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Making Sense - Finding Our Way 2-1

A Conversation with David Deutsch

D:知識とはもともと重要なものです。しかし、蓄積されていくものではありません。これまでは、いろいろな形で積み上げていくものだと考えていました。例えば、デカルトのように無から積み上げたり、あるいは、感覚から、神のようなものから、遺伝子から積み上げていくと考えられていました。まるで、レンガを積み上げていくように、思考を積み上げていくと考えていたのです。しかし、カール・ポパーの科学観は、知識とはそのようなものではないというものでした。私も含めて多くの人がポパーの科学観をすべての思考や考えに適用したいと考えています。思考とは多くの矛盾した考えの中をさまよい歩き、最も深刻に矛盾していると思われる考えを修正することによって矛盾のないものにしようとすることなのです。そして私たちは、物事の組み合わせによって考えを修正していきます。私たちが目にするさまざまな矛盾を何かが取り除いてくれるかもしれないと推測し、もしそれが正しければ、次の問題に進んでいきます。そこで、あなたの本の話に戻りますが、私がこれからあなたに伝える考え方についてあなたがどう思われるかに興味があります。
人間は、ある面では似ているところもありますが、ある面では正反対の相容れない部分もある。従って、お互いにどのような意見を伝え合おうとしているのかを理解することすら難しい場合もある。あなたが道徳の理論を構築し、『モラル・ランドスケープ』をわざわざを書いたのは、知的な理由からではないでしょう。少なくともそれが主な理由ではないように思えます。また、既存の理論の中から最良のものを見つけ出したかったわけでも、誤った理論に反論したかったわけでもない。あなたがこの特別な本を書き、この特別な理論を展開したのは、ある特別な目的のためだと思います。すなわち、文明を守るためですね。ちょっと大げさな言い方かも知れませんが。それは、文明を二つの脅威から守るためです。一つは道徳的相対主義であり、もう一つは宗教的教条主義です。

H:そうですね、だいたい正しいと思います。大げさ過ぎるという批判もまた妥当でしょうね。私があの本で成し遂げようとしたことは、幸福に関する明確な主張を伝えるということです。人生において本当に考えなければいけないことは、どのようなことに幸福が左右されるのかという問題です。その答えを手に入れることができるかどうかは別として、大切なことは必ず答えは存在するということなんです。もちろん、より良い答えもあるでしょうし、あまり良くない答えもあるでしょう。つまり、人の幸福に関する問題には、それが正しい、若しくは誤っているという解答が存在するのです。より正しいとか、あまり良くないという程度はあるかも知れませんが。私は道徳的な真理というものが存在するという直感的な考えを、別に遠慮する必要もなく擁護することができるような知的な領域というものを確保したかったのです。そして、その道徳や価値についての主張というのは、宇宙の事実に関する科学的な主張となんら変わらないのです。

D:「壮大 」という言葉を侮蔑的に使ったわけではないんですよ!道徳的相対主義と宗教的教条主義が人類の存在にとって危険なことには同意します。それが最大の危険かどうかはわからないですが、我々の存在を脅かす危険であり、とても害があることは間違いない。それから、道徳についても同意します。道徳には真と偽があり、善と悪もある。道徳的真理は客観的なものです。通常の理性の方法によって発見することができて、それは基本的には科学的手法と同じです(但し、重要な違いはあると思います)。
あなたは、この道徳理論を作り出すにあたって、まずは道徳に駆り立てられた知的な目的があったわけですね。つまり、理論の細部を詰める以前に道徳的な目的が存在した。あなたはその理論に特定の属性を持ってほしかったわけだ。それは、客観的な善悪があると主張し擁護することができる知的領域が存在するという属性。その理論に求めていた属性は、単にあなたの個性の表現などではなく、あなたにこの本を書くことを駆り立てた道徳的価値観だった。そして、あなたはそれが客観的な真実だと信じている。

