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福翁自伝 11. 暗殺の心配

これまで御話し申した通り、私の言行は有心故造(ゆうしんこぞう)、わざと敵を求めるわけでは固(もと)よりありませんが、鎖国風の日本にいて、一際(ひときわ)目立つ様に、開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がありません。その敵も、口でかれこれ喧しく言って罵詈(ばり)するくらいは何でもないが、ただ怖くて堪らないのは襲撃暗殺の一事です。これから少しその事を述べますが、およそ、世の中に我身にとって好かない、不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番であります。この味は、狙われた者よりほかに分かるまいと思います。実に何とも口にも言われず、筆にも書かれません。これが病気を煩うとか、痛所(いたみどころ)があるとか何とかいえば、家内に相談し、朋友に謀(はか)るという様なこともありますが、暗殺ばかりは家内の者へ言えば、当人よりは却って家の者が心配しましょう。心配してくれても、ソレが何にも役に立ちません。ダカラ、私はそんな事を家内の者に言った事もなければ、親友に告げた事もありません。固(もと)よりこの身に罪はないのです。仮令(たと)い粗われても恥かしい事ではないということは分かり切っていても、人に語って無益の事でありますから、心配するのは自分一人であります。私が暗殺を心配したのは毎度の事で、あるいは、風声鶴唳(ふうせいかくれい)にも驚きました。丁度、今の狂犬を見たようなもので、おとなしい犬でも気味が悪いというようなわけで、どうも人を見ると気味がわるいのです。

床の下から逃げる積り

ソレについては、色々面白い話があります。今、この三田の屋敷の門を入って、右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その普請(ふしん)をするとき、私は大工に命じて家の床を少し高くして、押入のところに揚(あ)げ板を造っておいたというのは、もし例の奴等(やつら)に踏み込まれた時に、うまく逃げられればよいが、逃げられなければ揚げ板から床の下に入って、そこから逃げ出そうという私の秘計で、今でもあすこの家はそうなっていましょう。

暗殺の歴史

その大工に命ずる時に、何故ということは言えません。また、家内の者にも根ッから面白い話でないから、何とも言うことが出来ませんでした。つまり、私独りの苦労で、実に馬鹿気た事でした。それは差し置き、私の見るところで、我開国以来、世に行われた暗殺の歴史を申しますと、最初はただ、新開国の人民が外国人を嫌うというまでの事で、深い意味はありませんでした。外国人は汚れた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬ、ということが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は折々(おりおり)外国人を暗打(やみうち)にしたこともありました。しかし、その若武者も日本人を憎むわけはないから、私などがたとえ時の洋学書生であっても、災に罹(かか)るはずはないのです。大阪修業中は勿論(もちろん)、江戸に来ても当分は誠に安心で、何も心配したことはありませんでした。例えば、開国の初に、横浜で露西亜(ロシア)人の斬られたことなどは、ただその事変に驚くばかりで自分の身には何とも思いませんでしたが、その後間もなく、外人嫌いの精神は俄(にわか)に進歩して殺人(ひとごろし)の法が綿密になり、筋道(すじみち)が分かり、区域が広くなり、これに加えて政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊大老の事変後は、世上何となく殺気を催して、手塚律蔵(てづかりつぞう)、東条礼蔵(とうじょうれいぞう)は洋学者なるが故にとて、長州人に襲撃せられ、塙二郎(はなわじろう)は国学者として不臣なりとて何者かに首を斬られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して、国の損害するとて苦しめらるるというような風潮になって来ました。これが即(すなわ)ち、尊王攘夷の始まりで、幕府が王室に対する法は、多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意(ごしゅい)は攘夷一天張りであるのに、しかるに、幕府の攘夷論は兎角(とかく)因循姑息(いんじゅんこそく)に流れて埒(らち)が明きません。即ち、京都の御趣意(ごしゅい)に背くものである、尊王の大義を弁(わきまえ)えぬものである、外国人に媚びるものである、とこういえば、その次には洋学者流を売国奴というのも無理はありません。サア、洋学者も怖くなって来た。ことに私などは同僚親友の手塚、東条、両人まで侵されたというのであるから、怖がらずにはいられませんでした。

廻国巡礼を羨む

また、真実怖い事もありました。およそ維新前、文久二、三年から維新後、明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間私は東京にいて夜分は決して外出せず、余儀(よぎ)なく旅行するときは姓名を偽り、荷物にも福澤と記さず、コソコソして往来するその有様は、欠落者か(けおちもの)が人目を忍び、泥坊が逃げてまわるような風(ふう)で、誠に面白くありませんでした。そのとき、途中で廻国巡礼(かいこくじゅんれい)に出逢い、その笠を見れば、何の国、何都、何村の何某(なにがし)と明白に書いてあります。

