フクイ抄史

 フクイの歴史は、2281年、オーサカ軍の征服活動がシガ地方北部にまで及んだとき、当時ツルガに割拠していた部族長ニノミヤ・キヨミツが連合してヨゴでオーサカ軍を迎討って勝利し、人々の支持によって王となったことに起源を発する。このような経緯もあって初期のフクイは部族連合の趣が強く、結束力はあまり高いとは言えなかった。
 南への道をオーサカによって絶たれ、また北部には強くないが忠誠を誓わない少数部族が多数割拠しているという地理的環境から、フクイは陸を通して勢力を拡大することにはオーサカほど熱心ではなかった。その代わり、ニホン海が北に大きく広がっており、そこから東西に広く移動することができる。そこでフクイは海によって領土を広げた。2297年には船によってノト半島北端に上陸し拠点を建設。さらに数年後にはニーガタの沿岸に浮かぶハテノ島を占領。そこからニーガタでは現地の協力的な部族と組んで奴隷狩りを行った。この奴隷はキューシュー都市同盟やオーサカにも送られ、フクイの主要な外貨の収入源だった。

 2310年、フクイは北でアキタという国と接触した。このアキタは古代末期の文明を持っていたらしく、フクイ人史家の文献によれば空を飛ぶ馬や煙をあげて走る車の存在が示唆されている。
 ところが2326年、突然アキタは滅亡を遂げる。同年一月、ある漁師がアキタ沿岸に近づいた時、そこにあったのは鋼の城壁ではなく荒れ果てた瓦礫の野原であった。原因がなんであれフクイはその年が暮れるまでアキタが領有していた地域をそのまま併合しさらに北進を続け、ついに2346年にはホカイド島のハコダテに入城する。こういった海洋帝国としての政策が可能だったのは、当時フクイと通商を結び、先進的な技術を伝えていたキューシュー人の協力に他ならない。

 しかしその間もフクイは陸の脅威に常にさらされ続けた。実際シガのタカシマ地方の国境を巡ってオーサカ間で係争が絶えなかった。これが解決されるにはフクオカ市が寄贈した古代末期の地図に従って2325年に最終的な国境が画定するのを待たなければならない。
 その何よりも深い例が、2350年から2355年にかけて起こったフクイ・オーサカ戦争であろう。当時キューシュー都市同盟がオーイタ国と戦争をしていた隙をついてオーサカはフクイに大挙侵攻し、瞬く間に首都ツルガを占領。当時のフクイ王ニノミヤ・カネキはイシカワ地方に命からがら逃延びなければならなかった。この危機を救ったのが、サカキ・マコトというニーガタの奴隷あがりの武将であり、彼はわざと無能な司令官を戦わせて戦死させた後、ひそかにオーサカの首都に肉薄して最終的にオーサカ軍をシスカバで撃破し、フクイを勝利に導いたのである。
 カネキは戦後、イシカワとトヤマの国境に新都市テツカベを建設し、それまで手つかずだったイシカワ地方を完全なフクイの領土に組込むことに奔走する。サカキもホカイドに渡ってルモイ王国を討伐し、以降フクイの北進政策は急速に進展した。
 第九代フクイ王ニノミヤ・コーキチは2386年サハリン王ゲオルギーに国書を送り、互いを兄弟を呼びあうほどの親交を確立した。2402年にはフクイ軍はカミカワ地方にまで進駐するがあまりに遠く、また寒い環境だったために2414年撤退している。
 しかし2394年、コーキチの死後、フクイは兄弟、ミツハルとヤチヨの間で分裂する。ミツハルはフクイ周辺を支配し、ヤチヨはノトガワ以北を治めた。オーサカはこれにつけこんでヤチヨを支持するが、ミツハルはうまく立ち回って双方の攻撃を退けた。結局オーサカに亡命しようとしたヤチヨが自害したことでこの内乱は収束し、ミツハルはオーサカからさらにマイバラ地方の領土を削ることにも成功する。
 この際ホカイド防衛に功のあった臣下を多数処刑したのが、ホカイド喪失の遠因とされることがある。

 ミツハルの後ヨーヤが数年治め、その後を継いだメチャツォはニーガタを直接支配することを望み、遠征を始めた。だが内陸でメチャツォは戦死し、彼を討ちとった部族長はメチャツォの生首を演劇の小道具にした後、飽きると彼の髑髏で杯を造らせた。それが2416年のことであり、メチャツォが死ぬ少し前、二月三十日にはホカイド、サルフツ村に駐屯していたフクイ軍と農夫が年貢の量でもめて暴動が発展してしまう。これがきっかけでホカイド全体で反フクイ運動が始まり、アサヒカワ国を中心としてホカイド諸国が次々とフクイの征服した領土を取戻していき、2426年にはついにハコダテを奪還してホカイドから完全にフクイ勢力を締出したのである。ハコダテ城主クボタ・フルオの嘆き。「私も、私の父も、祖父も、この町にずっと住み続けて来た。あなた方が先祖伝来の土地と言ういわれがあろうか!」

 2460年、フクイはアキタを失う。ホカイドがフクイの領土でなくなっても、貴族層を除くフクイ系の住民は依然として居住を許されていたが、アキタでは徹底的にフクイ人は殺戮された。アキタはホカイドより支配されていた年月が長く、またホカイドからの難民がアキタに移住してますます搾取が直接的で、横暴なものであったから怨恨は非常に深かったのだ。

 ニノミヤ・サイモンは2492年に即位した時すでに五十を越える高齢で、子供もいない。遺言で代々フクイ王の重臣を務めたキヨノ家に王位継承権を譲ることを決定し、2501年サイモン死後、キヨノ・カスタが継いだ。戦乱がなく、また臣下が王を傀儡にしたということもなく、あまりに平和裏に進んだことから『円満禅譲』と後世呼ばれるように。

 キヨノ家はサイモンの博愛主義的な、フクイの内政を穏便に処理する方針を固守し、もはや大規模な戦争を行わなくなっていた。この時点でハテノ島もフクイ領ではなくなっている。そこでアキタ入植者を先祖に持つセキ・ジョージが政府にアキタ奪還作戦を提言するが聞き入れられなかった。そこでセキは先祖が搾取によって手に入れた大金によって軍備や兵士を調達し、2513年十一月、当時アオモリ国が統治していたアキタ沿岸に上陸し略奪の限りを尽くしたがすぐ困窮して山奥に隠れる羽目に陥り、半年後ヒロサキに連れていかれ処刑された。この事件はトーホク地方のフクイに対する敵意を増幅させるが、また彼らの団結を砕く一因にもあった。
 2540年、カントー国が大挙侵攻してオーサカを滅ぼす。見たこともない武器や鉄の馬車を持つカントー軍に恐れを為したフクイはヒロシマ地方への軍隊派遣に協力する旨を伝えて和を乞うた。

 しかし2544年、さらに敵を求めるカントー軍はフクイを襲い、間もなく首都ツルガを陥落させる。こうしてフクイは滅亡するが、最後の王であるキヨノ・シゲヒトはニーガタへ逃れ現地で王を称し、彼の国はホカイドからやって来たオシマ国に攻められるまで、さらに六十年ほど命脈を保ったのであった。