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福翁自伝 7. 欧羅巴各国に行く

私が亜米利加(アメリカ)から帰ったのは万延元年、その年に華英通語(かえいつうご)というものを飜訳して出版したことがあります。これが、抑(そもそ)も私の出版の始まりです。まず、この両三年間というものは、人に教わるというよりも、自分でもって行う英語研究が専業でありました。ところが文久二年の冬、日本から欧羅巴(ヨーロッパ)諸国に使節派遣ということがあって、その時にまた私はその使節に付いて行かれる機会を得ました。この前、亜米利加(アメリカ)に行った時には、私は密かに木村摂津守(きむらせっつのかみ)に懇願して、その従僕ということにして連れて行ってもらったのですが、今度は幕府に雇われていて欧羅巴(ヨーロッパ)行きを命ぜられたのであるから、自ずから一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰ったかと思います。旅中は一切官費で、ただ手当として四百両の金を貰ったから、誠に世話はなかったです。ソコで、私は平生頓(とん)と金の要らない男で、いたずらに金を費すということは決してありません。四百両貰ったその中で、百両だけ国にいる母に送ってやりました。いかにも母に対して気の毒だったのは、亜米利加(アメリカ)から帰ってマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねて欧羅巴(ヨーロッパ)に行くというのだから、いかにも済まないことでした。それのみならず、私が亜米利加(アメリカ)旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞(ふうぶん)を立てて、亜米利加(アメリカ)に行ってかの地で死んだと言い、甚だしきに至れば、現在の親類の中の一人が私共の母に向むかって、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとうとう亜米利加(アメリカ)で死んで、身体は塩づけにして江戸に持って帰ったそうだなんと、脅すのか冷やかすのか、ソンな事まで言って母を嬲(なぶ)っていたというような事でした。これも、時節柄で我慢して黙っているよりほかに仕方がないとしていながら、母に対しては、いかにも気が済まないことです。金をやったからといって、ソレで償えるわけのものではないけれども、マアマア百両だの二百両だのという金は、生まれてから見たこともない金だから、ソレでも送ってやろうと思って、幕府から受け取った金を分けて送りました。

それから、欧羅巴(ユーロッパ)に行くということになって、船の出発したのは文久元年十二月の事でした。この度の船は、日本の使節が行くというために、英吉利(イギリス)から迎船(むかいぶね)のようにして来たオーヂンという軍艦で、その軍艦に乗って香港(ホンコン)、新嘉堡(シンガポール)というような、印度(インド)洋の港々に立寄り、紅海に入って、蘇士(スエズ)から上陸して蒸気車に乗って、埃及(エジプト)のカイロ府に着いて、二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、そこからまた船に乗って仏蘭西(フランス)の馬塞耳(マルセイユ)に到着しました。ソコデ蒸汽車に乗って、里昂(リオン)に一泊、巴里(パリ)に着いておよそ二十日滞在しました。使節の事を終り、巴里(パリ)を去って英吉利(イギリス)に渡り、英吉利(イギリス)から和蘭(オランダ)、和蘭(オランダ)から普魯西(プロス)の都の伯林(ベルリン)に行き、伯林(ベルリン)から露西亜(ロシア)のペートルスボルグに行きました。それから、再び巴里(パリ)に帰って来て、仏蘭西(フランス)から船に乗って、葡萄牙(ポルトガル)に行き、ソレカラ地中海に入って、元の通りの順路を経て帰って来ました。その間の年月はおよそ一箇年です。すなわち、文久二年一杯、推詰(おしつ)まってから日本に帰って来ました。

さて、今度の旅行について申せば、私もこの時にはモウ英書を読み、英語を語るということが、徐々(そろそろ)出来て、それから前に申す通りに、金もいささか持っていました。その金は、何も使い所はないから、ただ日本を出る時に尋常一様の旅装をしただけで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金が要るわけがありません。その余った金は、皆携さえて行って、竜動(ロンドン)に逗留中、ほかに買物もないので、ただ英書ばかりを買って来ました。これが、そもそも、日本への輸入の始まりで、英書が自由に使われるようになったというのも、これからの事であります。