H:私がとても大切にしている道徳に対する見解を、丁寧にとても優しく否定していただいてありがとうございます!
それに、私が主張しているのは理論というほどのものでもありません。そして、私の理論と呼べるかどうかわからないそれは、私の抱く道徳観が間違っているかもしれないという明確な前提を含んでいます。つまり、私の理論は現在私が抱いている道徳的な直感に基づいているわけではなく、理論的なものに基づいているのです。

D:でも、少しはあなたの道徳的直観に基づいている。

H:それは、自分が間違っている可能性もあるという主張に基づいているんです。私はそれを折に触れて「道徳的リアリズム」と呼んでいます。自分が何を見落としているかわからないという可能性です。もし適切な考え方や精神状態さえ持っていれば、人生は素晴らしいものになるのに、その事実に対してかたくなに目をつぶってしまうような場合です。例えば、「私は直感的に同性婚は合法であるべきだと思う。なぜなら、それは基本的な人権で、それを否定するような世界は存在しえないからだ」という論理で主張をしているわけではないんです。私は現実主義とまだ経験したことのない精神状態に対する直感に戻づいて言っているんです。

D:そういうつもりで言ってるわけではないんです。事実、あなたが道徳について言っていることには全て同意します。あなたがたった今言ったことは確かに本に書かれている。でも、それ以外の事も書かれていて、私はそこが引っかかっているんですよ。私が同意できない根本的な部分は、道徳の理論の属性は確固たる基盤に基づくべきだという部分です。つまり、科学だ。もっと言えば、脳神経科学に基づくべきだと。

H:確かにそこは混乱してもおかしくないかも知れません。もちろん、原因はこちらにあります。『科学はいかにして道徳的価値を決定するのか』という副題が原因だと思います。とはいえ、副題というのは著者が決めることができない場合もあることはご存じですよね。まさにこの時がそうだったんです。しかし、私が言いたかったのは、道徳が科学の確固たる基礎の上に築かれなければならないということではないんです。私が道徳について主張したいことは、科学で主張することと同様にしっかりとした根拠があるということなんです。
私たちが現実とは何かということを主張する、より広大な認知領域のことを言っているんです。そして、その現実とは、考えられる全ての意識的な経験を含んでいます。私たちは方法論的な理由から「科学的」、「歴史的」、あるいは単に「事実」と呼んだりします。中には、科学的とは呼べないものもあるかも知れませんが、それでも私たちはそれを科学と呼んでいる。しかし、主観的な確信もあります。それは、様々な意識の種類や内容に関するものです。そして、その確信は真実であったり、そうでなかったりする。たとえ、その意識という主観のデータにアクセスすることができなくてもです。
例えば、ジョン・F・ケネディは撃たれる直前、何を考えていたでしょうか?私たちは、彼が何かを考えていたという確固たる事実があることを知っています。また、そのデータにアクセスする方法がないことも知っています。しかし、この主観性、つまり彼が最後の瞬間に何を考えていたかについて、確実に間違っているであろう主張は無限にある。例えば、彼は超ひも理論について考えていなかったでしょう。また、彼が亡くなった翌年に発見された最大の素数のことを考えていたわけでもない。その瞬間、彼の頭の中になかったであろうことはいくらでも思いつきます。この主張は、私たちが科学において主張するのと同じくらい事実に基づいている。
つまり、私が言いたかったのは、道徳とは、意識ある生き物の意識の状態に依存するべきもので、客観的命題の領域にあるということなんです。方法論の違いはありますが、私たちが行うその他すべての種類の客観的命題と同じものなんです。

