福翁自伝 15. 老余の半生
仕官を嫌う由縁
私の生涯は、終始替わることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍しいことはない。今の世界に、人間普通の苦楽を嘗(な)めて、今日に至るまで大に愧(は)じることもなく、大に後悔することもなく、心静かに月日を送りしは、先ずもって身の仕合(しあわ)せと言わねばならぬ。ところで、世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し、色々に疑う者もありましょう。就中(なかんずく)、私がマンザラの馬鹿でもなく、政治の事も随分(ずいぶん)知っていながら、遂(つい)に政府の役人にならぬというは可笑(おか)しい。日本社会の十人は十人、百人は百人、皆、立身出世を求めて役人にこそなりたがるそのところに、福澤が一人、これをいやがるのは不審だと、蔭(かげ)で密かに評論するばかりでない。現に、直接に私に向かって質問する者もある。啻(ただ)に日本人ばかりでない。知己(ちき)の外国人も私の進退を疑い、なぜ政府に出て仕事をせぬか。政府の好地位に立って思う事を行えば、名誉にもなり金にもなり、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私はただ笑って取り合わぬ。ソコで、維新の当分は、政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、あれは旧幕府に操(みさお)を立てて新政府に仕官せぬ者である。将軍政治を悦(よろこ)んで、王政を嫌う者である。古来、革命の歴史に前朝の遺臣という者があるが、福澤もその遺臣を気取って、物外に瓢然(ひょうぜん)としていながら、心中無限の不平を抱いているに違いない。心に不平があれば、新政府のためによいことは考えない。油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像をめぐらしている者の多いのは、私も大抵(たいてい)知っている。ところが、かく評せらるる前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が盛んに忠義論を論じて佐幕の気焔(きえん)を吐いて脱走までする時に、私は強(し)いて議論もせず、脱走連中に知っている者があれば、余計な事をするな、負けるからよしにしろと言って止めていたくらいだから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。
前朝の遺臣といえば、維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度(ちょうど)適当の嵌役(はまりやく)なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて、いつの間にか早替わり。第二の忠義役を勤めて、第二の忠臣義士となっているから、これも遺臣といわれぬ。その遺臣論はしばらく差しおき、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から嫌いだから佐幕の気がない。さればとて、勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷。もとよりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、ただジッと中立独立と説を決めていると、今度の新政府は開国に豹変(ひょうへん)した様子で、立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず。東西南北、いずれを見ても共に語るべき人は一人もなし。ただ独りで身に叶うだけの事を勤めて、開国一偏、西洋文明の一点張りでリキンでいる内に、政府の開国論が次第々々に本当のものになって来て、一切(いっさい)万事、改進ならざるはなし。所謂(いわゆる)文明、駸々乎(しんしんこ)として進歩するの世の中になったこそ、実にありがたい仕合(しあわ)せで、実に不思議な事で、いわば私の大願も成就したようなものだから、最早(もはや)、一点の不平はいわれない。
問題更(さ)らに起る
ソコで私の身の進退についても更(さ)らに問題が起る。これまで新政府に出身しなかったのは、政府が鎖国攘夷の主義であるからこれを嫌うたのだ。仮令(たと)い開国と触れ出してもその内実は鎖攘の根性。信ずるに足らずと見縊(みくび)ったのである。しかるに、政府の方針が、いよいよ開国文明と決して、着々事実に顕(あらわ)るるにおいては、官界に力を尽くして、政府人と共に文明の国事を経営するこそ本意ではないか、と世間の人の思うのは、一寸(ちょい)ともっとものように見えるが、この一段になってもマダ私に動く気がない。
殻威張の群に入るべからず
従前(これまで)曾(かつ)て人に語らず、また語る必要もないから黙っていて、内の妻子も本当に知りますまいが、私の本心において、何としても仕官(しかん)が出来られないその真面目(しんめんぼく)を丸出しに申せば、第一、政府がその方針を開国文明と決定して、大いに国事を改革すると同時に、役人達が国民に対して無暗(むやみ)に威張(いば)る。その威張(いば)るのも、行政上の威厳と言えば自ずから理由もあるが、実際はそうでない。ただ、殻威張(からいばり)をして喜んでいる。例えば、位記などは王政維新、文明の政治と共に罷(や)めそうなことを罷(や)めずに、人間の身に妙な金箔を着けるような事をして、日本国中いらざるところに上下貴賤の区別を立てて、役人と人民と、人種の違うような細工をしている。既に政府が貴(たっと)いといえば、政府に入る人も自然に貴くなる。貴くなれば自然に威張るようになる。その威張りは即ち、殻威張で、誠に宜(よろ)しくないと知りながら、何もかも自然の勢いで、役人の仲間になればいつの間にか共に殻威張をやるように成り行く。然(し)かのみならず、自分より下に向かって威張れば、上に向かっては威張られる。鼬(いたち)こっこ、鼠(ねずみ)こっこ、実に馬鹿らしくて面白くない。政府に入りさえせねば馬鹿者の威張るのをただ見物して、ただ笑っているばかりなれども、今の日本の風潮で、役人の仲間になれば、仮令(たと)い最上の好地位に居ても、とにかくに殻威張(からいばり)と名づくる醜体(しゅうたい)を犯さねばならぬ。これが私の性質において出来ない。
身の不品行は人種を殊にするが如し
これを第一として、第二には、甚だ申し憎いことだが、役人全体の風儀を見るに、気品が高くない。その平生美衣美食(びいびしょく)、大きな邸宅に住居して、散財の法も奇麗で、万事万端、思い切りがよくて、世に処し政(まつりごと)を料理するにも卑劣でない。至極(しごく)面白い気風であるが、何分にも支那流の磊落(らいらく)を気取って、一身の私を慎むことに気が付かぬ。ややもすれば、酒を飲んで婦人に戯(たわぶ)れ、肉慾をもって無上の快楽事としているように見える。家の内外に妾(しょう)などを飼って、多妻の罪を犯しながら恥かしいとも思わず、その悪事を隠そうともせずに横風(おうふう)な顔をしているのは、一方に西洋文明の新事業を行い、他の一方には和漢の旧醜体を学ぶものといわねばならぬ。ダカラ、ほかの事を差し置いて、この一点について見れば、何だか一段下った下等人種のように見える。これも、世の中の流俗として遠方から眺めていれば、そこまで憎らしくもなく、また咎(とが)めようとも思わぬ。時に往来して用事も語り、談笑妨げなけれども、さていよいよこの人種の仲間になって、一つ竈(かまど)の飯を喰い、本当に親しく近くなろうというには、どことなく穢(きた)ないように、汚れたように思われて、ツイ嫌になる。これは私の潔癖とでもいうようなもので、全体を申せば度量の狭いのでしょうが、何分にも生まれつきの性質とあればしかたがない。
