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媒介する身体 24.1.3 チグハグなI want to do.はらぺこあおむしパスタ・カンデル神経科学



どこかに行きたい
誰かみたいに歌えるようになりたい
あの服が欲しい
成功したい
ひとかどの人になりたい
消えてしまいたい
生まれ変わりたい
何もしたくない
外にでたくない
登校中、交差点の角で異性とぶつかって、身体と中身が入れ替わってみたい


ポジティブとネガティブな、したいとしたくない
I want to do.が現実と噛み合わない。何も続かない。ただ漠然と変わりたい、「何かしなきゃ」とは思うけれど、努力する体力もない

ほいさっと、羽ばたいて、どこかの土地で新たに何かを頑張れるほどのげんきと勇気もない。30代はそれができたので、なんとかなっていたけれど、芯の部分にある違和感はずっと変わらずに存在している。

変わりたいけど、変わりたくない、変われない。

そんな矛盾が自分の中にあるのではないだろうかとずっと思っている


売れないバンドマンは、夢を追いかけている限りたとえ売れなくとも、収入源がファーストフードのアルバイトだとしても「夢のための一部」として我慢できる。けれど、もし、夢を見ることを辞めたとしたら、、、、

その現実に耐えられなくなるから
夢を追いかけないという選択肢ができなくなる

数年前に読んだ、このくだりが、今ふと頭の中で、ゆっくり降り出した雪のように、落ちていきそうになるのを、手のひらをかざしてつかまえる。何の本のどのフレーズだっけかと。キンドルの本をペラペラと見ながら「夢」で検索をかける。見つけた。

グルーバルな能力主義の世界では、夢をあきらめてしまえば、マックジョブの退屈な毎日が待っているだけだ。だからリップスには、夢をあきらめることが許されない。死ぬまでロックしつづける以外に生きる術がないからこそ、滑稽までに必死になれるのだ。

残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 著:橘玲

今、私は夢を見ることはおろか、生活もままならない状況に陥っている。

仕事も習慣も何もかも続かない
マックジョブさえ続けることができない
命だけは、呼吸と拍動と食事のおかげでつながっている

そんな日に、SNSに流れてきたこんな記事に目が止まった
なぜか去年の8月の記事が流れてきた

羽田圭介「ミニマリストの流行は人生を手早く変えたい欲求の表れ」

ミニマリストたちの発信を見ていると分かるのは、徹底的に物を減らす暮らしをすれば悟りを開けるのかといえば、そうでもないということです。SNSやブログに「執着を手放そう」と書く一方で、誰かからちょっとした小物やお菓子程度のプレゼントをもらったことに対して、「ミニマリストを公言している自分に、物を送りつけてくるなんて!」と激怒していたりする。心が狭い。全く悟れていません(笑)。そうした矛盾にも興味を抱きました。

前出のインタビューより

イージーに、手取り早く、’’何か’’を変えたい

ミニマリストになるというのは、そういう欲求の表れなのか

劇的な変容を遂げたと見る様式の中、実際のところは、行動が様式に伴わない、あるいは、矛盾してしまう。ということを、可視化している良いインタビューだった

小説も面白かった
その矛盾を抱えたままのミニマリストが、矛盾ゆえに整合性が取れず、とてつもなく、ぶっ壊れていく様子が生々しく描かれていた

私は何かをしたい
変わりたい

何かを変えたとしても変われない、自分のコアな部分

それは劣等感だったり、個性だったり、本当に変われない部分なのかもしれない。例えミニマリストになったとしても、変わらずに、自分につきまとう課題がある

私は、私の「その部分」とどう向き合えばいいのだろか。

また、もう一度、夢を見るべきなのか?
別の世界ーオルタナティブーを見つける旅に出るべきなのだろうか?
じたばたせずに、このまましばらく静観しながら、考え事を続ければよいのだろうか?