「さて々、羨しい事だ。おれもアアいう身分になってみたい。」

と、自分の身を思い、また世の有様を考えて、妙な心持になって、ソレからその巡礼に銭など与えて、貴様達は夫婦か、故郷に子はないか、親はあるか、など色々話し、問答して別れたことは今に覚えています。

長州室津の心配

これも、私が姓名を隠して豊前(ぶぜん)中津(なかつ)から江戸に帰って来た時の事です。元治元年、私が中津に行って、小幡篤次郎(おばたとくじろう)兄弟を始め、同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて、共に出府するときに、中津から先ず船に乗って出帆(しゅっぱん)すると、二、三日天気が悪くて、風次第でどこの港に入るか知れませんでした。スルと、南無三宝(なむさんぼう)、攘夷最中の長州室津(むろつ)という港に船が着きました。そのとき、私は同行少年の名を借りて、三輪光五郎(みわみつごろう、今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗っていたが、一寸(ちょい)と上陸して髪結床(かみゆいどこ)に行ったところが、床の親仁(おやじ)が喋々(ちょうちょう)述べていました。

「幕府を打潰(ぶっつぶ)す――毛唐人を追巻(おいまく)る。」と言い、女子供の唄の文句は忘れたが、

「やがて長門(ながと)は江戸になる。」

とか何とかいうことを面白そうに唄っていました。そのあたりを見れば、兵隊が色々な服装なりをして鉄砲を担いで威張っているから、もしも福澤という正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、ここが大事と思い、わざと平気な顔をして、ただ順風を祈って船の出られるのを待っているその間の怖さというものは、何の事はない、躄者(いざり)が病犬に囲まれたようなものでした。

箱根の心配

ソレから、船は大阪に着いて上陸し、東海道をして箱根に掛かり、峠の宿の破不屋(はふや)という宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田何某(なにがし)という人が、江戸の方から来て先に泊まっている。この人は当時、山陵奉行とかいう京都の御用を勤めていて、供の者も大勢付いている様子でした。問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い。終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々と宿屋を駈け出して、コソコソ逃げたことがあります。

中村栗園先生の門を素通り

その時の道中であったか、江州(ごうしゅう)水口(みなくち)、中村栗園(なかむらりつえん)先生の門前を素通りしましたが、これは甚だ気に済まぬものでした。栗園(りつえん)の事は前にも申した通り、私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が初めて江戸に出るとき、水口(みなくち)を通行してそこへ尋ねたところが、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、

「お前の御親父(ごしんぷ)の大阪で御不幸の時は、私は直ぐ大阪に行って、ソレからお前達が船に乗って中津に帰るその時には、私がお前を抱いて安治川口(あじかわぐち)の船まで行って別れた。そのときお前は、年弱(としよわ)の三つで、何も知らなかろう。」

などなどいう話で、私も実にほんとうの親に逢ったような心持がして、今晩は是非泊まれといって、中村の家に一泊しました。かくまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。ところが、その前に人の噂を聞けば、水口(みなくち)の中村先生は、近来専ら孫子の講釈をして、玄関には具足(ぐそく)などが飾ってあるというのです。問うに及ばず、立派な攘夷家であります。人情としては、是非とも立ち寄って訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ませんでした。栗園(りつえん)先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の門弟子(もんていし)が沢山たくさんいるから、立ち寄ればとても助からぬと思って、不本意ながらその門前を素通りしました。その後、先生には面会の機会がなくて、遂に故人になられました。今日に至るまでも甚だ心残りで不愉快に思います。

