【合同誌再掲】輝き、っていうか【カンメラーのリスト】

前書き


ちょっと前から《カンメラーのリスト》というサークルに所属していて、この間の文フリで合同誌『カンメラーのフラスコ』を上梓しました。
その中で私が書いた短編です。三題ネタテーマは「酒瓶」「ほら」「営み」です。
(6つから3d6して選んだので私が選んだわけではないです)
楽しく書けました。皆さまもお楽しみいただければ幸いです。
では、本文どうぞ。

『輝き、っていうか』

 彼らは生きるのに最低限必要なものしか送ってくれないから、日々目覚めるとき最初に感じるのは薄い敷布団越しに跳ね返ってくるフローリングの固さからくる痛みだった。ただ、それだけに過ぎなかった。起き上がって同じ敷布団の上に座っていると、灰色をした豆腐みたいな私の部屋に吸い込まれるみたいに痛みは消える。何の滓も残さずに。だからその痛みに対して、一日の始まりという以上の感慨も不快もなかった。
 一時が万事、私の命というのはこの部屋のように灰色だった。勝利の美酒に酔いしれたことも、辛酸の苦杯を重ねたことも、記憶の限り一度もない。
 だから、なのだろうか。部屋中に転がっている空き瓶に対して、私は何も感じていない様子だった。
 感傷を肴に盃を傾けたことも、積年の恨みを飲み干すように瓶を空けたことも、記憶の限り一度もない。
 つまり私は、これだけ飲み干したはずのアルコールやそれに類する毒物に対してすら、毛程の思い入れもないということなのだろう。
 それがたとえ、ここに暮らしてきた年月の積み重ねそのものだとしても。
 それがいっそ、私が存在するただ一つの証明だとしても。
 私がそれに対して思うことは、踏みつけて転ばないように足でどかすくらいだった。のけられた空き瓶は甲高いんだか低いんだかよくわからない、不服そうな音を立てた。それも次の瞬間にはくすんだ密室に飲み込まれるだけだ。
 わずかに扉を開ければ入り込んでくる、都会の喧騒に飲み込まれて消えるくらいの、微かな不平だった。

 外を見るのは一週間に一度、と決めているのは、『Deli-Value』がくる配達の周期がそれだからだ。これに応えないと結構面倒なことになる、と最初の週に学んだのだ。配達先の人間が死なないように、死んでしまっていたらそれ相応の対処をするように。Deli-valueのサービス担当はそういう訓練を受けてでもいるのだろう。彼ら、その時は彼だった。そいつが扉を蹴った跡はとても大きく凹んでいる。
 一方で、彼らは筋力以外のコミュニケーションを取らないようだった。Deli-Valueのサービス担当は、そういう決まりでもあるのか、一様に一言も口を利かない。
 それは気楽でよかった。ドアの隙間から垣間見えているはずの空き瓶の山について詮索されると面倒なのは確かだった。
 今週は、月初らしいことがわかる。配達品の中に、たくさん転がっている分厚い瓶が中身を伴って混ざっていたからだ。顔を上げるとサービス担当はいなくなっていた。この一フロアに五十部屋近くある共同団地の長い廊下において、音もなく私の視界から消えることについては、とうとう何も考えなくなった。彼らはこれを運んでくる。私はそれを飲む。それ以上の心配事は何もない。
 これは、というより、これが大切なのだった。
これが必要だった。どこにも、行かないで済む。

 遠く、遠く、思い出せるわけもない昔の、誰かの腕の中にいるかのような優しい揺れ。かすかに鼻に届く、何もかもを飲み込む磯の香り。海はいい。自分が何者だったか、どんだけ愛されていたかを思い出させてくれるから。だけどそれは同じだけ辛い。つまり、生きている今の俺は、そんな大層に愛されるようなもんじゃないってこと。
 とびきり重い樽に抱きついて眠りこけていたのを見つかったことで、首を落とされなかったことは幸運だった。なんせ売り物だ。それに手をつけようなんて、俺の命なんかじゃ幾つあっても足りやしない。
 あの樽の中には、神様の血が入っているってもっぱらの噂だ。だとしたら俺みたいなどうしようもない連中が触れ難いのも、全くしょうがないことだと思う。しかしこうも思う。神様の恩寵っていうのは、俺みたいなどうしようもない連中にこそ、浴びるように注がれるべきなんじゃないのか。
 
