見出し画像

裏社長室(第7回配信)を見て、考えたこと、感じたこと。

隔週水曜20時配信、緒乃ワサビさんの「裏社長室」(第7回)の感想等です。

「母には捨てられ、父には、子として愛してもらうどころか、人としてすら認めてもらえなかった。」

「私は、人であるということすら、許されないの。」

振り返った凛の目からは、滂沱の如く流れ落ちる、涙。

「先生…私を助けて…」

神格化された孤高の美少女は、完璧という言葉を体現したかのようなその美少女は、偶像ではなく血の通った、一人の人間の女の子だった。

ずっとずっと昔から、誰かからの救いの手を求め続けてきたのだ。その手が、私のもので足りるというのであれば、私は君を―

「私だって、トイレに行きたい…!」

……休み時間に済ませばよかろう。緊張した空気が、一気に弛緩した。あまりのばかばかしさに、説教でもしてやろうかと思ったが、そうした情熱もまた、瞬く間に消え失せた。
そもそも私は、一介の非常勤講師だ。教師ではない。生徒の人生に向き合うことは、教師の仕事であって、私の仕事ではないのだ。

柄にもないことをした。凛も、波多野秋房の娘というだけで、神でもなければ、昭和のアイドルでもない。所詮はただの子供だ。当然、大便だってするだろう。
子供の心の内側の問題に、大人が真剣に向き合うべきではない。凛に抱いていた感情が愛だったのかどうか、今となってはどうでもいい。

渡辺と飲みに行こう。

ひとつ物事を割り切った私の心は、少しだけ晴れやかだった。

          *

今回の配信は、なかなかぶっ飛んでいました。見どころは何と言っても、31分あたりからです。「風邪をひいたら誰に看病されたい?逆に誰を看病したい?」という話から、いろいろあって「凛は、かくあるべき」論へ。
凛が凛であることを望む一方、その道に外れてしまった凛に対する緒乃さんの糾弾が、これまた実に手厳しい。いや、笑い話ですけどね。おかゆが不味いとかお漏らしのくだりは、ゲラゲラ笑いながら聞いていました。

ラプラシアンにもう一人ライターがいたら、「緒乃ワサビVS波多野凛」を描いてほしいくらいでした。いや、本当に面白かった。美少女ゲームのフォーマットだったら、

波多野凛が一人で食事をしている。

・紳士的に同席を求める

・無視する

→「金持ちが庶民気取りであじフライなんか食ってんじゃねえよ!」と叱る

みたいな選択肢が出てきそうです。

緒乃さんのそんな攻撃にも、「そんな…私だって、好きなのに…あじフライ…」と言いながら、箸を止めて涙を浮かべるんでしょうね、凛は。

あ、やっぱり凛ちゃんかわいいわ。

はてさて、こうした考察を行うと、オリヴィアの、成熟した、まともな大人としての女性観が際立ちます。すももは、ある意味、男が抱く「かわいい恋人」を具現化したような女性なのでしょう。換言すれば、やることなすことの全てが、かわいい方へ転がる人、とでもいうべきでしょうか。

この件でひとつ、さすがだな、と思ったことがあります。祥子さんを看病するとなった場合の話です。祥子さんも、ゲームの中のキャラクターなので、若く綺麗に描かれていますが、実際は年が年ですし、化粧もせず、まして体調不良ともなれば、きっとシナシナになっていることでしょう。観察とは何か、ということを考えさせられました。

そういえば、出雲に看病をされたいというコメントが、チャットにはひとつもありませんでした。お二方の口からも、出雲という言葉は出てきませんでした。おかしいですね。

         *

スポーツに関しては、緒乃さんのような在り方は、決して少数派ではないと感じています。
さらに言えば、というか、少し辛辣な書き方をしますが、いまは前畑ガンバレとか、長嶋茂雄の時代ではありません。赤の他人の活躍が人に「夢や希望を与える」ほど、また、彼らに夢や希望を託さなければならないほど、自分たちは貧しくありません。

「感動をありがとう。」くらいの言葉がせいぜいでは、と思います。これが私の本音です。

自分がスポーツを見る(見なくなりましたが。)理由は、「人としての、特定の分野における、その到達点の高み」を見たいからです。
なので、国際大会でも、特に日本人だから、日本代表だから、ということで応援することは、一切ありません。

もう15年、20年くらい前、世界陸上の400mリレーで、日本が史上初の銅メダルをとったことに、実況や解説といった人たちが歓喜絶叫しながら大騒ぎしていましたが、称賛されるべきは、その日本チームを影さえ踏ませぬほどぶっちぎったジャマイカ代表であるべきだろう、と、猛烈に鼻白んだ記憶があります。これも私の本音です。

         *

次回テーマは「一生モノ」。ツイッターには上げたことがある気がしますが、自分はアメリカ靴とイギリス靴にはうるさいので、有名どころの革靴(基本的に自分の守備範囲はいわゆるドレスシューズなので、ブーツとはまたジャンルが違います。)は大体所有しています。

オールデンなら4足です。オールデンは、コードバン以外の靴も当然作っていますが、とりわけ優れた縫製技術などを持っているわけではないので、他の素材のものには、価格ほどの価値はありません。大きな声ではいえませんが。

それにしても、革靴の値上がりはえげつない。「975」という靴を買ったのは、90年代末期だったと思いますが、当時は、おそらく9万円台だったはずです。それがコロナ前には13万7千円になり、コロナ中に17万5千円、今は18万7千円になりました。まあ、昔はそんなに人気なかったんですよ。コードバン。

やはり大きな声ではいえませんが、昔の靴の方が、縫製は丁寧(縫いのピッチの細かさとかが違うので、比べてみてください。)だし、革質も概ね良好なので、誰かが履いた中古の靴、というものに抵抗がない方であれば、そちらの方をおすすめします。

話が逸れました。まあ、革靴の場合、一生モノとはいいつつも、革は、「死んでいても生きている」ものなので、やはり無理をさせると結構簡単に死んでしまいます。一生モノになるよう、丁寧に手入れしている、というのが実際だと思います。

むろん、そういうものだからこそ、「一生モノ」と呼ぶのだと思います。そういう愛着や愛情が、ありきたりな何かを特別な「一生モノ」に昇華させるのだと思います。

ちなみに、人から人へ伝わり、今は私の手元にある、44歳の革靴(フローシャイム製。フローシャイムの靴は、靴好きなら製造年月の判別が可能。なお、現存するフローシャイムとは別物。)があって、これは逆に、靴の方から見たとき、靴は靴で、「私は、誰かの一生モノでありたかったの…。」みたいなことを考えていたかもしれません。
彼女にしてみれば40歳手前にしてバツ2、都合3度目の結婚だったわけですからね。近況報告をすると、とても元気ですよ。

そう考えると、ヨーロッパの家屋には築300年にもなるものがそう珍しくないようで、家の方からすると、人の方が自分の一生モノにならなかった、ニンゲンは消耗品だからなぁ、みたいな感じでしょうか。まあ、どうでもいいのですが。

今回の配信は、今までにないほど「人間・緒乃ワサビさん」に触れる機会が多かったように思います。
冒頭、はずれテーマというような話もありましたが、蓋を開けてみれば大当たりでしたね。次回の配信も、楽しみにしています。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?