忠臣義士の浮薄(ふはく)を厭(いと)う
第三、幕末に勤王、佐幕の二派が東西に立ち分かれているその時に、私はただ古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、もとより幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰してしまうがよいと、不断気焔(きえん)を吐いていたが、さればとて、勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も激しいから、もとよりコンな連中に心を寄せるはずはない。ただ黙って傍観している中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げて帰って来た。スルと、幕府の人は勿論(もちろん)、諸方の佐幕連が中々喧(やかま)しくなって、議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にして棄(す)つべからず。三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず。薩長何者ぞ。ただこれ関ヶ原の降参武士のみ。常々たる三河(みかわ)譜代の八万騎。何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきや、なんて大造(たいそう)な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に迎え撃たんとする者もあれば、軍艦をもって脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、諫争(かんそう)の極(きょく)。声を放って号泣するなんぞは、いかにもエライ有様(ありさま)で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウトウ行われずに、幕府がいよいよ解散になると、忠臣義士は軍艦に乗って箱館(はこだて)にいる者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、またはプリプリ立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地といって、東京で出来た物は菓子も喰わぬ。夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ。東京の話をすれば口が汚れる。話を聞けば耳が汚れるという塩梅(あんばい)式は、まるで今世の伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)。静岡はあたかも明治初年の首陽山(しゅようざん)であったのは凄まじい。ところが、一年立ち、二年立つ中に、その伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)殿が首陽山(しゅようざん)に蕨(わらび)の乏しいのを感じたか、ソロソロ山の麓(ふもと)に下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体(からだ)を丸出しにして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)も、猫も杓子(しゃくし)も政府の辺に群れ集まって、以前の賊徒、今の官員衆に謁見。これは初めて御目に掛るともいわれまい。兼ねて御存じの日本臣民で御座るというような調子で、君子は既往を語らず、前言(ぜんげん)、前行(ぜんこう)はただ戯(たわぶ)れのみと、双方打ち解けて波風なく治まりの付いたのは誠にめでたい。何も咎め立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。そも王政維新の争いが、政治主義の異同から起こって、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、遂に幕府の敗北となり、その後に至って勤王家も大いに悟りて開国主義に変じ、恰(あたか)も、佐幕家の宿論に投ずるが故に、これと共に爾後(じご)の方針を共にすると言えば至極尤(もっとも)に聞こゆれども、当時の争いに開鎖などという主義の沙汰(さた)は少しもない。佐幕家の進退は一切(いっさい)万事、君臣の名分から割り出して、徳川三百年の天下云々(うんぬん)と争いながら、その天下が無くなったら争いの点も無くなって、平気の平左衛門(へいざえもん)とは可笑(おか)しい。ソレも理窟の分からぬ小輩ならばもとよりよろしいが、争論の発起人で、頻(しき)りに忠義論を唱えて伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)を気取り、またはその身、自ら脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運による。負けても恥かしいことはない。議論があたらなかっても構わないが、やりそこなったらその身の不運と諦めて、山に引き込むか、寺の坊主にでもなって生涯を送ればよいと思えども、中々もって坊主どころか、洒蛙々々(しゃあしゃあ)と高い役人になって嬉しがっているのが私の気に喰くわぬ。さてさて、忠臣義士も当てにならぬ。君臣主従の名分論も浮気なものだ。コンな薄っぺらな人間と伍をなすよりも、独りでいる方が心持ちがよいと説を決めて、初一念を守り、政治の事は一切(いっさい)人に任せて、自分は自分だけの事を勉めるように身構えをしました。実は、私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情をよく知っているから、忠臣義士の成行(なりゆき)を見ると、ツイ気の毒になって、意気地なしのように、腰抜けのように思うまいと思っても、思われて堪らない。全く私の癇癪でしょうが、これも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
独立の手本を示さんとす
第四には、勤王、佐幕などという喧(やかま)しい議論は差し置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も、町人の弟も、少しばかり文字でも分かる奴は、皆役人になりたいという。仮令(たと)い役人にならぬでも、とにかくに政府に近づいて何か金儲けでもしようという熱心で、その有様(ありさま)は、臭い物に蠅(はえ)のたかるようだ。全国の人民、政府に依(よ)らねば身を立てるところのないように思って、一身独立という考えは少しもない。偶(たまた)ま、外国修業の書生などが帰って来て、「僕は畢生(ひっせい)、独立の覚悟で政府仕官は思いも寄らぬ」なんかんと鹿爪(しかつめ)らしく私方へ来て満腹の気焔(きえん)を吐く者は幾らもある。私は最初から当てにせずに、いい加減に聞き流していると、その独立先生が久しく見えぬ。スルと後に聞けば、その男はチャンと何省の書記官になり、運のいい奴は地方官になっているというような風(ふう)で、何もこれを咎めるではない。人々の進退は、その人の自由自在なれども、全国の人がただ政府の一方を目的にして、ほかに立身の道なしと思い込んでいるのは、畢竟(ひっきょう)、漢学教育の余弊で、所謂(いわゆる)、宿昔(しゅくせき)青雲の志ということが先祖以来の遺伝に存(そん)している、一種の迷いである。今この迷いを醒まして、文明独立の本義を知らせようとするには、天下一人でもその真実の手本を見せたい。また、自ずからその方針に向かう者もあるだろう。