 この神様の命を運ぶという命運に比べたら、もしかすると俺たちより偉い奴らだって、木っ葉の一枚のようなもんなのかもしれない。たとえば俺を起こすために顎を蹴り飛ばしやがった水夫の一人とか、それをゲラゲラ笑い飛ばした眼帯野郎の船長とか、あるいはこの船ですらも、ものすごく矮小なものなのかもしれない。この船を仕切ってる商会、なんて言ったか……、『神命海運』っていう連中ですらも、もしかしたらもっとでかい渦の中の何かでしかないのだとしたら……。
 とか言ったものの、そのからくりに迫るのは、どうやら俺みたいな雑魚では無理そうだ。
 俺は、ただの下働きだ。安いラム酒の香りを嗅ぐのが精一杯の、小汚いやつさ。

 ついてねぇや。っていうのは戦場にいる誰でも、口走る可能性があるし、その時のことを考えたくないものだけど。
 胸ポケットに入れてたミニサイズのスキットルに思いっきり穴が空いちゃった。咄嗟に撃ち返した弾が、この勿体無い事象を引き起こした張本人の頭を吹っ飛ばしたのは見届けた。それだけで溜飲がちょっとだけ下がるっていうものだ。
 ……まぁ、真正面から撃たれたから跳弾も期待できないし、相手もライフルだったからスキットル程度の薄い金板じゃあ弾は止まらないわけで。胸を貫通した弾丸の行方を見届けるところまでは、流石に膝がもたなかったな。ついてない。生き死にの境は紙一重で、あっけなく踏み越えられちゃうもんなんだな。つくづく、ついてねぇや。超痛い。

 命を運ぶ仕事をしている、とは私たち民間軍事会社の建前としてよく言われることだった。どこに運んでいるのか、っていうのがジョークの種になったものだったな。神様のところ、っていうのは落第、ケツから銃口突っ込まれてガタガタ言わせられても文句言えない奴。ラスベガス、とかシリコンバレーとか、いろいろ答えはあったけれど、いまいちピンと来なかった、んだけど。
 今、もう動かない体を投げ出して、大空を見上げて、残りわずかな呼吸を数えながら、胸を刺すような痛みを感じてると、この上ない答えが浮かんでくるような気がする。
 何せ、今。私は心臓からバーボンを飲んでるんだ。決して上等とは言えない支給品だし、体を温めるにしてもちょっとだけ物足りないようなクソまずい慰労品だったけれど。
 私たちPMCの兵隊にとってはそれが血液だったし、仲間と笑い合った証だったし、それが消えていったことに対する涙だったし、それを燃料にしたウォークライだった。
 それを私は今、私たちの誰よりも一番、体の近くで感じてるんだと思うと、ここで退場するのは多少悲しい思いはあったけれど、それ以上に喜びの方が勝ったものだった。
 血を噴くのがわかっていながら、笑いを堪えきれなかった。喀血が視界を、体温を奪い、暗闇へと私を落としていく。
 それでもこの高揚は。これだけはきっと。
 私たちの誰でもない、私だけのものに違いない。
 命はどこに運ばれるのか。オーマイガ。そんなもんのところじゃない。
 それは、私だけのものだ。ざまぁみろ、『ピースメーカー株式会社』殿。

 クソまずい酒だ、と思いながら何度となくグラスを傾けたものだ。
 高層ビル群をすら見下ろすほどの高さに、我が社の誇る電波塔が戯れに開放しているレストラン街並みの設備の広場。それすら遥か足元に置く特設VIPルーム。エレベーターの行かない階。愚民の知らない秘密の部屋。そこにわざわざ通しているというのに、目の前の男ときたらうだつの上がらないことこの上ない。
 私の手元にはボタンが一つあり、それを押すと正面の椅子の下にある床が開いて落ちるようになっている。流石に地上までは落ちない。私たちも有情だから、落下の恐怖は短時間で済むようになっている。
 何人をこうやって、ここに招き入れて、お別れしたものだっただろうか。
 もう数えるのもやめてしまったけれど、こうしていて面白いと思ったことは一度もない。

