Discimus ut pugnemus

 セネカはNon scholae sed vitae discimus(我々は学派ではなく人生のために学ぶ)と言い、ニューヨーク大学クイーンズ校のモットーにはdiscimus ut serviamus(奉仕のために学ぶ)とあるが、僕はdiscimus ut pugnemus(戦うために学ぶ)と言いたい。

 もちろん、戦うことが人生だなんて思いたくないよ。
 仮面ライダー龍騎には「戦わなければ生き残れない」というセリフがよく出てくるが、これが真実だったら他のどんな言葉も残酷ではないだろう。

 人生は戦いのために存在する訳じゃないし、むしろ戦うために生きたら余計に苦しむだけなのだが、実際戦って生きる人は予想より多いらしい。
 こっちが望んでも望まなくても、向こうから戦いを仕掛けてくる、あるいは勧めてくる奴の何と多いことか。

 だから、学ばなければならない。何であれ、意義があると思ったこと全てを。
 実際に役に立つかどうかなんて考えてる暇はないんだ。何かを学ぶ、何かを極めようとすると、それは結局、自分自身の存在理由を問い詰めるものとなるから。

 明日僕は生きていないかもしれないという焦燥が常にある。今ある幸福は簡単に崩れ去るから。
 それでもこの命を限界まで尽くして、天寿を全うしたい(それも、生きさせられているという束縛なしに)。

 何かをするのは、それが人生の為になるかもしれないという希望があるからだ。この文章を書くのだって、もしかしたら理解してくれる人がいるかもしれない、とか、金を稼げるかもしれないという虫のいい目論見から来ているのです。

 絵を描いたり、歴史を勉強することだってです! これから世界がどうなっていくのか。変わり行く世界のなかで自分が自分であり続けるにはどうしたら良いか……その手段を見つけたくてたまらないんだ。

 僕にとって学ぶというのはそれくらい重い物なんだよ。
 漠然と教養を身につけたいからという甘い理由ではいけない。
 教養は誰かと和合するためのものでもなければ、ひけらかすものではない。それは心に慰めと助けをもたらしてくれるものだ。

 学ぶことは、生き抜くために必要な力を身に付けることであり、自分が自分らしくいられる道を見つけることだ。日常生活における様々な営みも、学びという側面を持ってる。
 古典を読むにもアニメを観るにもその目的は生きる力をつけるためだという強い意思がなければならない。

 無気力に過ごしてる、何も産み出さない瞬間なんて寸毫も持ってはならないのだ。