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『敏感少女』

 竹川が大人になって、もしも僕に会いにきてくれたとしたらと仮定する。今の僕を見てどんな風に思うだろう。カッコよくなったと褒めてくれるかもしれないし、なんか落ち着きなくなったねとそんな風にガッカリすることもあるかもしれない。それはきっとシチュエーションに依存するものだろうとそう思う。
 例えばこうだ。公園のベンチを独占するべくコンビニコーヒーカップを横に置いたまま文庫本を読んでいたとして、木漏れ日の下で話しかけられた僕は陽の光に飛ばされた目の下のクマを気にすることもなく笑顔を向けることができるだろう。反対に、ベロベロに酔ってフラフラとした足取りで繁華街をニヤつき歩く助兵衛さんの僕を目の当たりにしたとして、おそらく竹川は最初、他人のフリをするかどうか迷いチラチラと僕を観察した後、落語家の枕言葉のそれに似た慎重さで僕を叱りつけてくれるだろう。
 ふと思う。そう考えること自体がいかにも病的で、他人の気持ちを逆撫でする類の間違いなのかもしれないと。ひょっとしたら、もしかしたら、たぶん、きっと、おそらく。どうやら僕は何も乗り越えられないまま腐ってしまったのかもしれない。
 
 
 値段の安さに見合った容量の少ないビールジョッキを傾けながら、ニンニク餃子とタコワサを肴にして飲んでいる。
 コロナ禍になる以前、仕事終わりによく飲みに付き合ってもらっていた先輩は「一ヶ月開けずに繁華街に寄るなんて、まるで昔に戻ったみたいだな」と沸々と煮えたぎる石焼皿の麻婆豆腐にスプーンを伸ばして小皿に取り分けている。

「あ、僕それいりません。辛いの食えないです」
「おおー、そうだったそうだった忘れてた」

 羽付きのニンニク餃子を頬張ると、ザクザクとした野菜の感触が口内に広がってビールが進む。たこわさを摘みつつ、時折餃子を食べて、それ以上に頼み続けた中ジョッキは既に七杯を越えようとしていた。

「−−−だから結局ドルを抱えることを選択した俺の審美眼に間違いはなかったわけで、散々失敗したけど今回で第二次安倍政権が発足されたときに跳ね上がったトヨタ株以上の利を得ることができた。老後の為の貯蓄資金はすでに射程圏内というわけよ」
「いやー羨ましいですよそれ。ほんと尊敬しちゃうな。僕なんか貯金も満足にできないから月末はいつも粉しか舐めてないのに」
 
 僕はチラッと先輩のグラスを見る。そろそろタバコが吸いたいし、それにポケットの中のスマホがいつだって気になる。
 電子パネルを操作しながら空いているグラスに目線を移して勝手に追加の生ビールを頼んだ。「トイレ!」と言葉を繋げて喫煙所に向かうべく自動ドアから外に出る。
 
 ポケットからゴソゴソと取り出したタバコを唇に挟んだまま、スマホを取り出してラインをチェックしてみると、サークルのグループラインが十数件未読のまま貯まっていた。他にも個人ラインが複数件。
 既読をつけないまま非表示操作をした後にポケットにしまい込んで、火照った頬を冷ますまでもない寒気に首を引っ込めつつタバコに火をつけてみる。ゆっくりと吸って、さらに時間をかけて吐き出してみる。血液に循環された酸素を痛みつけるイメージで二口、三口。そのまんま「馬鹿だ、馬鹿だ。お前は馬鹿だ」と自分自身への毒を頭の中で構築し声を鳴らしてみると、はっはっはっはと、とても品の悪い笑い声が外に漏れてしまっていた。

 冴えないままの思考回路は「大きく口を開けて呼吸をせよ」と命じてくる。
 いいな、いいな。できるならいつだって命令されていたい。誰かが僕の全部を決めてくれたならいいのに。
「幸せの形を知ってるか? たぶんおそらく子供の形をしてるはず、そういう噂」
 マンションの灯りひとつひとつが家族の形。夕食を一緒に食べたり、いいな手料理とか食べたことないよ。「夢だよなあ」とかそんな風に呟けば孤独みたいな気分を堪能できる。いつだって慣れないまま、変われないまま恥だけを掻きすぎてしまったな。今夜もうまく酔えそうだ。

 
 二件目にと訪れた店は僕の行きつけで、通う客の二割は日本酒を目当てにやってくる。店主であるマキさんがお目当ての男が三割で、残りの五割のうち両方だろう推測できる男が三割、最後の二割が奇妙にも迷い込んでしまった女でいる。
 カウンター席しかない小ぢんまりとしたBARでいて、お通しにと提供される漬物がおいしい。その日の気分で選べるぐい呑みの焼き物の絵を見ているのも楽しいし、ついでのように酒が進むと結果的に体温も二度ほど上がる。
 あけすけな常連贔屓、強気な平日営業。土日祝日は定休とする徹底ぶりに好感が持てる。時折含ませる毒が売りのマキさんなのだけど、いつも僕だけには優しいのだからとてもいい気分だ。優しくされるのは悪くない。それはマキさんに限った話ではないのだけど。