D:物事が客観的であるという考え方には二通りあります。あなたはそのうちのひとつの考え方を支持していますが、私は別の考え方をを支持しています。まず、物事が客観的であるという考え方のひとつは、その物事に関する真理が他の物事に関する真理でもあるという場合です。例えば、化学を例に考えてみましょう。化学の真理は物理学にとっても同じ真理です。化学が始まった当初はそのことは明らかではありませんでしたが、今では明らかです。原理的には、化学のの法則や化学反応などについて言えることはすべて、物理学についての記述です。物理学が客観的であるからこそ、化学も客観的なのです。
それから、客観的であるという二つ目の考え方です。それは、整数は客観的に存在するという考え方です。もちろん、歴史的には整数に関する理論が存在し、整数が実在するかどうか、実在するとしたらどのような意味で実在するかについて、さまざまな考え方がありました。私は、整数は物理学とは無関係に実在すると考えています。整数に関する真実は、物理学の真実とは無関係なのです。化学とは異なり、整数に物理的な側面があるから客観的なわけではないのです。整数は、物理的に存在するのとは違う意味で客観的なのです。但し、整数に関する真理は、もちろん物理的な物体の真理に反映されています。しかし、整数は物理的な物体として認識されているわけではありません。自然の法則について私たちが発見できるものは何も、素数に関する定理の真理を変えることはできません。そしてそれこそが、道徳の真理が持つ科学からの独立性なのです。

H:実は、このことについては『モラル・ランドスケープ』の中で少し触れています。哲学者のジョン・サールは、私たちが存在論的な場合と認識論的な場合で使う「客観的」という言葉の違いを明確にしています。もし、存在論的に何かが客観的であるとしたら、それは誰かに知覚されているかどうかにかかわらず、「現実の世界」に存在していることになります。人間の心から独立しているということです。まさに、あなたが今言っていた化学や物理学における事実のことです。そして、おそらく整数に関しても言えることだと思います。もし世の中に意識を持つ生物が存在しなかったとしても、化学や物理や数学に関する事実というのは、そのことを誰かが知っていようがいまいが、変わらずに存在しています。
そして、もうひとつの認識論的客観性があり、これは、あらゆる種類の事実についてさまざまな主張をする方法や姿勢に関するものです。認識論的な意味での客観性とは、自分のバイアスに惑わされないことです。そして、希望的観測に屈しないことです。認識論的な客観性とは、データについて、あるいは論理的な議論の結果について、知的に正直な主張をすることです。
物事の主観的な側面に関して、何かが存在論的に主観的であることはあり得ます。つまり、その存在は、人間であろうとなかろうと、意識のある心の存在に依存しています。JFKが撃たれる前に何を経験したのかを推測するとき、私はJFKの主観性について主張することになります。しかし、私は認識論的客観性の精神に則ってその主張を行うことができます。私はJFKの主観について、超ひも理論の詳細を熟考することによって特徴付けられるものではなかったと客観的に言うことができます。
私は、存在論的に客観的か主観的かという違いにはあまり興味がないんです。なぜなら、それは現実の本質について正しい主張をしているのかどうかについての示唆がまったくないからです。そういう観点が役に立つ場合もあるけれども、そうじゃない場合もあります。道徳に関して言えば、この世界で経験というものがどのように生じて、その性質はどのようなものなのか、そして意識のある心が反応する極限的な幸福と苦しみについての話です。議論の一部は、存在論的に客観的な神経伝達物質やニューロンの世界、あるいは経済システムや、あらゆるレベルでの 「客観的現実 」の世界に関するものです。しかし、道徳について語るのであれば、これらすべての事実の本質は、意識のある生き物の意識の状態に関する話です。ご存知のように、「幸福」とは私が様々な意味を込めて良く使う用語で、経験の可能な限りの範囲、つまり現在の私たちが想像もできないような経験を含むものです。そして、負の状態の最悪なケースは、すべての人が考えられる最悪の不幸の状態にいることです。
整数というものが物質的な現実から独立している、ある種のプラトン的な領域を占めているのかどうか、さらには整数を理解する意識的な心からも独立しているのかどうかについては、私は強い意見はないんです。しかし、今あなたが言ったことに話を戻すと、 まず物理的現実があり、それは存在論的な意味でしばしば「客観的」と呼ばれる。そして整数のように客観的なものがあり、それはあなたが言ったように、原子について知っているかどうかに依存せず客観的です。しかし、物理的に理解できるかどうかは別として、意識のシステムが持つ経験というものもあります。そして経験の性質は、意識のシステムにとって必要な物質が何であれ、それによって決まります。但し、本当に興味深いのは、その裏側の主観的な側面なのですけどね。