一国の独立は、国民の独立心から湧いて出ることだ。国中を挙げて古風の奴隷根性では、とても国が持てない。出来ることか出来ないことか、ソンな事に躊躇(ちゅうちょ)せず、自分がその手本になってみようと思い付き、人間万事無頓着(むとんじゃく)と覚悟を決めて、ただ独立独歩と安心決定(けつじょう)したから、政府に依りすがる気もない。役人達に頼む気もない。貧乏すれば金を使わない。金が出来れば自分の勝手に使う。人に交わるには、出来るだけの誠を尽くして交わる。ソレでも忌(いや)といえば、交わってくれなくても宜(よろ)しい。客を招待すれば、こっちの家風の通りに心を用いて饗応する。その風が嫌いなら来てくれなくても苦しうない。こっちの身に叶うだけを尽くして、ソレから上は先方の領分だ。誉めるなり、譏(そし)るなり、喜ぶなり、怒るなり、勝手次第にしろ。誉められて、左(さ)まで歓びもせず、譏(そし)られて、左(さ)まで腹も立てず、いよいよ気が合わねば、遠くに離れて附き合わぬばかりだ。一切(いっさい)万事、人にも物にもぶら下らずに、いわば捨身になって世の中を渡る、とチャンと説を決めているから、何としても政府へ仕官などは出来ない。この流儀が果たして世の中の手本になっていい事か、悪い事か、ソレも無頓着(むとんじゃく)だ。よければ甚だよろしい。悪ければソレまでの事だ。その先まで責任を脊負い込もうとは思いません。
右の通り条目を並べて、第一から第四まで述べ立てて見れば、私の政府に出ないのは、初めからチャンと理窟を決めて箇様々々(かようかよう)と自ら自分を束縛してあるように見えるが、実はソレホド窮窟なわけではない。ソレホド難しい事でもない。ただ、今日これを筆記して人に分かるようにしようとするには、話に順序がなくては叶わぬ。ソコで、久しい前年から今日に至るまで、物に触れ、事に当り、人と談論した事などを思い出して、あの時はアアであった、この時はこうであったと、記憶中に往来するものを取り集めて見ると、前に記した通りになる。詰まるところ、私は政治の事を軽く見て熱心でないのが、政界に近づかぬ原因でしょう。喩(たと)えば、人の性質に下戸(げこ)上戸(じょうご)があって、下戸は酒屋に入らず、上戸は餅屋に近づかぬというくらいのもので、政府が酒屋なら私は政事の下戸でしょう。
政治の診察医にして開業医に非ず
とは言うものの、私が政治の事を全く知らぬではない。口に談論もすれば、紙に書きもする。但し、談論書記するばかりで、自らその事に当たろうと思わぬその趣(おもむき)は、恰(あたか)も、診察医が病を診断して、その病を療治しようとも思わず、また事実において療治する腕もないようなものでしょうが、病床の療治は皆無(かいむ)素人(しろうと)でも、時としては診察医も役に立つことがある。ダカラ、世間の人も私の政治診断書を見て、「これは本当の開業医で療治が出来るだろう、病家を求めるだろう」、と推察するのは大間違いの沙汰(さた)です。
明治十四年の政変
この事について、一寸(ちょい)と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起こって、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政(せっせい)、大隈(おおくま)、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参って、あるところで面会してみると、何か公報のような官報のような新聞紙を起こすから、私に担任してくれろと言う。一向、趣意(しゅい)が分からぬから、まず御免と申して去ると、その後、度々(たびたび)人の往復を重ねて話が濃くなり、とうとうしまいに、政府はいよいよ国会を開くつもりで、その用意のために新聞紙も起こす事であると秘密を明かしたから、これは近頃面白い話だ。ソンな事なら考え直して新聞紙も引き受けようと、およそ約束は出来たが、マダいつからという期日は定まらずに、そのままに年も明けて、明治十四年となり、十四年も春去秋来(しゅんきょしゅうらい)、頓(とん)と埒(らち)の明かぬ様子なれども、こっちも、左(さ)まで急ぐ事でないから、打ち遣(や)って置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前、至極(しごく)同主義でありし、「隈」「伊」「井」の三人が漸(ようや)く不和になって、その果ては、大隈(おおくま)が辞職することになりました。さて、大隈(おおくま)の辞職は、左(さ)まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随(したが)って、また種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体、大隈というは専横な男で、様々に事を企てるその後ろには、福澤がいて謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が金主になって、既(すで)に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書を見たような事を触れ廻して、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して、色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂(いわゆる)、儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な風(ふう)になって来て、その風(ふう)が全国の隅々までも靡(なび)かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑しているでしょう。およそ、当時の政変は、政府人の発狂とでもいうような有様(ありさま)で、私はその後、岩倉(いわくら)から度々(たびたび)呼びに来て、ソッと裏の茶室のようなところで面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である。西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりも難しい、なんかんと話すのを聞けば、余程(よほど)騒いだものと察しられる。実に馬鹿気たことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応するといって案内状を出したようなものだ。ところが、その十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向けて、人を捕えて牢に入れたり、東京の外に追い出したり、マダそれでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、これ見よがしに殻威張(からいばり)をやっているから、天下の人はますます腹を立てて暴れ廻わる。何の事はない、饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬ先に角突合いになっているから可笑(おか)しい。十四年の真面目(しんめんもく)の事実は、私が詳(つまび)らかに記して、家に蔵(きす)めてあるけれども、今更、人の嫌がる事を公けにするでもなし、黙っていますが、そのとき私は寺島(てらしま)と極懇意だから、何もかも話して聞かせて、
「ドウダイ、僕が今、口まめに饒舌(しゃべ)って廻ると政府の中に随分(すいぶん)困る奴が出来るが。」
と言うと、寺島も初めて聞いて驚き、
「成程そうだ、政治上の魂胆は随分汚いものとは言いながら、これはアンマリ酷い。少し捩(ねじ)くってやってもよいじゃないか。」
と、わざと勧めるような風(ふう)であったけれども、私はそれ程に思わぬ。