増田宗太郎に窺(うかが)わる

以上は維新前の事で、直ちに私の身に害を及ぼしたでもなし、ただ無暗(むやみ)に私が怖く思ったばかりで、所謂(いわゆる)、世間の風声鶴唳(ふうせいかくれい)に臆病心を起こしたのかも知れないが、維新後になっても忌(いや)な風聞は絶えず行われて、何分にも不安心のみか、歳月を経て後に聞けば、実際恐るべき事も毎度のことでした。頃は明治三年、私が豊前(ぶぜん)中津(なかつ)へ老母の迎いに参って、母と姪と両人を守護して東京に帰ったことがあります。その時は、中津滞留もそこまで怖いとも思わず、先ず安心していましたが、数年の後に至って実際の話を聞けば、恐ろしいとも何とも、実に命拾いをしたような事です。私の再従弟(またいとこ)に増田宗太郎という男があります。この男は、後に九州西南の役に賊軍に投じて城山で死についた一種の人物で、世間にも名を知られていますが、私が中津に行ったときはマダ年も若く、私より十三、四歳も下ですから、私はこれを子供のように思い、且(か)つ、住居の家も近処(きんじょ)で、朝夕往来して交際は前年の通り、宗(そう)さん、宗(そう)さん、といって親しくしていました。元来(がんらい)、この宗太郎の母は神官の家の妹で、その神官の倅(せがれ)、即ち宗太郎の従兄(いとこ)に水戸学風の学者があって、宗太郎はその従兄を先生にして勉強したから中々エライ。その上に、増田の家は年来堅固なる家風で、封建の武家としては一点も愧(は)じるところはない。宗太郎の実父は、私の母の従兄ですから、私もその風采(ふうさい)を知っていますが、ソレハ、ソレハ、立派な侍(さむらい)と申してよろしい。この父母に養育せられた宗太郎が、水戸学、国学を勉強したとあれば、所謂(いわゆる)尊攘家に違いはあるまい。ソコで私は、今度中津に帰っても、宗太郎をば乳臭(にゅうしゅう)の小児と思い、相替わらず、宗そうさん、宗そうさん、で待遇していたところが、何ぞ料(はか)らん、この宗さんが胸に一物、恐ろしい事をたくらんでいて、そのニコニコ、優しい顔をして私方に出入(しゅつにゅう)したのは、全く探偵のためであったという。さて、探偵も届いたか、いよいよ、今夜は福澤を片付けるというので、忍び、忍びに動静(ようす)を窺(うかが)いに来ました。田舎の事で、外廻りの囲いもなければ、戸締りもない。ところが、丁度(ちょうど)その夜は私のところに客があって、その客は服部五郎兵衛(はっとりごろべえ)という私の先進先生、至極(しごく)磊落(らいらく)な人で、主客(しゅかく)相対(あいたい)して酒を飲みながら談論(はなし)は尽きぬ。その間、宗太郎は外に立っていたが、十二時になっても寝そうにもしない。一時になっても寝そうにもしない。何時(いつ)までも二人差し向かいで飲んで話をしているので、余儀(よぎ)なくおやめになったという。これは、私が大酒(たいしゅ)夜更かしの功名ではない僥倖(ぎょうこう)であります。

一夜の危険

ソレから、家の始末も大抵(たいてい)出来て、いよいよ、中津の廻米船に乗って神戸まで行き、神戸から東京までの間は外国の郵船に乗るつもりで、サア乗船というところが、中津の海は浅くて都合が悪い。中津の西一里ばかりのところに鵜ノ島(うのしま)という港があって、そこに船が掛かっていると言うから、私はそのとき大病後ではあるし、老人、子供の連れであるから、前日から鵜ノ島に行って一泊して翌朝ゆるりと乗船する趣向にして、その晩、鵜ノ島の船宿のような家に泊りました。知らぬが仏とは申しながら、後に聞けばこの夜が私の万死一生、恐ろしい時であったというは、その船宿の若い主人が例の有志者の仲間であるとは恐ろしいことです。私の一行は、老母と姪とそのほかに近親、今泉(いまいずみ)の後室小児(小児は秀太郎六歳)で、役に立ちそうな男は私一人でした。これも病後のヒョロヒョロという。その人数を留めて置いて、宿の奴が中津の同志者に使いを走らして、「今夜は上都合云々(うんぬん)。」と内通したから堪らない。ソコデもって、中津の有志者、即ち暗殺者は、金谷(かなや)というところに集会を催して、今夜いよいよ、鵜ノ島に押し掛けて福澤を殺すことに議決した。その理由は、福澤が近来、奥平(おくだいら)の若殿様を誘引(そそのか)して亜米利加(アメリカ)にやろうなんという大反(だいそ)れた計画をしているのは怪(け)しからぬ。不臣な奴だという罪状であるから、満座同音、国賊の誅罰に異論はない。