「マキさん。この店で一番辛い日本酒を二つください」
「待て待て、俺は辛いの好きじゃないぞ」
「あれ、そうでしたっけ? うーん、好きになってくださいよ。すごい美味しいんですよ辛いの」
「辛いの苦手ってさっき言ってたろ」
「わ、覚えてくれたんだ嬉しい。ずっと忘れないでくださいね」

 ゲラゲラ僕が笑うとマキさんも釣られて笑って「好きそうなお酒用意して待ってたよ。長野県のふわふわ酒蔵のお酒でほにゃららでー」とかなんとか言っていて、いよいよ僕は頭が回らないまま誰かの言葉に相槌と笑顔を振りまいている。

 タバコがおいしくてお酒も最高。いい夜なんだからきっと今夜はいい夜なのです。そうなのです。
 
 先輩やマキさんに振られた話をまったく聞いてもいないまま大袈裟に笑ってみる。そうしていつの間にか火をつけていたタバコの煙を汚い肺からすっかりと吐き出してから、ふと思った。すごいな、普段はあまり意識したこともないのだけれど、そういえば世の中には恨みだなんて言葉が確かに存在していたな。うんうん、なんの話でそうなったんだっけ。よくわかんないけど僕には関係ないぜ。誰も傷つけていないし、僕だってすぐ忘れることができるんだから。

 不倫–−−

 不意に鼓膜を震わせてきた言葉に目を丸くしてしまった。カウンター席の奥側で誰かが芸能人の不倫ネタで盛り上がっているようだった。不倫とか恨みとか、なんとかの単語がちらちらと宙を舞う。
 僕の右隣に座っている先輩は先ほどからとても自然だけど少々居心地の悪い表情で僕の顔色を伺い続けている。

 あ、無理だ。もう無理。スマホ触りたすぎ。「トイレ! 先輩はトイレです!」

 小便器で用をたしつつ、「なんもいいことないなあ」と口に出してみる。汗は側頭部からよく染み出してくる。手を洗ってポケットからスマホを取り出してみる。新規メッセージはない。あれ、おかしいな。何度も何度もポケットの中で振動していたはずなのに、ファントムバイブレーション……
 
 もっと飲まなきゃな、もっともっと飲める体の構造しているし。

 
「そろそろ帰ろうか」と先輩が音をあげる時間帯になって、「あー代行呼ばなきゃいけないんで、飲みながら待つことにします」と返事をした。そのまま千鳥足の先輩を見送るとマキさんが声をかけてくる。

「もう帰る? 代行呼んであげようね」
「呼ばなくていいです。もう財布の中に小銭しか入ってません」
「どうやって帰るの。また歩いて帰るの? お金貨してあげようか?」
「返さなくていいって言うからダメです。調子よければ一時間半で帰れますよ」

え? 歩いて一時間半? あたし送ってあげようか?

 そんな風に声をかけてきてくれたのはカウンター席の手前側、二つ隣の席に座っている女だった。綺麗な顔をしていて笑顔に余裕のある女だと思った。こんな風に人の顔を覗き込めるぐらいだから、おそらくは相当酔っているのだと思う。初めて見かけた人だ。

「いいんですか?」と反射的に返事をした後で、「いいよ、あたし自転車だけど」「じゃあいいです」「本当? 大変そうだから送れるよあたし」「うーん」

 うーん。と考えてみる。これはあれだな、セックスの誘いだな。僕の家の場所なんて何も知らないまま女と二人で店を出たとして、そういえば家どこ? 海側町です。あたしの家近いけど休んでいく? いいんですか? いいよ、朝になったら車で送ってあげる。のパターンのやつだ。

「抱かせてくれるってことですか?」と吹き替え俳優のようなジェスチャーを交えつつ大きな声を出してみた。カウンター席の奥側までの客の視線が僕に集まる。女の子は一瞬慌てたのだけどすぐさま余裕のある表情に戻って僕の胸あたりを拳で叩いた。
「違うから!」
「振られた! じゃあ、いいです」

 そのまま一人で店を出て歩き出した。ポケットの中からスマホを取り出しみると一件の新着メッセージがあった。確認した後で返事を書いて、イヤホンを装着して顔を上げてみる。先程までの憂鬱な気持ちが一瞬で霧散してしまった。よかった、今日も安心して眠れそうだ。
 そもそもが誰でもいいなんて思っていないし、触れないから触りたい訳じゃない。

 コートに身を包まみ込ませながら歩き出す。鼓膜を揺らす音楽をいつまでもいつまでもリピート再生させてみる。とてもいい歌。いい曲なんだ。
 ね、いつかあなたに話してみたいなとも思うんだよ。冗談を交えつつ退屈させないように笑いながら、ひねくらしくてわらびしい女の子のことを。僕と同じで大人になれなかった竹川のことを。
 
 向かい風をいなすように鼻歌を口ずさんでみる。
 もう一歩、もう一歩歌う。届け、届け、敏感少女。







 

お肉かお酒買いたいです