「御同前に年はモウ四十以上ではないか、まずまず、ソンナ無益な殺生はやめにしよう。」
と言って、笑って分かれたことがある。
保安条例
コンな訳で、私は十四年の政変のその時から、何も実際に関係はない。俗界にいう政治上の野心など、思いも寄らぬ事だから誠に平気で、ただ他人のドタバタするのを見物しているけれども、政府の目をもってこの見物人を見れば、また不思議なもので、色々な姿に写ると見える。明治何年か、保安条例の出たとき、私もこの条例の科人(とがにん)になって東京を追い出されるという風聞。ソレは、その時塾にいた小野友次郎(おのともじろう)が警視庁に懇意(こんい)の人があって、極内々その事を聞き出して、私と同時に後藤象次郎(ごとうしょうじろう)も共に放逐(ほうちく)と確かにいうから、
「ナニ、殺されるではなし。イザといえば川崎辺まで出て行けばよい。」
と申している中、その翌日か翌々日か、小野がまた来て、前の事は取り消しになったというので事は済みました。またその後、明治二十年頃かと思う、井上角五郎(いのうえかくごろう)が朝鮮で何とやらしたというので捕えられて、その時の騒動というものは大変で、警察の役人が来て私方の家捜しサ。それから、井上が何か吟味にあって、福澤諭吉に証人になって出て来いといって、私を態々(わざわざ)裁判所に呼び出して、タワイもない事を散々尋ねて、ドウかしたら福澤も科人(とがにん)の仲間にしたいというような風(ふう)が見えました。すべてコンな事は、ただ大間違いで、私の身には何ともない。かえって世の中の人心の動く、その運動の方向緩急を視察して面白く思っているが、また一歩を進めて虚心平気(きょしんへいき)に考えれば、私が兎角(とかく)政界の人に疑われるというのも全く無理はない。第一、私は何としても役人になる気がない。これは世間に例の少ない事で、仕官流行、熱中奔走の世の中に、独りこれが嫌いといえば、一寸(ちょい)と見て不審を起こさねばならぬ。ソレもいよいよ、官途に気がないとならば田舎にでも引っ込んでしまえばいいに、都会の真中にいて、しかも多くの人に交際して、口も達者に筆もまめに、洒蛙々々(しゃあしゃあ)と饒舌(しゃべっ)たり、書いたりするから、世間の目に触れ易く、したがって、人に不審を懐(いだ)かせるのも自然の勢いである。
一片の論説能く天下の人心を動かす
これを第一として、もう一つ本当の事を言うと、私の言論をもって政治社会に多少の影響を及ぼしたこともありましょう。例えば、これまで頓(とん)と人の知らぬ事で面白い話がある。明治十年、西南の戦争も片付いた後、世の中は静かになって、人間がかえって無事に苦しむというとき、私が不図(ふと)思い付いて、これは国会論を論じたら天下に応ずる者もあろう。随分(ずいぶん)面白かろう、と思って、ソレからその論説を起草して、マダその時には、時事新報とい
うものはなかったから、報知新聞の主筆、藤田茂吉(ふじたもきち)、箕浦勝人(みのうらかつんど)にその草稿を見せて、
「この論説は、新聞の社説として出されるなら出して見なさい。屹(きっ)と世間の人が悦(よろこ)ぶに違いない。但(ただ)し、この草稿のままに印刷すると、文章の癖が見えて福澤の筆ということが分かるから、文章の趣意(しゅい)は無論、字句までも原稿の通りにして、ただ意味のない妨げにならぬところをお前達の思う通りに直して、試(こころ)みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないか。」
と言うと、年の若い元気のいい藤田、箕浦だから、大いに悦(よろこ)んで草稿を持って帰って、早速、報知新聞の社説に戴せました。当時、世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、この社説が果たして人気に投ずるやら、または、何でもない事になってしまうやら、頓(とん)と見込みが付かぬ。およそ一週間ばかり、毎日のように社説欄内を填(うず)めて、また藤田、箕浦が筆を加えて、東京の同業者を煽動(せんどう)するように書き立てて、世間の形勢如何(いかん)と見ていたところが、不思議なるかな、およそ二、三ヶ月も経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧(やかま)しくなって来て、遂(つい)には例の地方の有志者が、国会開設請願なんて東京に出て来るような騒ぎになって来たのは、面白くもあれば、ヒョイと考え直して見れば、仮令(たと)い文明進歩の方針とはいいながら、直(ただ)ちに自分の身に必要がなければ、物数寄(ものずき)といわねばならぬ。その物数寄(ものずき)な政治論を吐いて、はからずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない。あたかも、秋の枯野に自分が火を付けて、自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました。しかし、国会論の種は、維新の時から蒔(ま)いてあって、明治の初年にも民選議院云々(うんぬん)の説もあり、その後、とても毎度同様の主義を唱えた人も多い。ソンな事が、深い永い原因に違いはないけれども、不図(ふと)した事で私が筆を執って、事の必要なる理由を論じて、喋々喃々(ちょうちょうなんなん)数千言、噛んでくくめるように言って聞かせた後で、間もなく天下の輿論(よろん)が一時に持ち上がって来たから、どうしても報知新聞の論説が一寸(ちょい)と導火(くちび)になっていましょう。その社説の年月を忘れたから、先達(せんだっ)て箕浦に面会、昔話をして新聞の事を尋ねてみれば、同人もチャンと覚えていて、その後、古い報知新聞を貸してくれて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書かき並べて、一寸(ちょい)と辻褄(つじつま)が合っています。これが、今の帝国議会を開くための加勢になったかと思えば自分でも可笑(おかし)い。シテ見ると、先の明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんといわれて、その後も兎角(とかく)私の身に目を着ける者が多くて、色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とはいいながら、間接には自(おの)ずから因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の為に利益なればこそ善(よ)けれ。これが実際の不利益ならば、私は現世の罪は免れても、死後閻魔(えんま)の庁で酷い目に逢うはずでしょう。報知新聞の一件ばかりでない。政治上について、私の言行はすべてコンな塩梅(あんばい)式で、自分の身の私に利害はない、所謂(いわゆる)診察医の考えで、政府の地位を占めて自ら政権を振り廻して大下の治療をしようという了簡はないが、どうでもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にしてみたいとばかり、それが大本願で、自分独り自分の身に叶うだけの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢っても何ともない。別段に頼むこともなければ、相談することもない。貧富苦楽、独り分に安(やす)んじて平気でいるから、考えの違う役人達が私の平生を見たり聞いたりして、変に思ったのも決して無理でない。けれども、真実において私は政府に対して少しも怨みはない。役人達にも悪い人と思う者は一人もない。これが、封建門閥の時代に私の流儀にしていたらば、ソレコソいかなる憂き目にあっているか知れない。今日、安全に寿命を永くしているのは、明治政府の法律の賜(たまもの)と思って喜んでいます。