D:そうですね。私も同じことを言おうとしていました。あなたも私も、「科学」という言葉を幅広い意味で使っています。私たちは、純粋主義者だと自認する人たちが科学とは認めないだろうことを「科学」と呼んでいる。私たちは科学を拡張して哲学をその一部として含めています。
もしあなたが「科学」という言葉を、量子論の解釈のような従来は哲学と考えられてきたものまでに拡張するのであれば、人間の幸福と神経科学を結びつけることができるでしょう。そうすれば、「神経哲学」なる科学と哲学が結びついたものが生まれて、「神経哲学」は認識論という哲学の分野になる。そして、科学を認識論という哲学にまで拡張すると、物理的な世界の重要な事実にたどり着く。それは、認識論は脳や神経の物理的な仕組みとは関係ないということだ。
知識、感情、意識、様々な情報、計算などがひとたび生み出されると、それらが従う法則というのは物理的なものや脳神経とは関係ない。デバイスの物理的な属性は消え去るので、その特性を語るときに抽象的に語ったり、あるいは完全に無視することもできる。でも、その特性というのは完全に客観的なわけだから、「抽象的」という言葉は誤解を招くかもしれませんね。ただ、それは原子でもなければ神経細胞でもないということです。

H:おそらく正しいでしょうね。でも、あなたは情報に基づく機能主義的な議論を持ち込んでいるように思えます。私たちが、意識というのは情報を処理することで生まれると思っているかのような仮定をしている。つまり意識が、情報処理とは関係ない物理的な現実から構成されているものではないと仮定している。もしそう仮定するなら、非生物学的なコンピューターが、なんらかの方法で情報を処理することによって、意識を持つ可能性が高いということになる。それは正しいかも知れませんが、まだわかりません。

D:道徳について一般的に言えることは、道徳には幅広い影響力があるということです。例えば、図書館で簡単に本を盗むことができたとしても、盗まないという決断をすることは、あなたと図書館に影響を与えるだけでなく、その決断が普遍的な装置である「あなた」の中で具現化されるということです。そして、この装置は普遍的な理論を抱いている。あるいは、普遍的であって欲しい、または、ある領域においては普遍的であって欲しいと願う理論を持っている。そして、犯罪を犯すということは、事実に影響を与えることになる。決して変えることのできない何かを変えてしまうことになる。

H:その変化は、自分の中で起きているのではないですか?自分の犯罪が誰にもバレないという前提ですが。それ以外のどこで変化が起こるのでしょうか?

D:そうですね、例えば、あなたが子供たちに道徳について話すとする。「図書館では、誰にも見つからないなら、本を盗んでもいいんだよ」と言うのか、それとも「誰にも見つからなくても、本を盗んではいけないんだよ」と言うのか。もし前者なら、あなたの不道徳な行為は、あなたや図書館だけでなく、あなたの子供にも影響を与えていることになる。また、後者の場合、あなたは子供に嘘をついていることになり、それ自体が大きな意味を持つことになります。

H:そうですね。こういうことの影響は多岐にわたると思います。ある行動のもたらす結果について話すときには、それを行ったという記憶や、その記憶が将来の経験、人間関係、信念などに及ぼす影響なども含まなければならない。具体的な原則を検討すること、つまり人の同意を得るという原則は、どの時点で倫理的な重要性を持ち始めると思いますか。不快ではあるけれども、人々にとって非常に良い結果をもたらすものもありますよね。相手の同意なしにその経験をさせることは不快かも知れないけれども、結果としては相手のためになる場合もある。個人の自主性というのは、どのあたりから重要になるのでしょうか。

D:これも認識論ですね。人権だって基本的なものではないと思います。それは、知識の成長を促進する制度の特徴に過ぎない。そして、知識が他のすべてに優先する理由は、その可謬性、つまり知識は誤りを含んでいる可能性があるからです。何かがより良いという理論がある場合、私たちは間違っているかもしれない道徳的理論を実践しているのです。そして道徳の客観的真理は、誤った理論を修正する道を閉ざすことは不道徳だということです。