それから、その国の巡回中に色々と観察、見聞したことも多いのですが、これは後の話にして、まず、使節一行の有様を申しますと、その人員は、

竹内下野守(たけのうちしもつけのかみ、正使)
松平石見守(まつだいらいわみのかみ、副使)
京極能登守(きょうごくのとのかみ、御目付)
柴田貞太郎(しばたさだたろう、組頭)
日高圭三郎(ひたかけいざぶろう、御勘定)
福田作太郎(ふくださくたろう、御徒士目付)
水品楽太郎(みずしならくたろう、調役)
岡綺藤左衛門(おかざきとうざえもん、同)
高嶋祐啓(たかしまゆうけい、御医師但し漢方医なり)
川崎道民(かわさきどうみん、雇医)
益頭駿次郎(ましずすんじろう、御普請役)
上田友助(うえだゆうすけ、定役元締)
森鉢太郎(もりはちたろう、定役
福地源一郎(ふくちげんいちろう、通弁)
立広作(たちこうさく、同)
太田源三郎(おおたげんざぶろう、同)
斎藤大之進(さいとうだいのしん、同心)
高松彦三郎(たかまつひこさぶろう、御小人目付)
山田八郎(やまだはちろう、同)
松木弘安(まつきこうあん、反訳方)
箕作秋坪(みつくりしゅうへい、同)
福澤諭吉ふくざわゆきち(同)

このほかに、三使節の家来両三人ずつと、賄(まかない)小使(こづかい)六、七人、この小使の中には内緒で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もいました。松木、箕作、福澤等は、まず役人のような者ではありましたが、大名の家来、所謂(いわゆる)、陪臣(ばいしん)の身分であるから、一行中の一番下席で総人数、およそ四十人足らずで、いずれも日本服に大小を横たえて巴里(パリ)、竜動(ロンドン)を闊歩(かっぽした)のも可笑(おか)しいです。

旅行中用意の品々失策又失策

日本出発前に、外国は何でも食物が不自由だからというので、白米を箱に詰めて何百箱の兵糧(ひょうろう)を貯え、また、旅中止宿(ししゅく)の用意というので、廊下に灯(とも)す金行灯(かなあんどん)=二尺に(しゃく)四方もある鉄網(てつあみ)作りの行灯を何十台も作り、そのほか、提灯(ちょうちん)、手燭(てしょく)、ボンボリ、蝋燭(ろうそく)等に至るまで、一切取揃えて船に積込んだその趣向は、まるで大名が東海道を通行して宿駅(しゅくえき)の本陣に止宿(ししゅく)するくらいの胸算(きょうさん)に違いなかったのです。それから、いよいよ巴里(パリ)に到着して、先方から接待員が迎えに出て来ると、一応の挨拶も終り、まず、こっちよりの所望(しょもう)は、随行員も多勢なり荷物も多いことゆえ、下宿はなるべく本陣に近いところに頼むと伝えました。というのは、万事不取締(ふとりしまり)で不安心だから、一行の者を使節の近所に置きたいという意味だったのでしょう。スルト、接待員はいっさい承知して、まず人数を聞きただし、総勢三十何人と分かって、

「こればかりの人数なれば、一軒の旅館に十組や二十組は引受けます。」

との答えに、何の事やらわけが分かりませんでした。ソレカラ、案内に連れられて止宿(ししゅく)した旅館は、巴里(パリ)の王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕(ひぼく)五百余人、旅客は千人以上差し支えなしというので、日本の使節などは、どこにいるやら分かりませんでした。ただ、旅館中の廊下の道に迷わぬようにすること、当分はソレガ心配でした。各室には温めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もない。無数の瓦斯灯(ガスとう)は室内廊下を照らして日の暮れるのを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、いかなる西洋嫌いでも口腹(こうふく)に攘夷の念はないのです。皆、喜んでこれを味わうから、ここで手持不沙汰(てもちぶさた)になったのは、日本から脊負って来た用意の品物です。ホテルの廊下に金行灯(かなあんどん)を点けるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯を炊くことも出来ず、とうとう終いには米を始め諸道具一切の雑物(ぞうぶつ)を、接待係の下役(したやく)のランベヤという男に進上して、ただで貰ってもらったのも可笑(おか)しかったです。