時事新報
ソレから、明治十五年に時事新報という新聞紙を発起しました。丁度(ちょうど)、十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来て頻(しき)りにこの事を勧める。私もまた、自分で考えてみるに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も、日々夜々運動の最中、相互(あいたがい)に敵味方が出来て、議論は次第に喧(かまびす)しくなるに違いない。既に前年の政変も、いづれが是か非かソレは差し置き、双方、主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起きれば、経済、商売上にも同様の事が起こらねばならぬ。今後はいよいよ、ますます甚だしい事になるであろう。この時に、当て必要なるは、所謂(いわゆる)不偏不党の説であるが、さてその不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏するところがあって、一身の利害に引かれては、とても公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今、全国中に、いささかながら独立の生計をなして、多少の文思(ぶんし)もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくして、あたかも物外に超然たる者は、おこがましくも、自分のほかに適当の人物が少なかろうと、心の中に自問自答して、遂(つい)に決心して新事業に着手したものが、即(すなわ)ち時事新報です。既に決断した上は、友人中これを止める者もありしが、一切(いっさい)取り合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと、他人の世話になろうと思わず、この事を起こすも自力なれば、倒すも自力なり、仮令(たと)い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに非らず。また、自分の不名誉とも思わず、起こすと同時に倒すの覚悟をもって、世間の風潮に頓着(とんじゃく)なしに今日までも首尾よくやって来たことですが、畢竟(ひっきょう)、私の安心決定(けつじょう)とは申しながら、その実は私の朋友には正直有為(ゆうい)の君子が多くて、何事を打ち任せても間違いなどという、嫌な心配は聊(いささ)かもない。発行の当分、何年の間は中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)が引き受け、その後は伊藤欽亮(いとうきんすけ)、今は次男の捨次郎(すてじろう)がこれに任じ、会計は本山彦一(もとやまひこいち)、次で坂田実(さかたみのる)、今は戸張志智之助(とばりしちのすけ)等が専ら担任していますが、私の性質として金銭出納の細目を聞いたこともなく、見たこともなく、その人々のするがままに任せておいて、かつて一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続するわけでしょう。また、編輯(へんしゅう)の方について申せば、私の持論に、執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべし。他人の事を論じ、他人の身を評するには、自分とその人と、両々相対(あいたい)して直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず。いかなる劇論、いかなる大言壮語も苦しからねど、新聞紙にこれを記すのみにて、さてその相手の人に面会したとき、自分の良心に愧(は)じて率直に陳(の)べることの叶わぬ事を書いていながら、遠方から知らぬ風をして、あたかも逃げて廻るようなものは、これを名づけて蔭弁慶(かげべんけい)の筆という。その蔭弁慶こそ無責任の空論となり、罵言讒謗(ばりざんぼう)の毒筆となる。君子の愧(は)ずべきところなり、と常に警(いまし)めています。しかし、私も次第に年をとり、いつまでもコンな事に勉強するでもなし、老余はなるたけ閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明(いしかわみきあき)、北川礼弼(きたがわれいすけ)、堀江帰一(ほりえきいち)などが専ら執筆して、私は時々立案して、その出来た文章を見て一寸々々(ちょいちょい)加筆するくらいにしています。
事を為すに極端を想像す
さて、これまで長々と話を続けて、私の一身の事、また私に関係した世の中の事をも語りましたが、私の生涯中に一番骨を折ったのは著書、飜訳(ほんやく)の事業で、これには中々話が多いが、その次第は本年再版した福澤全集の緒言(ちょげん)に記してあればこれを略し、著訳の事を別にして、元来(がんらい)私が家におり、世に処するの法を一括して手短かに申せば、すべて事の極端を想像して、覚悟を決め、マサカの時に狼狽(ろうばい)せぬように、後悔せぬようにとばかり考えています。生きている身は、いつ何時(なんどき)死ぬかも知れぬから、その死ぬ時に落ち付いて静かにしようというのは誰も考えていましょう。それと同様に、例えば、私が自身自家の経済については、何としても他人に対して不義理はせぬと心に決定(けつじょう)しているから、危い事を犯すことが出来ない。こうすれば利益がある、そうすれば金が出来るなどいっても、危険を犯して失敗したときには必ず狼狽(ろうばい)することがあろう、後悔することがあろうと思って、手を出すことが出来ない。金を得て金を使うよりも、金がなければ使わずにいる。按摩按腹(あんぷく)をしても餓えて死ぬ気遣(づか)いはない。粗衣粗食などに閉口する男でないと、力身込(りきみこ)んでいるようなわけで、私が経済上に不活溌なのは失敗の極端を恐れて鈍くしているのですが、そのほか直接に一身の不義理にならぬ事については必ずしも不活溌でない。トドの詰まり、遣傷(やりそこ)なっても、自身独立の主義に妨げのない限りは颯々(さっさつ)とやります。例えば、慶應義塾を開いて何十年来、様々変化は多い。時としては、生徒の減ることもあれば、増えることもある。ただ、生徒ばかりでない。会計上からして教員の不足することも度々でしたが、ソンな時にも払いは少しも狼狽しない。生徒が散ずれば、散ずるままにして置け。教員が出て行くなら、行くままにして留めるな。生徒散じ、教員去って塾が空屋になれば、残る者はおれ一人だ。ソコで一人の根気で教えられるだけの生徒を相手に自分が教授してやる。ソレも生徒がなければ、強いて教授しようとはいわぬ。福澤諭吉は、大塾を開いて天下の子弟を教えねばならぬと人に約束したことはない。塾の盛衰に気を揉むような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟を決めて、塾を開いたその時から、何時(なんどき)でもこの塾を潰してしまうと始終考えているから、少しも怖いものはない。平生は塾務を大切にして、一生懸命に勉強もすれば心配もすれども、本当に私の心事の真面目(しんめんもく)を申せば、この勉強、心配は浮世の戯れ。仮りの相ですから、勉めながらも誠に安気です。近日はまた、慶應義塾の維持のためとて、本塾出身の先進輩が頻(しき)りに資金を募集しています。これが出来れば、この道のために誠に有益な事で、私も大いに喜びますが、果たして出来るか出来ないか、私はただ静かにして見ています。また、時事新報の事も同様、最初から是非とも永続させねばならぬと誓いを立てたわけでもなし、あるいは、倒れることもあろう。その時に後悔せぬようにと覚悟をしているから、これも左(さ)までの心配にならぬ。