H:繰り返しになりますが、その部分に関しては同意します。ただ、それは私の基本的な主張を別の方法で表現しているだけのように思えるんです。つまり、人間の繁栄とは、絶えず洗練され、修正される可能性があるという主張です。この場合の人間の繁栄というのは、広い意味でと考えていただいて結構です。私たちは、より良い世界、より良い経験、より良い方向へと進んでいきたいのです。しかし、私たちは間違った方向に進む可能性があることを知っていて、その場合に自分で自分の手を縛って軌道を修正することができないような事態には陥りたくないわけです。

D:だからこそ、同意はあればいいというものではなく、私たちがアイデアに取り組む際に不可欠な要素なのです。もし、ある考えを、その考えに反対する人に押し付けることができるようなシステムがあったとしたら、誤りを正す手段は閉ざされてしまいます。例えば、ある人に障害があって、それを治すことができるのに、その治し方をその人に説明できないという状況を想像してみてください。その人はずっと苦しみ続けるだろうし、治療を施したとしてもその状況は変わらない。あるいは、何か他の方法のほうが良いという人もいるかも知れない。その場合は、その他‘の方法で少しはましな状態になるのかも知れない。もしくは、注射を打つことを痛いからと言って嫌がるのであれば、かわりに麻酔を施すか、注射を打っても良いという気分になるようにするかのどちらかしかない。

H:『モラル・ランドスケープ』で触れたのですが、ダニー・カーネマンの研究で、人々が大腸内視鏡検査を受けたときの話があります。当時はまだ麻酔がありませんでした。研究者たちは、被験者の主観的苦しみの度合いを決める要因を探っていました。また、被験者に5年後にもう一度検査を受けようと思わせるようなプラスの要素は何かと。研究の結果、心理学でいうところの「ピーク・エンド ルール」を確認しました。それは、経験の良しあしを決定するのは、その経験の中でのピークの激しさと、最後のエンディングがどうだったかによって決まるというものです。どうやら、ピークとエンディングという二つの要素を操作することで、その経験が良かったのか悪かったのかという印象に影響を与えることができるようです。
このルールを検証するため、統制群には通常の大腸内視鏡検査を行い、検査が終わるとすぐにスコープを取り出しました。しかし、実験群には、必要以上に器具を入れたまま数分間放置し、比較的穏やかではあるけれども不快な刺激を与えました。その結果、被験者の苦痛に対する印象は著しく軽減され、将来、命を救う可能性のある大腸内視鏡検査をまた受けに来ようという意欲が高まったということです。これは、あらゆる観点から見て、これらの人々にとって良いことだったはずです。確かに、この処置の時間という要素を考慮すると、医師たちが医学的な必要性もないのに不快な体験を長引かせたという事実はありますが。

D:実験を無効にすることなく、被験者に何をやっているかを伝える方法があると思いますよ。

H:しかし、そうすることで効果が減ったり、なくなったりしてしまったらどうしますか?「医学的には必要ないのですが、このチューブを数分間入れたままにしておきます。そうすれば、いずれはこの体験がより良いものに感じられるでしょうから。」患者に伝えることで効果がなくなったり、患者の苦痛が増したりしたらどうしますか?

D:もしそうだとしても、回避する方法があるはずです。例えば、患者さんに、「いいですか、この手術によるあなたの苦痛を軽減する方法があります。でも、その方法をあなたに説明してしまうと効果がありません。それでも、試してみることを許可してくれますか?」と言えば良い。もちろん、患者はイエスと答えるでしょう。