まず、こんな塩梅式(あんばいしき)だから、われわれ一行の失策物笑(ものわらい)は数限りなかったです。シガーとシュガーを間違えて烟草(タバコ)を買いにやって、砂糖を持って来たこともありました。医者は人参(にんじん)と思って買って来て、生姜(しょうが)の粉だったこともありました。また、あるときには、三使節中の一人が便所に行くと、家来がボンボリを持って御供をして、便所の二重の戸を明け放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を足すその間、家来は袴(はかま)着用で、殿様の御腰(おこし)の物を持って、便所の外の廊下に平(ひら)き直ってチャント番をしているその廊下は、旅館中の公道で、男女往来、織(お)るが如くにして、便所の内外は瓦斯(ガス)の光明で昼よりも明るいというから堪らない。私はちょうどそこを通り掛かって、驚いたとも、驚くまいとも、まず表に立ちふさがって、物も言わずに戸を打締(ぶちしめ)て、それから、そろそろとその家来殿に話したことがあります。

欧洲の政風人情

政治上の事については、竜動(ロンドン)、巴里(パリ)等に在留中、色々な人に逢って、色々な事を聞きましたが、もとよりその事柄の由来を知らぬから、よく分かるわけもなかったのです。当時は、仏蘭西(フランス)の第三世ナポレヲンが欧洲第一の政治家としてもてはやされて、エライ勢力であったのですが、隣国の普魯士(プロス)も日の出の新進国で、油断なりませんでした。墺地利(オーストリア)との戦争、またアルサス、ローレンスの事なども国交際(こっこうさい)の問題として、いずれ後年には云々(うんぬん)の変乱が生ずるであろうなんということは、朝野(ちょうや)政通(せいつう)の予言することで、私の日記覚書(おぼえがき)にもチョイチョイ記してありました。また、竜動(ロンドン)にいるとき、ある社中の人が社名をもって議院に建言(けんげん)したといって、その草稿を日本使節に送って来ました。建言の趣意は、在日本英国の公使アールコツクが新開国たる日本にいて、乱暴無状、恰(あたか)も武力をもって征服したる国民に臨むがごとし云々とて、種々様々の証拠を挙げて、公使の罪を責めるその証拠の一つに、「公使アールコツクが日本国民の霊場として尊拝する芝の山内(さんない)に騎馬にて乗り込みたるが如き、言語に絶えたる無礼なり」と痛論したる節もありました。私はこの建言書を見て大いに胸が下がりました。なるほど、世界は鬼ばかりでない。これまで外国政府の仕振りを見れば、日本の弱身に付け込み、日本人の不文(ふぶん)殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛けて、真実困っていたが、その本国に来てみれば〔自(おの)ずから〕公明正大、優しき人もあるものだと思って、ますます私の平生の主義である開国一偏の説を堅固にしたことがあります。

土地の売買勝手次第

また、各国巡回中、待遇の最も細やかなのは和蘭(オランダ)の右に出るものはありませんでした。これは、三百年来特別の関係でそうなければならないものでした。ことに、私を始め、同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で言えば欧羅巴(ヨーロッパ)中第二の故郷に帰ったようなわけで、自然に居心地がいいのです。それはさておき、和蘭(オランダ)滞留中に奇談があります。あるとき、使節がアムストルダムに行って地方の紳士紳商に面会して、四方八方(よもやま)の話のついでに、使節が質問しました。

「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるか。」

と言うと、この人はこう答えました。

「もとより自由自在。」

「外国人へも売るか。」

「値段次第、誰にでも、また何ほどにても。」

「されば、ここに外国人が大資本を投じて広く上地を買い占め、これに城廓砲台でも築くことがあったら、それでも勝手次第か。」

と言うと、この人も妙な顔をして、

「ソンナ事はこれまで考えたことはない。いかに英仏その他の国々に金満家(きんまんか)が多いとて、他国の地面を買って城を築くような馬鹿げた商人はありますまい。」

と答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共はこれを見て実に可笑(おか)しかったが、当時日本の外交政略はおよそこの辺から割出したものであるから、堪らないわけであります。

