F湖の標

 しばらくぶりに実家に帰り、親の車を借りた。車を走らせ、国道から一本逸れた道に入った。ハンドルを切りながら視線を左にやると、何やら違和感がある。ずっと放置されている休耕田が広がるだけの殺風景な場所なのだが、記憶の中に増して殺風景に感じた。それが何の違和感なのか、しばし考えると、ひとつ思い当たった。

 そこにはある看板が立っていた。そして、その看板の記憶は、ある田舎町の騒動を思い出させるのだった。


 その看板は黒地の板に黄色と白の文字で「ごみ処分場建設反対」と書かれていた気がする。かつてこの町はごみ処分場の建設で揺れた。それだけならよくある話かもしれない。ただ、問題だったのがその建設予定地だ。「F湖」と呼ばれている場所だった。山あいの放棄された採石場の窪みに、滾々と水が湧き出して湛えた湖だった。採石場は下へ下へと掘り進められていたから窪みは深く、外周1㎞に対して水深は40m弱もあったらしい。その湖水を抜いて処分場にする計画だった。


 父に連れられて、自分も訪れたことがある。幼少の頃だから記憶はとても朧気で、事実と違うところもあるかもしれない。県道の脇に車が数台ほど停められる路肩があり、地元の有志が手作りした遊歩道入り口の案内板があった。そこから林の中に入っていき、しばらく行くとF湖にたどり着く。そこで木々の隙間から見える水面は鏡のように凪いでいた。周囲の深緑が青い湖水を更に濃く染めている。遊歩道は湖畔から登り道へと続いており、さらに行くと視界が開けて見晴台があった。そこからは、周囲を切り立った崖に囲まれたF湖の姿を一望することができた。ぽっかり口を開けて岩盤を剥き出しにし、清い水を湛えたカルデラ湖のような姿だ。風がそよぐ。さわさわと木々の枝葉が揺れる音、野鳥の鳴き声とともに、耳にはか細い羽音が聞こえた。蜻蛉がたくさん飛んでいる。よく見ると、水面のあちこちで小さな波紋がじわりと拡がっており、つがいの蜻蛉が腹を低くしていた。波紋が現れては消えて、また現れては消えた。凪いでいた水面には、静かに淡く、水玉の模様を描かれているように見える。父とそこで何を話したのかは覚えていないが、息を呑んでいたのは確かだ。


 どうして忘れていたのだろう。あんなに美しい場所だったのに。
 訪れた時の記憶を思い出して、そう思った。


 しかし、訪れたのはその時が最後だった。というのも、この時既に、ごみ処分場の建設予定地としてF湖が選定されてからのことである。もう記憶の中のF湖は余命いくばくもない時だった。

 「F湖」という名称は正式な名称ではなく通称だった。では、正式な名称はというと、そもそもなかった。行政では存在を認めていなかったのである。あくまで「採石場に自然発生した水たまり」であり、湖沼としての扱いはしてこなかった。地図や市史にも記されていないし、当然のことながら、観光地にもなり得なかった。F湖へ続く遊歩道や見晴台が、市ではなく、あくまで地元の有志で整備されたものというのもこの理由が関係している。


 周辺地域では反対運動が巻き起こった。F湖を思い出すきっかけになったあの看板も、この時期に建てられたものだろう。反対運動の様子は、昼のワイドショーで取り上げられたこともあった。当時の自分はというと、幼くてよく覚えていない。覚えていないというか、わかっていなかったのだと思う。親も社会運動やら篤志に無縁であるから、対岸の火事といったところだったのではなかろうか。最後に訪れて以後、父との会話の中で、F湖のことが話題に上がった記憶は一切ない。もう行ったこと自体を覚えているかも怪しいが、ただ、F湖の姿を自分に見せたのは、もしかすると何か思うところがあったのかもしれない。