福澤の運命は、いよいよ切迫した。老人、子供の寝ているところに血気の壮士が暴れ込んでは、とても助かる道はない。ところが、ここに不思議とやいわん、天の恵(めぐみ)とやいわん、壮士連の中に争論を生じたのです。いかにも今夜は好機会で、行きさえすれば必ず上首尾と決まっているから、功名手柄を争うは武士の習いで、仲間中の両三人が、「おれが魁(さきがけ)する。」と言えば、また一方の者は、「そう甘くは行かん。おれの腕前でやって見せる。」と言い出して、負けず劣らず、とうとう仲間喧嘩が始まって、深更に及ぶまでどうしても決しない。余り喧嘩が騒々しく、大きな声が近所まで聞こえると、その隣家に中西与太夫(なかにしよだいふ)という人の住居があって、この人は、私などより余程年を取っている。その人が、何の事か知らんと行って見たところが、こうこういう訳(わけ)だと言う。中西は流石(さすが)に老成の士族だけあって、「人を殺すというのは、よろしくない事だ。思い止まるがいい。」と言うと、壮士等は中々聞き入れず、「イヤ、思い止まらぬ。」と威張る。ヤレ止まれ、イヤ止まらぬと、今度は老人を相手に大議論を始めて、かれこれと悶着(もんちゃく)している間に夜が明けてしまい、私は何にも知らずにその朝船に乗って海上無事神戸に着きました。

老母の大坂見物も叶わず

さて、神戸に着いたところで、母は天保七年に大阪を去ってから三十何年になります。誠に久し振りの事でありますから、今度こそ大阪、京都方々(ほうぼう)を思うさま見物させて悦(よろこ)ばせようと、中津出帆(しゅっぱん)の時から楽しんでいたところが、神戸に上陸して旅宿に着いて見ると、東京の小幡篤次郎(おばたとくじろう)から手紙が来てある。その手紙に、「昨今、京阪の間、甚だ穏やかならず。少々聞き込みし事もあれば、神戸に着船したらば、なるたけ人に知られぬように注意して、早々郵船にて帰京せよ。」とある。ヤレヤレ、またしても面百くない報(しらせ)だ。さればとて、こんな忌(いや)な事を老母の耳に入れるでもなしと思い、何かつまらぬ口実(こうじつ)を作って、折角(せっかく)楽しみにした上方(かみがた)見物も止めにして、空しく東京に帰って来ました。

警戒却て無益なり

前の鵜ノ島の話に引き替えて、誠に馬鹿々々しい事もあります。明治五年かと思いますが、私が中津の学校を視察に行き、その時、旧藩主に勧めて一家挙(こぞ)って東京に引越し、私が供をして参るということになりました。ところで、藩主が藩地を去るは、もとより士族の悦ぶことではありません。私もよくその情実は知っているけれども、昔の大名風で、藩地にいれば奥平(おくだいら)家の維持が出来ないのです。思い切って断行せよというので、疾雷(しつらい)耳を掩(おお)うに暇(いとま)あらず、僅か六、七日間の支度で、御隠居様も御姫様も中津の浜から船に乗って、馬関(ばかん)に行き、馬関で蒸気船に乗り替えて神戸と、すべての用意調(ととの)い、いよいよ中津の船に乗って、夕刻沖の方に出掛けたところが、生憎(あいにく)風がない。夜中、水尾木(みずおぎ)のところにボチャボチャして少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ。ここにグヅグヅしていると例の若武者がきっとやって来るに違いない。来ればその目指す敵(かたき)は自分一人だ。」幸い、夜の明けぬ中に船を上がって陸行するに若(も)しくはなしと決断して、極暑(ごくしょ)の時であったが、払暁(ふつぎょう)、マダ暗い中に中津の城下に引き返して、その足で小倉まで駈けて行きました。ところが、大きに御苦労。後に聞けば、この時には藩士も至極(しごく)穏かで、何の議論もなかったということでした。こっちが邪推を運(めぐ)らして用心する時は何でもなく、ポカンとしている時は一番危い。実に困ったものです。