見物自由の中又不自由

それはさておき、私がこの前、亜米利加(アメリカ)に行ったときには、カリフォルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、もちろん鉄道を見たことがありませんでした。けれども、今度は蘇士(スエズ)に上がって始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴(ヨーロッパ)各国をあちこちと行くにも、皆鉄道ばかりでした。至る所で歓迎されて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部(クラブ)等はもちろん、病院に行けば解剖も見せてくれましたし、外科手術も見せてくれました。あるいは、名ある人の家に晩餐(ばんさん)の饗応(きょうおう)、舞踏の見物など、誠に親切に案内されて、かえって招待の多いのに草臥(くたび)れるという程の次第でありました。唯(ただ)ここに一つ可笑(おか)しいというのは、日本はその時まるで鎖国の世の中で、外国にいながら兎角(とかく)外国人に会うことを止めようとするのが可笑(おか)しかったです。使節は竹内(たけのうち)、松平(まつだいら)、京極(きょうごく)の三使節、その中の京極は御目附(おめつけ)という役目で、ソレにはまた相応の属官が幾人も付いています。ソレが、一切の同行人を目張子(めッぱりこ)で見張っているので、なかなか外国人に会うことが難しいのです。同行者はいずれも幕府の役人連で、その中でまず同志同感、互いに目的を共にするのは箕作秋坪(みつくりしゅうへい)と松木弘安(まつきこうあん)と私で、この三人は年来の学友で、互いに往来していたので、あちらにいてもこの三人だけは自然と別なものになりません。何でも、有らん限りの物を見ようとばかりしていました。ソレが役人達の目に面白くないと見え、ことに三人とも陪臣(ばいしん)で、しかも洋書を読むというから、中々油断をしないのです。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方(おめつけがた)の下役(したやく)が付いて行かなければならぬという御定(おさだまり)で、始終付いてまわります。こっちはもとより密売などしようというわけではなし、国の秘密を漏らす気遣いもないのですが、妙な役人が付いて来ればただ蒼蠅(うるさ)いだけです。うるさいのはマダよいのですが、その下役が何かほかに差し支えがあると、私共も出ることが出来ないのです。ソレは甚だ不自由でした。私はその時に==これはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまま担いで来て、欧羅巴(ヨーロッパ)各国を巡回するようなものだといって、三人で笑ったことがあります。

血を恐れる

ソレでも、私共は見ようと思うものは見て、聞こうと思う事は聞きいたのですが、ついでながら、この見聞(けんもん)のことについて私の身の恥を言わねばならないと思います。私は少年の時から至極(しごく)元気のいい男で、時として大言壮語(たいげんそうご)したことも多いですが、天禀(うまれつき)気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌いでした。例えば、緒方の塾にいるときは刺絡(しらく)流行の時代で、同窓生はもちろん、私も腕の脈に針をして血を取とったことがあります。ところが、私は自分でも他人でもその血の出るのを見て心持こころもちが良くないから、刺絡(しらく)といえば、チャント眼を閉じて見ないようにしていました。腫物(しゅもつ)が出来ても針をすることは、まず見合わせたいといい、ちょっとした怪我でも血が出ると顔色(がんしょく)が青くなりました。毎度都会の地にある行倒(ゆきだおれ)、首縊(くびくくり)、変死人などは、何としても見ることが出来ませんでした。見物どころか、死人の話を聞いても逃げて廻るというような臆病者でありました。ところが、露西亜(ロシア)に滞留中、ある病院に外科手術があるから見物せよとの案内があり、箕作(みつくり)も松木(まつき)も医者だからすぐに出掛けて行きました。私にも一緒に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に入ってみれば、石淋(せきりん)を取り出す手術で、執刀の医師は合羽(かっぱ)を着て、病人を俎(まないた)のような台の上に寝かして、コロヽホルムを嗅がせて、まずこれを殺して、それからその医師が光り燿(かがや)く刀(とう)を執ってグット制すと、たいそうな血が迸(ほとばし)って医者の合羽は真赤になるのです。それから、刀(とう)の切り口に釘抜(くぎぬき)のようなものを入れて膀胱(ぼうこう)の中にある石を取出すとかいう様子でありました。そのうちに、私は変な心持になって何だか気が遠くなりました。スルト同行の山田八郎(やまだはちろう)という男が私を助けて室外に連れ出し、水などを飲ましてくれて、ヤット正気に返りました。その前、独逸(ドイツ)の伯林(ベルリン)の眼病院でも、欹目(やぶにらみ)の手術とて子供の眼に刀(とう)を刺すところを半分ばかり見て、私は急いでその場を逃げ出して、その時には無事に済んだことがありました。松木(まつき)も箕作(みつくり)も、私に意気地(いくじ)がないといって、しきりに冷ひやかすけれども、持って生まれた性質はしかたがありません。生涯これで死ぬことでしょう。