 その後、周辺住民による差し止めの申し立ては裁判所に却下され、あえなく建設が始まった。F湖の水は抜かれて、自分の記憶が鮮明に残る年頃には、既にごみ処分場がそこにあった。ごみ処分場として、学校の社会科見学で訪れたこともあるし、一般ごみの持ち込みも受け付けていたから、家の大掃除の後のごみ出しでそこを訪れたこともある。

 物心つく前とその後のあまりの変わりように、そこがF湖のあった場所だとピンと来ていなかったのかもしれない。だから長らく忘れていた。建設反対の看板も、殺風景な休耕田にポツンと立っているのが当たり前だったから、今更なくなってから違和感を覚えたのだろう。皮肉なことに、その違和感でF湖を訪れた記憶がよみがえったのだが。


 野暮用を終えて、寄り道をすることにした。かつて、F湖があった場所である。年末であったから、ごみ処分場の門は固く閉ざされている。そこを一瞥してから通り過ぎ、少し先の路肩に車を停めた。ここから案内があってF湖への遊歩道があったはず。少なくとも、手作りの案内板は処分場建設後もしばらく残っていた。不確かな記憶を頼りに路肩の傍を見渡した。しかし、案内板は既になく、遊歩道の痕跡もなく、ただ藪が広がるばかりだった。


 いくらか気を重くして、家に帰った。もう既に日は落ちていた。ちょうどアイロンをかけていた母に、F湖のことを覚えているか聞いてみることにした。

「〇〇地区のごみ処分場のところにあった……」

 言い切る前に母は答えた。

「あそこね、もうあと数年で満杯になるんだって。不便になるねえ。」

 F湖という単語が、ぐっと喉奥でつかえた気がした。逡巡して、「そうだね」とだけ返した。自分よりも長くこの地に根差した母でさえ、その場所をF湖ではなく、ごみ処分場として認識していた。そのことは、もう存在しなくなって久しいという事実に、取り返しのつかない重みを持たせた。

 

 自分はエコロジカルな考えの持ち主ではないし、無自覚とはいえ、その利便を享受してきた側だった。短期間とはいえ、ごみ処分場が地域にもたらした利益というのは少なくないはずで、そのことを批判する立場にない。ごみ処分場の建設地にF湖を選定する、その妥当性を検証するほどの専門的な知識なども持ち合わせていない。わかっているのは、仮にF湖の計画が頓挫していたら、別の縁もゆかりもない見知らぬ場所が一つ失われ、そこにごみ処分場ができていたということだ。

 それでは、なぜF湖のことについて書くことに駆り立てられたかといえば、その存在が忘れられてしまうことへの恐れに他ならなかった。元々、採石という人の営みで偶発的に誕生した湖が、またごみ処理という人の営みの都合で忽然と消えてしまった。それは必然なのかはわからない。この湖が存在したのは、長い長い地球の歴史の中でたったの15年ほど。それも片田舎の山あいの出来事に過ぎない。その僅かばかりの時間の一端に立ち会った、数少ない存在の一として、何かを残したい気分になった。

 うろ覚えでしかない、記録と呼ぶにはあまりに曖昧で陳腐な記憶だけれども、地元でもうF湖の名を聞くことはないだろうし、ましてや、ごみ処分場が満杯になって閉鎖した後、F湖を連想させるものもない、ただの名もなき土地になってしまえば、自分でも顧みる機会はこの後ないだろう。公式な記録で触れられることはおそらく今後もない、かつて一度も湖として存在しなかった、ただの水たまりであるのだから。

 でも、だからこそ、鏡のように凪いだ青い水面、見晴台で感じた自然のさざめき、泡沫の夢のごとく、でも確かに「F湖」がそこに存在した、ということは忘れたくない気持ちもある。建設反対の厳めしい看板もとうに朽ちた。思えば、あれもF湖にまつわる一つの標だった。今になっては幾分遅すぎるのだろうが、ここにせめてもの標を立てたい。

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