疑心暗鬼互に走る

時は違うが維新前、文久三、四年の頃、江戸深川六軒掘藤沢志摩守(ふじさわしまのかみ)という旗本(はたもと)がいました。これは、時の陸軍の将官を勤め、極(ごく)の西洋家で、ある日、その人の家で集会を催(もよお)し、客は小出播磨守(こいではりまのかみ)、成島柳北(なるしまりゅうほく)を始め、そのほか、皆むかしの大家と唱(とな)うる蘭学医者、私とも合わして七、八名でした。その時の一体の事情を申せば、前に申した通り、私は十二、三年間、夜分外出しないという時分で、最も自ら警(いまし)めて、内々(ないない)刀にも心を用い、よく研がせて斬れるようにしています。あえてこれを頼みにするではないけれども、集会の話が面白く、ツイツイ怖い事を忘れて思わず夜を更かして、十二時にもなったところで、座中みな気が付いて、サア帰りが怖い。疵(きず)持つ身というわけではないですが、いずれも洋学臭い連中だから、皆(みな)怖がって、「大分晩(おそ)うなったが、どうだろう。」と言うと、主人が気を利かして屋根舟を用意し、七、八人の客を乗せて、六軒堀の川岸(かし)から市中の川、即ち堀割(ほりわり)を通り、行く行く成島(なるしま)は柳橋(やなぎばし)から上がり、それから近いものものと段々に上げて、仕舞いに戸塚(とつか)という老医と私と二人になり、新橋の川岸(かし)に着いて、戸塚は麻布に帰り、私は新銭座(しんせんざ)に帰らねばなりませんでした。新橋から新銭座まで凡(およそ)十丁もある。時刻はハヤ一時過ぎ、しかも、その夜は寒い晩で、冬の月が誠によく照らして、何となく物凄い。新橋の川岸(かし)へ上がって大通りを通り、自ずから新銭座の方へ行くのだから、こっちがわ、即ち大通り東側の方を通って四辺を見れば、人はただの一人もいない。その頃は浪人者が徘徊して、そこにも、ここにも、毎夜のように辻斬(つじぎり)とて容易に人を斬ることがあって、物騒とも何とも言うに言われぬ。それから、袴(はかま)の股立(ももひき)を取って進退に都合のいいように趣向して、颯々(さっさ)と歩いて行くと、丁度、源助町(げんすけちょう)の央(なかば)あたりと思う。向こうから一人やって来るその男は、大層(たいそう)大きく見えました。実はどうだか知らぬが、大男に見えた。「ソリや来た。」どうもこれは逃げたところがおっ付けない。今ならば巡査がいるとか、人の家に駈け込むとかいうこともあるが、どうして、どうして、騒々しい時だから、不意に人の家に入られるものでない。かえって戸を閉(たっ)てしまって、出て加勢しようなんというもののないのは分かり切っています。「コリャ困った。今から引き返すと却(かえ)って引身(ひけみ)になって追い駈けられて、後ろからやられる。寧(いっ)そ、大胆にこっちから進むに若(し)かず、進むからには臆病な風を見せると付け上がるから、衝(つ)き当たるようにやろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通っていたのを、こう斜(なな)めに道の真中へ出掛けると、あっちの奴も斜めに出て来た。コリャ大変だと思ったが、もう寸歩も後に引かれぬ。いよいよとなれば、兼ねて少し居合いの心得もあるから、どうしてくれようか。これは一ツ下から刎(は)ねてやりましょうという考えで、一生懸命、イザといえば真実(ほんとう)にやるつもりで行くと、先方もノソノソやって来る。私は実に人を斬るということは大嫌い。見るのも嫌いだ。けれども逃げれば斬られる。仕方がない。愈(いよいよ)先方(むこう)が抜き掛かれば背に腹は換えられぬ。こっちも抜いて先を取らねばならん。その頃は裁判もなければ警察もない。人を斬ったからといって、咎(とがめ)められもせぬ。ただ、その場を逃げさえすればよろしいと覚悟して、段々行くと一歩々々(ひとあしひとあし)近くなって、とうとうすれ違いになった。ところが、先方(あっち)の奴も抜かん。こっちは勿論(もちろん)抜かん。ところで擦(す)れ違ったから、それを拍子に私はドンドン逃げた。どのくらい足が早かったか覚えはない。五、六間(けん)先へ行って振り返って見ると、その男もドンドン逃げて行く。どうも何ともいわれぬ。実に怖かったが、双方逃げた跡で、先(ま)ずホッと呼吸(いき)をついて安心して、可笑(おか)しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い。拵(こしら)えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑(おか)しい芝居はない。初めからこっちは斬る気はない。ただ、逃げては不味(まず)い。きっと殺(や)られると思ったから進んだところが、先方も中々心得ている。内心怖わ怖わ、表面颯々(さっさ)と出て来て、丁度(ちょうど)抜きさえすれば、切先(きっさき)の届く位すれすれになったところで、身を飜(ひるがえ)して逃げ出したのは誠にエライ。こんなところで殺されるのは、真実の犬死にだから、こっちも怖かったが、あっちもさぞさぞ怖かったろうと思う。今その人はどこにいるやら、三十何年前に若い男だから、まだ生きておられる年だが、生きているなら逢ってみたい。その時の怖さ加減を互いに話したら面白い事でしょう。





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