H:しかし、それは本当に同意と言えるでしょうか?もし、あなたが言ったように提案して、99%の患者が 「もちろん、お願いします」と言ったとします。その一方で、患者にどうやって苦痛を減らすかを正確に伝える別の場合があるとします。「5分間、チューブを入れたまま何もしないでおきます」この5分間は、おそらく患者は『いつになったら終わるんだ、勘弁してくれよ!』と思うでしょう。それに、この5分がなければもうとっくに手術台から降りて家に帰ることもできたのに、この施術ではまだチューブを入れたまま手術台に乗っていることになる。「でも、安心してください。こうしたほうが苦痛が少ないんです」このような条件下で同意する人の割合が17%に低下したと仮定しましょう。これで、最初の条件の人たちはみな、具体的な方法を伝えなかったために同意したに過ぎないことがわかりました。つまり、実際にはその方法にはまったく同意していなかったことになります。

D:それも同意だと私は考えます。なぜなら、心臓外科医があなたの心臓に何をするのかを正確に知らなくても、心臓の手術には同意しますよね。プラセボも同じだ。もし、同意しない人が1%いたとしたら、それは単に間違いを犯しているだけです。もし、この理論が真実でなければ、あなたも同じ過ちを犯しているでしょう。人々があるルールに基づいてお互いに影響を及ぼしあうような場合に、そのルールをその人が同意しないような特定の場合に誘導するようなことはするべきではないでしょう。

H:しかし、現実とは何か、そしてその現実の中でどう生きるべきかについて、あまりにも倒錯した考えを持っている人々がいて、そういった人たちの望みは叶えられてはいけない。そのためには彼らを牢屋に入れなければいけないかもしれないし、もしくは重要な話し合いからは除外しないといけないかもしれない。タリバンやISISが公共政策について投票することができないのは、それなりの正当な理由があるからです。彼らは狂った政策に投票するような人たちなわけで、そういった場合にはすべての自主性が尊重される必要はないでしょう。

D:そうですね。でも、私たちには制度という枠組みがあります。人々の間の紛争を暴力なしに解決できるよう、政治制度を良くしようとしています。私たちの道徳的な制度には、その制度に参加し、従うことが道徳的に正しいという考えられています。また、法という制度を介さない対人関係においては、より優れた道徳的観念が望まれます。対人関係が暴力なしに紛争を解決するだけでなく、いかなる強制もなしに解決されることを望んでいます。強制を法典化するような制度は、事実上非合理的です。ただし、強制を完全に排除できている制度があると言っているわけではありません。私が言いたいのは、制度の善し悪しがが判断されるべき基準とは、暴力や強制力を伴わずに人々の間の紛争を解決することにどれだけ優れているかという点なのです。

H:でも、理性的でない人は、時に強制される必要がありますよね?

D:そうですね。スティーブン・ピンカーが指摘したように、数世紀前だったら社会を安定させるためにとても多くの強制が必要でしたが、現在ではより少ない方法で共生する方法を見つけました。そして、今後も強制が必要な状況は少なくなっていくと思っています。また、いつか誰かが、狂信的な大量殺人者やテロリストを治療し、穏やかな宗教、あるいは穏やかな無神論に改宗させる方法を発明するかもしれません。ただし、その方法は始めのうちは途方もない費用がかかるでしょう。なぜなら、その人物を人工的な共同体の中で生活させ、その共同体の何千人もの人々が彼に対して一定の行動をとるように訓練しなければならないからです。それは現実的ではありません。たとえ更生させることが可能でも、テロリストを一人一人治療するのに何十億ドルも費やさなければならないのでは、投獄したほうがまだましだ。そうしないと制度が存続できない。しかし、その額が数千ドルにまで減れば、その方法を試すべきだし、恐らくそうするでしょう。

H:もしテロリストがそれを望まなかったらどうしますか?自分は狂信的なテロリストのままで良いのだと言ったら?そうしたら、また同意するかどうかの問題に戻ってしまいますよね。