事情探索の胸算

それはさておき、私の欧羅巴(ヨーロッパ)巡回中の胸算(きょうさん)は、およそ書籍上で調べられる事は、日本にいても原書を読んで分からぬところは字引きを引いて調べさえすれば分らぬ事はないのですが、外国の人には一番分かり易い事でほとんど字引きにも載せないというような事がこっちでは一番難しいのです。だから原書を調べてソレで分からないという事だけをこの逗留中に調べておきたいものだと思って、その方向でもってこれは相当の人だと思えばその人について調べるということに力を尽くして、聞くに従って一寸々々(ちょいちょい)こういうように(この時、福澤先生は細長くして古々(ふるぶる)しき一小冊子を示す)記しておいて、それから日本に帰ってからソレを台にしてなお色々な原書を調べ、また記憶するところを綴合(つづりあ)わせて西洋事情というものが出来ました。およそ理化学、器械学の事において、あるいはエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくてもよろしいというのは、元来私が専門学者ではなし、聞いたところで真実深い意味が分かるわけはないのです。唯(ただ)一通りの話を聞くばかりです。一通りの事なら自分で原書を調べて容易に分かるから、コンナ事の詮索はまず二の次にして、ほかに知りたいことがたくさんあるのです。例えばココに病院というものがあります。ところで、その入院費(にゅうひ)の金はどんな塩梅(あんばい)にして誰が出しているのか。また銀行(バンク)というものがあって、その金の支出入はどうしているのか。郵便法が行われていて、その法はどういう趣向にしてあるのか。仏蘭西(フランス)では徴兵令を励行していますが、英吉利(イギリス)には徴兵令がないといいます。その徴兵令というのは、抑(そも)どういう趣向にしてあるのか。その辺の事情が頓(とん)と分からないのです。ソレカラ、また政治上の選拳法というような事がまったく分かりません。分からないから選拳法とはどんな法律で、議院とはどんな役所かと尋ねると、あっちの人はただ笑っています。何を聞くのか、分かりきった事だ、という様なわけです。ソレがこっちでは分からなくて、どうにも始末が付きませんでした。また、党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず鎬(しのぎ)を削って争っているというのです。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サア分からない。コリャ大変なことだ、何をしているのか知らん。少しも考がえの付こうはずがないのです。あの人とこの人とは敵だなんといって、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っているのです。少しも分からない。ソレが略(ほぼ)分かるようになろうというまでには、骨の折れた話で、その謂(いわ)れ因縁が少しずつ分かるようになって来て、入り組んだ事柄になると五日も十日もかかってヤット胸に落ちるというようなわけで、ソレが今度の洋行の利益でした。