また、私の著訳書に、他人の序文を求めたことのないのも、矢張り同じ趣意(しゅい)であると申すは、人の序文、題字などをもって出版書の信用を増すは、自ずから名誉でもあろうが、内実は発売を多くせんとするの計略といってもよろしい。ところが、私の考えは左様(そう)でない。自分の著訳書が世間に流行すればよいと、固(もと)より心の中に願いながらも、また一方から考えて、これが全く売れなくても後悔はしないと、例の極端を覚悟しているから、実際の役にも立たぬ余計な文字を人に書いてもらったことはない。また、他人に交わるの法もこの筆法に従い、私は若い時からドチラかといえば出しゃばる方で、交際の広い癖に、ついぞ人と喧嘩をしたこともない。親友も甚だ多いが、この交際に就(つ)いても、矢張(やはり)極端説は忘れない。今日までこの通りに仲好く附き合いはしているが、先方の人がいつ何時(なんどき)変心せぬという請合は難しい。もし左様(そう)なれば、交際はやめなければならぬ。交際をやめても、こっちの身に害を加えぬ限りは相手の人を憎むには及ばぬ。ただ近づかぬようにするばかりだ。コンな事で朋友が一人なくなり、二人なくなり、次第に淋しくなって、自分独り孤立するようになっても苦しうない。決して後悔しない。自分の節を屈して、好かぬ交際は求めずと、少年の時から今に至るまでチャンと説は決めてありながら、さて実際には頓(とん)とソンな必要はない。生来、六十余年の間に、知る人の数は何千も何万もあるその中で、誰と喧嘩したことも義絶したこともないのが面白い。すべて、こういう塩梅(あんばい)式で、私の流儀は仕事をするにも、朋友に交わるにも、最初から棄て身になって取って掛かり、仮令(たと)い失敗しても苦しからずと、浮世の事を軽く視(み)ると同時に、一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るに左(さ)までの困難もなく、安気に今日まで消光(くら)して来ました。
身体の養生
さてまた、心の養生法は右の如(ごと)しとして、身の養生は如何(どう)だと申すに、私の身に極めてよろしくない、極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、しかも、図抜(ずぬ)けの大酒。世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくてもいいという人があるが、私は左様(そう)でない。私の口には酒が旨くて、多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠によく分かる。先年中、一樽の価(あたい)七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、先(ま)ず価(あたい)を聞かずに、チャンとその風味を飲み分けるというような黒人(くろうと)で、その上等の酒をウンと飲んで、肴(さかな)も良い肴(さかな)を沢山(たくさん)喰(く)らい、満腹、飲食(のみくい)した後で、飯もドッサリ給(た)べて残すところなしという、誠に意地の穢(きた)ない、所謂(いわゆる)牛飲馬食ともいうべき男である。尚(なお)その上に、この賤(いや)しむべき男が酒に酔って酔狂でもすれば、自から警(いまし)めるということもあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えばただ大きな声をして饒舌(しゃべ)るばかり。遂(つい)ぞ人の気になるような、嫌がるような根性の悪いことをいって喧嘩をしたこともなければ、上戸(じょうご)本性、真面目(まじめ)になって議論したこともないから、人に邪魔にされない。これが却(かえ)って不幸で、本人はいい気になって、酒とさえいえば、一番先に罷出(まかりで)て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで、天下に敵なしなんて得意がっていたのは、返す返すも愧(はずか)しい事であるが、酒の事を除いて、そのほかになれば、私は少年の時からいい加減な摂生家といってもよろしい。何も別段に摂生をしようなんて、ソンな難しい考えのあろうようもないが、日に三度の食事のほかにメッタに物を食わない。あるいは、母が給(た)べさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって、間の食物が欲しくない。ことに、晩食の後、夜になれば如何(いか)なる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば、親類の不幸に通夜するとか、または近火の騒ぎに夜を更(ふ)かすとかして、自然に其処(そこ)に食物が出て来ても食う気にならぬ。これは、母に仕込まれた習慣が生涯残っているのでしょう。摂生のためには最も宜(よろ)しい習慣です。また、私は随分気の長い方でない。何事もテキパキ早くやるという風(ふう)で、時としては人に笑われるような事も多い。ところが、三度の食事となると丸で別人のように変化して、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に早飯(はやめし)と何とやらは武士の嗜(たしなみ)なんといって、人に悪くいわれた事もあり、また自分でも早く食いたいと思っていたが、何分にも頬張(ほおば)って生噛(なまがみ)にして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで、生噛(なまがみ)の宜(よろ)しくない事を知って、初めてこれは却(かえ)って自分の悪い癖がいい事になったと合点して大きに悦び、爾来(じらい)、憚(はばか)るところもなく、ゆるゆる食事をして、およそ人の一、二倍も時を費します。これも摂生のために甚だ宜(よろ)しい。
漸(ようや)く酒を節す
ソレカラ、また酒の話になって、私が生得(しょうとく)酒を好んでも、郷里にいるとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから随分(ずいぶん)自由に飲むことは飲んだが、兎角(とかく)銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中(のうちゅう)も少し温かになって酒を買うくらいの事は出来るようになったから、勉強の傍(かたわ)ら飲むことを第一の楽しみにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むというようなわけで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わずよくも飲みました。それから三十二、三歳の頃と思う。独り大いに発明して、こう飲んではとても寿命を全くすることは叶わぬ。左(さ)ればとて、断然禁酒は、以前に覚えがある。ただ、一時の事で永続きが出来ぬ。詰まり、生涯の根気でそろそろ自ら節するのほかに道なしと決断したのは、支那人が阿片(あへん)をやめるようなもので、随分苦しいが、先ず第一に朝酒を廃し、暫くして次に昼酒を禁じたが、客のあるときは矢張り客来を名にして飲んでいたのを、漸(ようや)く我慢して、後には、その客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、これだけは、どうやら、こうやら首尾よく出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃はとても行われないから、そろそろ量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反(あいはん)して喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、やや穏やかになるまでには三年も掛かりました。