D:私の考えでは、そのテロリストはある時点で捕まり、裁判にかけられ、判決を受けたはずです。そして、先ほど申し上げた新しい方法で既に治療を開始した後にその治療に同意したかもしれない。つまり、1か月のリハビリの後にということです。そしてまた、1週間後に別のより良い治療法に同意するでしょう。このように治療法は進化を続け、何百万年か先の未来には脳をスキャンして記憶を探り、個々の人に合わせた非常に洗練された治療法もできるでしょう。例えば、彼が裁判所を出る瞬間に太陽が雲の向こうから顔を出して彼の心を癒すような方法とか。私は、知識によって悪を排除することの可能性は無限だと思っているんですよ。

H:そうだと思うのですが、その場合はもはや悪ではないですよね。彼がテロリストやサイコパスになりたがるような人間であったこと、つまり生物学的にそうなりやすい体質であったことが問題だっただけです。テロリズムやサイコパスなど、悪を治療する方法が確立されれば、道徳とうい観点から諭す必要もなくなります。糖尿病を治すように、治療を提供するだけです。

D:そうかも知れませんが、彼は治った後で、「私は罪を犯してしまった」と言うでしょう。それは、「私は過ちを犯してしまった」と言うより、少しはマシだと思います。この二つの言葉には大きな違いがあります。

H:確かに彼は自分の犯した罪にぞっとして、「自分がこんな酷いことをする人間だったなんて信じられない」と言うかも知れません。そして、もはや自分がそんな人間ではなくなったことに感謝するかも知れません。しかし、それでは報復という正義観を否定することになってしまいます。私たちは罪を犯した人を罰するべきです。なぜなら、犯罪者は罰せられるに値する罪を犯したわけですから。

D:そうですね。ただ、それはこの重要な目的を達成するために最も適した機関を運営すれば済むことです。

H:もし将来、心を科学する方法が完璧に確立されて、あらゆる経験をコンピューターの信号として理解することができるようになったとしましょう。そして、人の脳に入り込んで操作することができるようになったとします。頭にその装置を取り付ければ、ありとあらゆる状態の意識を経験させることができるようになる。完璧な疑似経験機械です。

D:いや、ちょっと待ってください。人類の知識というのは常に限られています。だから、ダウンロードできる経験というのは、我々が経験したことのあるものに限られています。あり得る状態のほとんどが未知なはずです。

H:でも、こういう機械があれば、未知の経験を探ることもできるのではないですか?

D:それは、明日発見される科学を今日知るという経験になってしまいます。つまり、明日になるまではそれを誰かにダウンロードすることはできないので無理ですね。

H:なるほど。そういった意味での経験ではなくて、もっと簡単な経験の話をしましょう。例えば、人間として最も優れた経験をした候補者を集めたとします。最も偉大な科学者、最も聖人君子のような人物、最も優れたスポーツ選手、最も創造的な芸術家などです。そして、彼らの経験を記録するだけでなく、さまざまな彼らの経験の共通点を見つけて、そこから推定することによって、さらに優れた、より純粋な、根本的に新しい経験を生み出すとします。ジョン・フォン・ノイマンや幼いモーツァルト、あるいは彼らのように偉大な人たちのデータを集めて、更にリオネル・メッシが記録的なゴールを決めたときのような経験も加えます。そして、斬新な方法で調整するんです。時間の制限もなく、いくらでもこのような意識状態を探求して、いったいどれが好ましいのかを確かめることができるとします。
この実験に関しては、あなたと私の価値観は一致すると想定しています。つまり、限りなく様々な状態が可能な状況で、私たちが何が正しいかと判断する点に関して意見が大幅に食い違うということはないだろうと思っているということです。もし私たちの間に意見の相違があったとします。例えば、あなたは45番の経験が好きで、私は46番の経験が好きだとします。そうしたら、その相違には神経学的、あるいは計算論的な説明がつくはずであり、修正可能なはずです。そうなると、何が可能なのかという観点から、善とは何かという直観をどのように変えるべきかという問題になります。そして、そもそも何が良いことなのかという感覚を変えることは良いことなのでしょうか?