樺太の境界談判

それから、その逗留中に誠に情けなく感じたことがあります。と言いますのは、私共の出立前からして日本国中、次第々々に攘夷論が盛んになって、外交は次第々々に不始末だらけになりました。今度の使節が露西亜(ロシア)に行った時にこっちから樺太(カラフト)の境論(さかいろん)を持ち出して、その談判の席には私も出ていたのですが、日本の使節がソレを言い出すと、先方は少しも取り合わないのです。あるいは、地図などを持ち出して、地図の色はこうこういう色ではないか、自(おの)ずからここが境だというと、露西亜(ロシア)人の言うには、地図の色で境が決まれば、この地図を皆赤くすれば世界中露西亜(ロシア)の領分になってしまうだろう。また、これを青くすれば世界中日本領になるだろうというような調子で漫語放言(まんごほうげん)して、とても寄り付かれないのです。マア、兎(と)にも角(かく)にも、お互いに実地を調べたその上の事にしようというので、樺太(カラフト)の境は決めずに、いい加減にして談判はやめになりましたが、ソレを私がそばから聞いていて、これはとても仕様(しよう)がないと思いました。一切万事、頼るところがありません。日本の不文不明の奴等(やつら)が空威張りして攘夷論が盛んになればなる程、日本の国力は段々弱くなるだけの話で、仕舞(しまい)にはどういうようになり果てるだろうかと思って、実に情けなくなりました。

露政府の厚遇

国交際(こっこうさい)の談判は右の通りに水臭(みずくさ)い次第でありますが、使節に対する私の待遇はそうではありませんでした。ペートルスボルグ滞在中は日本使節一行のために特に官舎を貸し渡して、接待委員という者が四、五人あって、その官舎に詰め切りで、いろいろ饗応(きょうおう)してくれますし、その饗応(きょうおう)の仕方というのは、すこぶる手厚く、なに一つ遺憾はないという有様でした。ソレで、御用がない時は名所旧跡を始め諸所の工場というような所に案内して見せてくれるのです。そのうちに、段々と接待委員の人々と懇意になって、種々(しゅじゅ)様々な話もしましたが、その節、露西亜(ロシア)に日本人が一人いるという噂を聞きました。その噂は、どうも間違ない事実であろうと思われます。名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないというのです。もちろん、その噂は接待委員から聞いたのではありません。そのほかの人から漏れたのでありますが、まず公然の秘密というくらいな事で、チャント分かっていました。そのヤマトフに会ってみたいと思うけれども、なかなか会うことができませんでした。到頭(とうとう)、逗留中は出てきませんでした。出て来ないのですが、その接待中の模様にいたっては、ややもすると日本風の事がありました。例えば、室内に刀掛(かたなか)けがあり、寝床(ベッド)には日本流の木の枕があり、湯殿(ゆどの)には糟(ぬか)を入れた糟袋があり、食物も努めて日本調理の風(ふう)にして、箸(はし)茶椀なども日本の物に似ていました。どうしても露西亜(ロシア)人の思い付く物ではありません。シテ見ると、噂の通りどこかに日本人がいるのは間違いない。明らかに分かっているけれども、到頭(とうと)う分からずに帰ってしまいました。私の西航日記にこの事を記して、その傍(かたわら)に詩のようなものが一寸(ちょい)と書いてあります。

起来就食々終眠、飽食安眠過一年、
他日若遇相識問、欧天不異故郷天

今日になって一々記憶もないが、余程日本流の事が多かったと思われます。

露国に止まることを勧む

それからある日の事で、その接待委員の一人が私のところに来て、ちょっとこちらに来てくれといって、一間(ひとま)に私を連れて行きました。何だといって話をすると、私の一身上の事に及んで、お前はこのたび使節に付いて来たが、これから先は日本に帰って何をするつもりなのか。ソリャもちろん知らないが、お前はたいそう金持ちかと尋ねるから、

「イヤ決して金持ではない。マア幾らか日本の政府の用をしているから、用をしていれば自ずからその報酬というものがあるから、衣食の道に差し支えはないものだ。」

と、こう私は答えました。ところが、接待委員のいうに、

「日本の事だから我々にくわしい事情の分かるわけはない。分かりはしないけれども、どうも大体を考えてみたところで日本は小国だ、アアいう小さな国にいて男子の仕事の出来るものじゃない。ソレよりかお前はヒョイとここに心を変えてこの露西亜(ロシア)に留まらないか。」

