かがり火の結末- D(C)

 握り締めた手のひらは血が通っていないのではないかと疑いたくなるほどに冷たかった。泥中に首までつかったかのような粘着性の潮風がまとわりつく。太陽に透かした掌の色に似ているカヤの指先が微かに震えていることがわかる。湿り気を帯びた皮膚の感触、小指を起点に力が抜けていくように自然と心に浮かんだ感情と、その感情に至るまでの道程を頭の中で順序立てて組み立てながら考えたのは、まず、女の体とはこんなにも柔らかいものかということ。次に考えたのは、目の前のこいつにも人間らしい感情。恐れや未練はあるのだろうかということ。それこそ、おれと同じように。

「カヤ、お前は人を殺めたことはあるか?」

 唐突だったかもしれないが、不意に浮かんだ疑問を投げかけた。

「出し抜けに」弓張月のよう鋭く尖るカヤの眼光がおれの眉間に切っ先を刺す。「無論、あるはずもない」

「猪はどうだ。兎や野鼠でもいい。手にかけたことはあるか」

「……何が言いたい」

「人は、生きるために人を殺しても許されるものだろうか」

 言い終わると同時に跳ね除けられたカヤの爪先で手首に鋭い痛みが走る。痛みには形があることを、おれは知っている。縦筋に削られた右手首を左の手のひらで覆う。

「このかがり火を絶やせば、五人の男は帰って来れないかもしれない。顔ぶれは昔からの馴染みだ。思うところはあるにせよ、命を奪って然るべき理由はない」

「わたしは誰にも許しを乞わないよ」カヤは乾いた笑い声を上げる。「灯火が無くなれば人は目的地を見失うのか? いいや違う。目指すべき灯りが消えても暗闇を見つめ目が慣れれば彼らは月の光の眩しさに気がつくだろう。ひとつの火に目が眩んでいる間は決して気がつくことのない水平線にまで届く光だ。彼らは今もなお、かがり火にしか目が向かないだけ。わたしはそれを自由とは呼ばない。決められた道筋を血塗られた筋道通りになぞることに疑うこともなく、お前はわたしに生きろを言うのか」

違うだろう?

 カヤの唇がそう動いた気がしたが、音は聞こえてはこなかった。代わりにパチパチと水分を含んだ木が熱に折れる音、灰に変わる音が鼓膜を静かに揺らし続ける。

「お前が獣を狩れない理由にも、わたしは気が付いているよ。勝つことを是とせず背後から弓を放つことを由としない。お前はいつだってスックと馬鹿正直に獣の正面に立ち、逃げて欲しいと願いをかけて弓を打つ。そんな腑抜けた矢が当たるはずもない」

 凛とした声と視線に息が止まりそうになる。肉食獣を前にした草食獣がそうするように、目線を切ることしかできそうにない。

 暴力に頼る人間は弱い人間だと嘯く人間はいつだって卑怯者だとおれは思う。彼ら彼女らは自らのうちを面々と受け継がれて流れる血こそが猟奇の裏付けであることを疑うこともなく、自身や親兄弟の生を循環させるためだけに生き物を食らう。恩恵の上に胡座をかき、己の正義を主張する。おれはそういったある種の色様々な力が嫌いな訳ではない。忌避もしなければ順応し境遇に甘んじるわけでもない。羨望にも似た衝動に駆られながらも、ただ成り行きを見定めるようにそれぞれの弱さを見つめてきただけに過ぎない。

 声を絞り出そうとするおれを遮るようにカヤが口を開く。

「わたしが持っている懐刀を見せよう」

「懐刀?」間の抜けた声が出た。カヤは胸元から小刀を取り出して鞘から抜いて見せた。ギラギラと波紋がかがり火の光に揺れて刀身が燃えているようにも思える。

「ただ生きるだけならばわたしの命に価値がない。他者に委ねるために生きるだけならわたしの命に勝ちもない」小刀を顔の前に上げてカヤが話す。「天秤に掛けられた欲望が拮抗したまま問いかけてくる。共同体に溶けて地に伏したまま腐り落ちるか、山巓の息苦しさの中で自由を生きるかだ。わたしはわたしの魂に従っている。わたしの魂が呼吸を諦めない限りは誰かが目の前で死んでも構わないだろう」