と言うのは、私が三十七歳のとき、酷(ひど)い熱病に罹って、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、これが以前のような大酒では、とても助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒の賜(たまもの)に相違ない、と言ったのを覚えているから、私が生涯鯨飲(げいいん)の全盛はおよそ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにしていたが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎というよりも、年齢老却のせいでしょう。とにかくに、人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、遂にはただの清酒は利きが鈍いなんて、ブランデーだのウィスキーだの飲む者があるが、アレはよくない。苦しかろうが、やめるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のとき、トウトウ酒慾を征伐して勝利を得たから、まして今の大酒家といっても私より以上の者は先ず少ない。高の知れた酒客の葉武者(はむしゃ)だ。そろそろやれば節酒も禁酒もきっと出来ましょう。
身体運動
ソレから、私の身体運動は如何(どう)だと、その話もしましょう。幼年の時から貧家に生まれて、身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって、生涯身体を動かしています。少年のとき、荒仕事ばかりして、冬になると瘃(あかぎれ)が切れて血が出る。スルと木綿糸で瘃(あかぎれ)の切口を縫って、熱油(にえあぶら)を滴(た)らして手療治(てりょうじ)をしていた事を覚えている。江戸に来てから、自然ソンナことが無くなったから、ある時、
鄙事多能年少春
立身自笑却壊身
浴余閑坐肌全浄
曾是綿糸縫瘃人
鄙事(ひじ)に多能なりき少年の日は
立身して自ら笑う却って身を壊(やぶ)るを
浴余閑坐して肌は全く浄(きよ)し
曾(かつ)て是れ綿糸もて瘃(あかぎれ)を縫いし人
という詩のようなものを記した事がある。また、藩中にいて、武芸をせねば人でないように風(ふう)が悪いから、中村庄兵衛(なかむらしょうべえ)という居合の先生について、少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国にいるときのように荒い仕事をしないから、始終(しじゅう)、居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷にいるとき、また、緒方の塾でも、折節(おりふし)はドタバタやっていました。それから、江戸に来て、世間に攘夷論が盛んになってから、居合はやめにして、兼ねて腕に覚えのある、米搗(こめつき)を始めて、折々やっていたところが、明治三年、大病を煩って、病後何分にも、もとのようにならぬ。その年か翌年か、岩倉大使が欧行に付き、親友の長与専斎(ながよせんさい)も随行を命ぜられ、近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ、一オンスのビンを懐中から出して、
「君の大病全快はしたが、来年その時節になると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。これは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。これをやるから大事に貯えて置け。僕の留守中に思い当たることがあろう。」
と言うのは実に朋友の親切なれども、私は却って喜ばぬ。
「馬鹿なことを言ってくれるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要るものか。面白くもない。僕は貰わない。」
と言うと、長与が笑って、
「知らぬ事を言うな。きっと役に立つことがあるから黙って取って置け。」
と言って、その薬を私に渡して別れたところが、果たして然(しか)り。長与の外行留主中、毎度発熱して、それキニーネ、またキニーネとて、トウトウ、一オンスの品を飲み尽くしたというような容体で、何分にも力が回復しない。
病に媚びず
横浜の女医、ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと言うから、シャツも股引(ももひき)もフラネルでこしらえ、足袋の裏にもフラネルを着けさせて、全身を纏(まと)っていたところが、頓(とん)と効能が見えぬ。ドウかすると風を引いて悪寒(おかん)を催して熱が昇る。毎度の事で、およそ二年余り、三年になっても同様であるから、或(ある)日、私が大いに奮発して、これは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、いわば病に媚(こび)るようなものだ。こっちから媚(こび)るから病は段々付け揚(あ)がる。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中には固(もと)より、医命に服することなれども、今日は病後の摂生よりほかに要はないから、自分で摂生を試みましょう。そもそも、自分の本(もと)は田舎士族で、少年のとき如何(いか)なる生活していたかといえば、麦飯を喰らい、唐茄子(とうなす)の味噌汁を啜(すす)り、衣服は手織(ており)木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が、開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も可笑(おか)しい。田舎者の身体の方が驚いてしまう。即(すなわ)ち、今日、風(かぜ)を引いたり、熱が出たりして、グヅグヅしているのは摂生法の上等に過ぎる過ちであるから、直ちに前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも股引(ももひき)も脱ぎ棄ててしまって、ただの木綿の襦袢に取り替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時ばかり、騎馬の服と決めて、不断(ふだん)は純粋の日本の着物を着て、寒い風が吹き通しても構わず家にもいれば外にも出る。ただ、食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は一切(いっさい)むかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の米搗(こめつき)、薪割(まきわり)に身を入れて、少年時代の貧乏世帯(じょたい)と同じようにして、毎日汗を出して働いている中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身の丈(たけ)は五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫に下くだったこともない。随分調子のよろしいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンと旧(もと)の通りに復して、その後、六十五歳の今日に至り、今でも十七貫五百目より少なくはない。さて、私が考えるに、右の田舎摂生が果たして実効を奏したのか、または病の回復期が自然に来たところで偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。