というから、私は答えて、

「自分の身は使節に随従して来ているものであるから、そう勝手に留まれるわけのものじゃない。」

と有りのままに言うと、

「イヤ、それは造作もない話だ。お前さえ今から決断して隠れる気になれば、すぐに私が隠してやる。どうせ使節は長くここにいる気遣いはない。間もなく帰る。帰ればソレきりだ。そうしてお前は露西亜(ロシア)人になってしまいなさい。この露西亜(ロシア)には外国の人はいくらも来ている。就中(なかんずく)、独逸(ドイツ)の人などは大変に多い。そのほか和蘭(オランダ)人も来ていれば、英吉利(イギリス)人も来ている。だから、日本人が来ていたからといって何も珍しい事はない、是非、ここに留まれ。いよいよ留まると決すれば、その上はどんな仕事でもしようと思えば面白い愉快な仕事はたくさんある。衣食住の安心はもちろん、随分金持ちになる事も出来るから留まれ。」

と懇(ねんごろ)に説いたのは、決して尋常の戯れではありません。チャント一間(ひとま)の中に差し向かいで真面目になって話したのであります。けれども、私がその時に留まるという必要もなければ、また留まろうという気もありませんでした。いい加減に返答をしておくと、その後、二、三度同じような事を言って来ましたが、もとより話はまとまりませんでした。その時に私は大に心付きました。なるほど、露西亜(ロシア)は欧羅巴(ヨーロッパ)の中で、一種風俗の変わった国だというが、ソレに違いない。例えば、今度英仏にも暫く滞留し、また前年、亜米利加(アメリカ)に行ったときにも、人に逢いさえすれば日本に行こう、行こうと言う者が多かったのです。何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れて行ってくれないかと。ソリャもう行く先々でうるさいようにいう者はありましたが、ついぞ留まれということをただの一度も言った人はいませんでした。露西亜(ロシア)に来て初めて留まれという話を聞きました。その趣(おもむき)を推察すれば、決してこれは商売上の話ではありません。どうしても政治上、また国交際上の意味を含んでいるに違いないのです。こりゃどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで留まれと言うところを見れば、あるいは陰険の手段を施すためではないか知らんと思った事がありました。けれども、そんな事を聞いたということを同行の人に語ることも出来ません。語ればどんな嫌疑を蒙(こうむ)るまいものでもないから、その時に語らぬのはもちろん、日本に帰って来ても人に言わずに黙っていました。あるいは、そういうことを言われたのは私一人ではなく、同行の者も同じ事を言われて、私と同じ考えで黙っていた者があったかも知れないのです。とにかくに気の知れぬ国だと思われました。

生麦の報道到来して使節苦しむ

それから、露西亜(ロシア)を去って仏蘭西(フランス)に帰り、いよいよ出発というその時は、生麦(なまむぎ)の大騒動、すなわち、生麦で英人のリチヤードソンという者を薩摩の侍(さむらい)が斬ったということが、ちょうどあっちに報告になった時で、サア仏蘭西(フランス)のナポレオン政府がわれわれ日本人に対して気不味(きまず)くなって来ました。人民はどうか知らないが、政府の待遇の冷淡不愛相(ふあいそう)になった事は甚だしかったです。主人の方でその通りだから、客たるわれわれ日本人のキマリの悪いこと、どうにもいい様がなかったです。日本の使節が港から船に乗ろうというその道は、十町余りもあったかと思います。道の両側に兵隊をずっと並べて見送らせました。これは、敬礼を尽すのではなくして、日本人を脅したに違いないです。兵士を幾ら並べたって、鉄砲を撃つわけでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々しい有様というものは、実に堪らないわけでありました。私の西航記中の一節に、

「閏(うるう)八月十三日(文久二年)、朝八時、ロシフヲルトに到着。ロシフヲルトは巴里(パリ)より仏里にて九十里のところにある仏蘭西(フランス)の海軍港なり。蒸気車より降りて船に乗るまでの道、十余町、この間、盛んに護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似(もっ)て或(ある)いは威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大に疲れたるに、ここに到着して、暫時も休息できず、車より降りて、直ちにまた船に乗る。かつ、船に乗るまで十余町の道のり、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。」

ソレカラ、仏蘭西(フランス)を出発して、葡萄牙(ポルトガル)のリスボンに寄港し、使節の公用を済まして、また船に乗り、地中海に入り、印度(インド)洋に出て、海上無事、日本に帰ってみれば、攘夷論が真っ盛りでした。


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