D:あなたの考え方と、私の心についての考え方はちょっと違っていると思います。あなたは、どの経験が処理されているのかという事実とは無関係に、いわゆる幸福な心の状態というものが存在すると仮定している。あなたは、モーツアルトと同じように幸せを経験することができると言ってますね。しかしそれは、あなたがモーツアルトとしてどのような問題を解決しようとしているのかという質問をなおざりにしている。あなたは、モーツアルトが生きていた時に彼が解決した問題を解決しようとしているのですか?もしそうだとすると、それは彼の経験を繰り返しているだけになってしまう。それでは幸せの定義とは呼べないでしょう。なぜなら、幸せを感じるには進歩する必要があるからです。
私たちの人格は、何をどのように考えるかによってではなく、様々な問題に取り組むことによって形成されていると思います。何が人を幸せにするかというと、多くの労力を費やす価値があるような興味深い様々な問題に取り組むことです。しかもその問題は解決に向けてなんの糸口もないような難しい問題ではいけない。そして理論の対立を含んでいないといけない。もちろん、興味深い意味で対立しているということです。このような状態を誰かにダウンロードできるかどうかは疑わしいと思います。それは単純にその経験をした人物を再度作り出しているだけかも知れない。もし私がある特定の時期のモーツァルトの理論をそのままダウンロードしたとしたら、確かにその問題を解決したときの感覚を覚えていることになる。しかし、ダウンロードされたものが私の他の部分と完全に統合されて、あたかも私がモーツアルトにならない限り、その問題は私独自の問題にはなりえない。だとしたら、それにいったい何の意味があるのでしょうか?

H:確かに、とても心地良い意識の状態というのは存在します。例えば、難しい問題を解決したときに満足感を感じるような状態です。でも、たとえ取り組む問題がなかったり、その問題を解決することができなかったとしても、この幸福感を感じることはできると思います。もちろん、なかには病的な方法もあって、他のことが何一つできなくなってしまったりする。例えば、ヘロイン中毒になって、一日中ソファに横たわりながら至福に浸ることもできる。それに、ヘロインのようにマイナス面がなくて、しかもヘロインよりはるかに優れた薬が発明されるかもしれない。もしかしたら、人々はそのような純粋で無益な快楽を感じ続けるほうが、モーツァルトの経験よりも好きかもしれない。

D:それはないでしょう。あったとしても、最初のうちだけだ。

H:わかりませんよ。私もあなたの意見に賛成ですが、人々はオルダス・ハックスリー(https://t.ly/rgRnX)的なディストピアを好むかも知れない。チャンスがあれば薬漬けになって忘却の彼方に押しやられたいと思うかもしれない。

D:それは物語の中だけの話だと思いますね。快楽と喜びは違う。喜びというものを経験したことがないと、文化や環境によっては快楽を喜びと勘違いしてしまう場合はあると思います。しかし、快楽は心の中で喜びと同じ効果をもたらすわけではない。但し、気を付けないといけないのは、ヘロインを初めて経験したときは喜びを感じるかも知れないということです。なぜなら、それは初めての経験で新しい感覚だからです。それは興味深いでしょうし、楽しくもあり喜びをもたらすでしょう。しかし、毎日ヘロインを経験していると、それがあなたの人生そのものになってしまう。そして、あなたは人生は無為に過ごすことになる。もし、その「虚無」を「善」と解釈するのであれば、それはもう生きる屍となっているということです。普通の人間の心理状態ではないですね。実際のヘロイン中毒者の大多数は、飽きてしまって自分の意志でやめていると思います。

H:あなたがおっしゃている問題、つまり単なる快楽と喜びの違いは、さらに知識を深めれば克服できるかもしれない。喜びを含む忘却を薬物で作り出すことができるかもしれません。

D:それは正しくないと思います。なぜなら、あなたは今、脳の中にクリエイティブな中枢があって、そこからメッセージを受け取る喜びを感じる中枢があると仮定しているからです。つまり、この喜びを感じる中枢を人工的に再現することができると考えている。私は人間の心がそんなふうに働くものだとは思えない。喜びを人工的に作り出す唯一の方法は、喜びを体験している人の状態をダウンロードすることで、そうしたら、自分がその人になってしまうということだと思います。

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