兎(と)に角(かく)に、生理上必要のところに少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないということだけは確かに分かる。但(ただ)し、肌に寒風の吹き通しが有益であるか、または外の摂生をもって体力が強くなって、実際、害になるべき寒風にもよく抵抗してこれに堪えうるのであるか、即(すなわ)ち、寒風その物は薬に非(あ)らず、寒風をも犯して無頓着(むとんじゃく)という、その全般の生活法が有益であるか、およそ、この種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレはさて置き、私の摂生は明治三年、三十七歳、大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴、無茶苦茶、ことに十年間鯨飲(げいいん)の悪習を廃して、今日に至るまで、前後およそ四十年になりますが、この四十年の間にも、初期は文事勉強の余暇を偸(ぬす)んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い、今は摂生を本務にして、その余暇に文を勉めることにしました。
居合、米搗
今でも、宵は早く寝て、朝早く起き、食事前に一里半ばかり芝の三光(さんこう)から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば居合を抜いたり、米を搗(つ)いたり、一時間を費して晩の食事も、チャンと規則のようにして、雨が降っても、雪が降っても、年中一日も欠(か)かしたことはない。去年の晩秋、戯(たわむ)れに、
一点寒鐘声遠伝
半輪残月影猶鮮
草鞋竹策侵秋暁
歩自三光渡古川
一点の寒鐘こえ遠く伝う、
半輪の残月かげなおあざやかなり、
草鞋竹策秋暁を払い、
歩みて三光より古川を渡る
なんて詩を作りましたが、この運動摂生が何時まで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見ています。
行路変化多し
回顧すれば六十何年、人生既往を想えば、恍(こう)として夢の如(ごと)しとは毎度聞くところであるが、私の夢は至極(しごく)変化の多い賑やかな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰め込まれて、藩政の楊枝(ようじ)をもって重箱の隅をほじくるその楊枝の先に掛かった少年が、ヒョイと外に飛び出して故郷を見捨てるのみか、生来教育された漢学流の教えをも打ち遣(や)って西洋学の門に入り、以前に変わった書を読み、以前に変わった人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば考えは段々広くなって、旧藩はさて置き、日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑やかな事で大きな変化ではあるまいか。あるいは、その間に艱難(かんなん)辛苦など述べ立てれば大造(たいそう)のようだが、咽元(のどもと)通れば熱さ忘れるというその通りで、艱難辛苦(かんなんしんく)も過ぎてしまえば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去った後で、昔の貧苦を思い出して何が苦しいか、かえって面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやらこうやら、人に不義理をせず、頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思っていたところに、また図らずも王政維新、いよいよ日本国を開いて、本当の開国となったのはありがたい。幕府時代に私の著(あら)わした西洋事情なんぞ、出版の時の考えには、天下にコンなものを読む人が有るか無いか、それも分からず、仮令(たと)い読んだからとて、これを日本の実際に試みるなんて、固(もと)より思いも寄らぬことで、一口(ひとくち)に申せば西洋の小説、夢物語の戯作(げさく)くらいに自ら認(したた)めていたものが、世間に流行して、実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない。一段も二段も先に進んで、思い切った事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私もまた以前の大願成就に安んじていられない。コリャ面白い、この勢いに乗じて更に大いに西洋文明の空気を吹き込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開き、東に日本、西に英国と、相対(あいたい)して、遅れを取らぬようになられないものでもないと、ここに第二の誓願(せいがん)を起して、さて身に叶う仕事は三寸の舌、一本の筆よりほかに何もないから、身体の健康を頼みにして、専ら塾務を務め、また筆を弄(も)てあそび、種々様々の事を書き散らしたのが西洋事情以後の著訳です。一方には、大勢の学生を教育し、また演説などして所思(しょし)を伝え、また一方には著書、飜訳(ほんやく)、随分(ずいぶん)忙しい事でしたが、これも所謂(いわゆる)、万分一を勉(つと)める気でしょう。ところで、顧みて世の中を見れば、堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進々歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後、その形に顕(あら)われたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも有難いともいいようがない。命あればこそ、コンな事を見聞するのだ。さきに死んだ同志の朋友が不幸だ。アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました。実を申せば、日清戦争何でもない。ただこれ日本の外交の序開(じょびらき)でこそあれ、ソレほど喜ぶわけもないが、その時の情に迫(せま)れば夢中にならずにはいられない。およそコンなわけで、その原因は何処(いづく)に在るかといえば、新日本の文明富強は、すべて先人遺伝の功徳に由来し、われわれ共は丁度(ちょうど)都合のいい時代に生まれて、祖先の賜(たまもの)をただ貰ったようなものに違いはないが、兎(と)に角(かく)に、自分の願(がん)に掛けていたその願が、天の恵み、祖先の余徳によって、首尾よく叶ったことなれば、私のためには第二の大願成就といわねばならぬ。
人間の慾に際限なし
左(さ)れば、私は自分の既往を顧みれば、遺憾なきのみか、愉快な事ばかりであるが、さて人間の慾(よく)には際限のないもので、不平をいわすればマダマダ幾らもある。外国交際、または内国の憲法政治などについて、それこれという議論は、政治家の事として差し置き、私の生涯の中に出来(でか)してみたいと思うところは、(1)全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて、真実文明の名に愧(はず)かしくないようにする事と、(2)仏法にても耶蘇(やそ)教にても、いづれにてもよろしい。これを引き立てて、多数の民心を和らげるようにする事と、(3)大いに金を役じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、およそこの三ヶ条です。人は老しても無病なる限りは、ただ安閑としてはいられず、私も今の通りに健全なる間は身に叶うだけの力を尽くす積もりです。
福翁自伝 終
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