「カヤは強いな」ため息と共に吐き出す。「おれは迷ってばかりだ。答えが見つからなくて苦しい。今も昔も、機を逃してはそれでもまだ選択の正しさを信じられずにいる」

「あけましておめでとう」

「どういう意味だ?」

「タツノヒコは自身になびかなかった女を犯した後、そう囁くのだそうだ。本来は祝いの言葉であるはずが、年が明ける度、何年経っても消えることのない屈辱に満ちた呪いの言葉だ。お前はそれを強いと言えるか? わたしが嫁ぐ先として納得できるか? 幸せになれると胸を張って背中を押せるのか?」

「…………」

「この世界に強い人間などいない。わかるか、わたしはタツノヒコには勝てないが、ウミヒコを受け入れることができる。お前はわたしと共に生きて自由を勝ち取り狭い世界で生きる空虚なタツノヒコを笑ってやればよいのだ」

「それしか方法がないのか」

「時間が過ぎるのは早い。いま決めてくれ。わたしの魂はお前が側に居てくれさえすれば汚れることはない。肉を食うなと望むならわたしは食わない。眠るなと言うのならわたしは寝ない」

 いつの真にか炎を落としたかがり火は赤黒いかまどのように熱を発し続けるだけの炭に成り果てていた。これでは松明の意味を持たない。船も日が昇るまでは陸に帰ってこれないだろう。



 翌朝、カヤの死体が洞窟内で発見された。鳩尾の下には小刀が刺されている。座ったままの遺体を抱き抱えるように離れないウミヒコの身体を村の男衆が引きずり剥がした。

「殺してしまえ」「なぜワシの女を殺した」「ウミヒコには男の甲斐性はない、だからこそ火の番を任せたと言うのに」「仲間殺しは重罪だ」「色に溺れたに違いない」

 罵声と失望の声は彼の耳には届かない。ウミヒコはカヤの最後の言葉の返事だけを考え続けていた。

『おれは行けない。お前だけでも逃げてくれ』

 返した言葉は届いたのだろうか。暫しの沈黙の後、カヤは目を閉じた。かがり火は音もなく消えていこうとしている。

『……わたしは言葉を尽くしたが、それでも届くことはなかった』

 自身の腹に小刀を突き刺したカヤに手を伸ばし、倒れ込んでくる彼女を胸と腕で支えた。

『好いた男と添い遂げるために、女は何をすればいい。簡単なことだ、魂を信じればいい。汚れたことを隠して生きる最後の好機だったのだ。ウミヒコ、わたしだけが逃げてどうなる。残されたお前にどんな罰が下るかを想像するに忍びない。案ずるな、お前はただ見たままを言えばいい。村から逃げようとしたのを止めようとしたら自害した、と』

 息も絶え絶えにカヤは囁く。耳元に届く洗い息に目眩がする。

「やってしまえやってしまえ」「いつでもキョロキョロと周りを見渡し砂っぱらな顔をする奴を」「何を考えているかわからぬ」「猟奇を微笑みで隠す男を」「殺してしまえ殺してしまえ」

 機運に乗せられたタツノヒコがウミヒコの前に歩を進める。槍を構え、怒鳴り声を上げる。

「答えろ! なぜカヤを殺した!」

 槍の先端がウミヒコの顎を抑え、持ち上げられて顔を上げる。生まれて初めて、タツノヒコの目をまじまじと見ていることに気がつく。怒りに震えた瞳が充血している。不思議と、同じ言語を操っているのにも関わらず理解されることのなかった彼らに、言葉が通じるような、会話ができるような気がした。この村で唯一の理解者、カヤのように。

「従え。疑問に思うな。おはようおやすみいただきますご馳走様」

 白痴を見るように歪んだ表情をするタツノヒコに向かい、槍が降ろされ喉が貫かれる直前、一息の間にこう言った。

「おれが殺した。あけましておめでとう」


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人様の作品の結末企画でした。文字数5000字制限超えましたすみません世界観壊した気がしますお肉食べてます楽しかったですありがとうございました。


お肉かお酒買いたいです