 私たちが届けているのは、結局何なのだろう。
『ハッピーウェーブLB』が発信する電波は、この電波塔を介してとても遠い場所まで届く。どこまで? この電波塔の送信範囲は、全世界。誰もここから発信される電波を避けては歩けないし、もはや誰も避けようとはしていない。
 私たちの電波は、何を届けているのだろう。
 社名に冠した「幸せの伝播」だと、社員たちは即答するに違いない。なぜなら彼らもその傘下にいるから。
 しかしここに確かな反証がある。そのど真ん中に座っている私が、こんなにも退屈なのは一体なぜだ。
 この電波はどこまで届いているのだろう。
 全世界だ、と取締役も即答するだろう。なぜならそれを保証するのが彼らの仕事だから。
 しかしここに確かな反証がある。少なくとも私には、そのハッピー電波は届いていないように思える。
 すごく、退屈だった。ボタンを押す指に、力が入りかける。
 実は、ボタンはもう一つあるのだ。客が不躾で礼儀知らずで、着座する席を選びたいと言い出してもいいように、反対側にも同じ仕掛けがしてある。
 それを思った瞬間。そのたった一瞬だけ。
 心音と、グラスにはったシャンパンの波紋が、呼応するように高鳴った。

 『Deli-Value』が持ってきた瓶を開けようとしたまさにその時だった。それが砕け散って、私の指を鋭く切った。
 傷は深かったが幸い小さく、大きな出血には至らなかった。血が垂れ落ちないように指を咥えて絆創膏を探そうとしたその時、異変があった。
 部屋中を埋め尽くしていた酒瓶が、綺麗さっぱり消えていた。
 連中が運んできた荷物も無くなっていて、ハッと目をあげた私が瞬きをした瞬間に、灰色の豆腐みたいな部屋も消え去った。
 途端に、あまりの眩しさに目を閉じるのだが、目を開けるのが怖かった。
 だって、そこには私が酒に溺れながら夢に見た全てが、あって。
 でも瞬きする間に消えた灰色の悪夢と同じように、それが消えてしまうのではないかと恐ろしくて仕方なくて。
 叫んだ私を、しかし抱きしめてくれた誰かがいてくれたから。
 私は、目を。

 二度目の居眠りに対する制裁は容赦なかった。俺だって眠りたくて寝てるわけじゃねぇんだ。畜生ども。そう叫ぼうとした顔面に、ラム酒の硬い酒瓶が容赦なく叩き込まれて、歯が折れた。
口の中が鉄臭い味で満たされた、その時だった。海の荒くれ者どもが挙げていた怒号が、ぱたりと止んだじゃねぇか。
目を開けるのが、正直恐ろしかった。だってこれで目を開けて、何も見えなかったら。
俺は死んじまってる。そうだろ。
だけれど、俺を優しく呼んでくれる人の声がしたから。
手を取ってくれた人がいたから。
俺は目を開ける前に、大声でその人のことを呼んだんだ。そうしたら暖かな手で、まるで漣のように俺を撫でてくれたから。
俺は、目を。

でも、癪だよなぁ。
こんなに真っ青な空を見上げているはずなのに、気持ちいい蒼穹を見上げているはずなのに。私のものが私のものになっているはずなのに。
この目が開かないっていうだけで、私がこのまま失われてしまうっていうのは我慢ならなかった。
ただそれだけのプライドで、私は思い切り目をこじ開けたんだ。
傷の痛みすらもう感じないほどの鈍麻の中で、私が私たるものはただそれだけで。
だけどそれだけのためだけに、私は力の限り目をこじ開けた。
叫んだ。ほとばしる心の奔流のままに喚いた。私はここにいる、私が私たるものはここにある。
だから、私は目を。

 我が社のプロダクトは全く完全に機能していたことを、私はこうして落下して初めて知ることができたのだった。
 幸せ、だった。そうかもしれない。体を重力の虜にしてから、痛みも風切り音すらも感じることはなく、無限とも思える瞬間を、確実な終わりに向けて落ちていくことができた。
 しかし、どうだ。ここに確かな反証がある。重力加速度によって加速しているはずの私の体が、意識が、失われるまでの時間が長すぎる。
 寒さに痺れたのか、暖かな気配すら感じる。何が起きている。
 私は戸惑いながらも、目を。
 見開いた。

「また元気に泣いてるわね」
「元気な子に育つよ、きっと」
 女の子だった。生まれ落ちた時には未熟児でありながらすくすくと育っている。
 その歓声に呼応するように、ラブラドールレトリバーが大きく一声鳴いた。

 それで震えたのだろうか、カラン、と氷の落ちる音がした。
 陽の光に照らされたその輝きは泡沫。溶けて消える幻。
 あとは、やがて大きな河に還るだけ。

 だから、この話はこれでおしまい。
 その歩みが遅かれ早かれ、命を運ぶ河の、ほとりを歩く私たちには。
 まるでありふれている他愛もない話だから。

営みとホラと酒瓶の話


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