その類まれな知性と行動力で、どうぞ前例を打破し、新しい開拓の1歩を踏み出してほしい。

きっと雅子さまならやってくださるはず。
これからも雅子さまをずっとずっと見守って応援していきたい。

雅子さま、フレ~フレ~!



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