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羊と多胡碑②

「羊」が動物の羊だったと仮定した場合、飼っていたのは誰だったのでしょう。

郡名となった「多胡」はすごく興味深い漢字です。
飛鳥~奈良時代に流行した伎楽の「酔胡王」「酔胡従」がソグド人(シルクロードで莫大な富を築いたと言われる中央アジアの幻の民族)をモデルとしていたことがわかってきた今、奈良時代の碑に刻まれた「胡」という文字はソグド人を指すのではないかと期待してしまいます。
胡人が多いから「多胡郡」と名付けられていたとしたら夢が広がります。

酔胡王 帽子をかぶっています (東京国立博物館所蔵)
酔胡従 表情の違う6~8のキャラクター (東京国立博物館所蔵)

多胡郡が創設された頃の世界は、
中央アジアでいえば、イスラム勢力が拡大した時代。サマルカンドでは、ソグドのタルフン王 (在位700年~710年)の御代で、イスラムとの戦争で町が焼かれ、ソグド人たちはペンジケントへと逃げて行きました。その10年後、ペンジケントもイスラムに制服されています。

中国でいえば、則天武后(在位690年~705年)と玄宗皇帝(在位712年~756年)の合間の時期です。唐が繁栄を極め、世界から唐に才能が集まった時代。702年には粟田真人、717年には阿倍仲麻呂や吉備真備が遣唐使として入唐しています。

その唐では西域ブームが起こってました。ソグド人をモデルにした人形「胡人俑」が大流行したそうです。

胡人俑(洛陽博物館所蔵)
胡人俑(洛陽博物館所蔵)

当時、唐にはソグド人の集落が各所にありました。ソグド人は3世紀頃から中国に集落を作っていたと言われていますが、8世紀初頭は、イスラムに追われ、唐に逃げてきたソグド人も多かったのではないかと思われます。ソグド人は商売だけでなく、僧侶や軍人など様々な職業についていました。

日本でも、福江島にソグド人の集落があり、遣唐使の航海を支えたという説があります。

では、このソグド人が羊の飼い主なのでしょうか。

わざわざ命の危険を冒して海を渡って日本まで来て羊を飼っていたのでしょうか…。ソグド人は遊牧民ではありません。

羊に飼い主がいるとしたら大和朝廷でしょう。群馬の「群」は「君の羊」と書きます。旧字だと縦に「君の羊」です。

先祖の墓石

もちろん中国から伝来した漢字ですが、ちょうど多胡郡が創設された2年後に、多胡郡の北にある「車(くるま)郡」の表記が「群馬(くるま)郡」に改められたそうです。

奈良時代に入るとすぐ、和銅6年(713年)の諸国の風土記編集の勅令により、国・郡・郷名はその土地にあった漢字二文字で表すこととされ、国名「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国(こうずけのくに)」に、郡名「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」に改められました。

群馬県HP「県名の由来」より

そして「ぐんま地域文化マップ」では右島和夫氏が下記のように記しています。

奈良・平安時代の群馬県は朝廷にたくさんの馬を差し出す生産地として知られていた。その生産が群馬で始まったのは、古墳時代の中頃(今からおよそ1550年前)である。もともと馬は日本列島にはいなかった動物で、このころ朝鮮半島から渡来人によって、当時の中心地である近畿地方に伝えられたのである。当時の群馬は東日本屈指の有力地域だったから、ほどなくして馬が伝えられた。当時の馬の役割は、乗用車であり、トラックであり、またトラクターだったわけであるから、またたくまに需要が高まったことは想像に難くない。広壮な山麓地帯をひかえる群馬は、馬生産にとっても格好の地域だったのである。事実、子持村の白井遺跡群の調査で、西暦550年頃に降下した榛名山の噴火軽石層の下から無数の馬のひづめ跡が発見され、ここで馬が飼育されていたことがわかっている。

「ぐんま地域文化マップ」より

高崎市にある観音山古墳では金銅装の馬具も発掘されています。

馬がいて、羊がいた(かもしれない)群馬。馬はそもそも中央アジア原産であり、6世紀、中国梁の建国の際、ソグド人集落の族長である康絢が後の武帝に軍馬を2500匹献上したという記録があるという。大和朝廷のために、ソグド人たちが馬や羊を日本に輸入し飼育していたとしたら… 。

ただ吉井町には、倉庫群の跡や国分寺の跡があったり、瓦が発掘されたりと… 大きな町だったことが想像されます。そしてあんな立派な碑に、牧場について書くでしょうか。ましてや馬でもなく羊…。

続く

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