別の本の話になるが、「顕在知」、というものが
生き物にはそなわっているという。

教わっていなくても、蝶々は初めて通る場所でも、花の蜜を探し当てるし
海亀の赤ちゃんは、月夜の砂浜で卵から孵化をして
月の光に導かれ海に向かっていく。誰にも習わずに泳ぎ始め、それから何十年も海で生きる(ほとんどが成熟を前に捕食されてしまいはするが。)

というような、あらかじめ知っている知性を顕在知という。

自分が「何かをしたい」と能動的に決めているとしても、意識にのぼらない顕在知や、無意識にある身体が覚えた知識だったりだ、自分の意思決定のほぼを担っている可能性もある。
そして、その意思決定に影響を与える自分の領域には「変えようがない」部分があったりもする。


【おそらくほぼすべての知識は、かなり長い間、無意識下にあると考えられている。われわれは、この無意識のうちにすすむ処理過程の性質や、そのプロセスを介するシステム、またそれが意識的な精神活動の性質に与える影響を理解する必要がある。そして最終的には、意識的な知識の中で最も高次の領域にある自我意識について、すなわち「考え、感じる存在」である個人としての自己認識について理解しなければならない。】

というようなことが、カンデル神経科学に載っていたので、少し長いがそのまま引用する。飛ばしても読めるように書いているが、とても面白いので、むしろこの引用部分だけでも読んで欲しいくらいだ。

 20世紀の後半まで、高次の精神機能を研究する取り組みは、脳に損傷を受けた患者や、実験的に脳を損傷させた動物から収集した行動観察を通じて行われていた。20世紀初頭の心理学者たちは、検証できない概念や仮説を排除するため、観察可能な刺激と、その刺激による反応から厳密に定義されるような行動のみに着目した。当時の行動主義心理学者に取って、意識や感情、注意、動機などの認知プロセスを扱うのは非生産的である、というのが常識であった。つまり、観察可能な行動のみに着目した上で、「生物は何ができるのか、そして、それを、どのように実行するのか」という問いが追究されたのである。確かに与えた刺激と、それによって引き起こされる反応を慎重に定量分析することによって、知覚能力と運動能力にかかわる「潜在知」(impricit nkowledde)の獲得と、その行使についての理解は大きく進んだ。しかし、ヒトやその他の高等動物には、事実や出来事に関する「顕在地」(expricit knowledge)もそなわっている。すなわち、空間や規則性、関連性についての知識でありEdward Tolmanが「認知地図(congnitive map)」と呼び表したものである。動物はたとえ感覚と反応との対応関係についての前知識がなくても、新たなルートを選択し、目標へ到達することができる。さらにヒトは、自分の知識をもとに熟慮を重ね、結論を引き出すことによって、未知のものを想像することができる。まさにこの営みこそが神経科学の研究を可能にし、ひいては、あらゆる自然科学・人文科学の研究を可能にしているのである。
 したがって、われわれが明らかにすべき問いには、以下のようなものもある。「動物は世界について何を知っており、それをどのようにして知り得るのか?その知識は脳内でどのように表現されるのか?潜在知と顕在知は異なるものなのか?そのような知識をどのようにして他者に伝え、過去の経験に照らして合理的な決定を下せるのか?」おそらくほぼすべての知識は、かなり長い間、無意識下にあると考えられている。われわれは、この無意識のうちにすすむ処理過程の性質や、そのプロセスを介するシステム、またそれが意識的な精神活動の性質に与える影響を理解する必要がある。そして最終的には、意識的な知識の中で最も高次の領域にある自我意識について、すなわち「考え、感じる存在」である個人としての自己認識について理解しなければならない。

カンデル神経科学 partⅧ 学習、記憶、言語、認知ー概要p1294より

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これからカンデル神経科学で、このような知識について学んでいこうとと思っている。動き出すのは、それからにしようと思う。(また、3ヶ月鬱で休んでしまった、、、、)

「どうせ、あそこで失敗するんだろうな」
いつも失敗してしまう自分の部分の改善点が見つかるかもしれない

見つからなくても、脳のことを知ることは単純に面白いからいい


「動物は世界について何を知っており、それをどのようにして知り得るのか?その知識は脳内でどのように表現されるのか?潜在知と顕在知は異なるものなのか?そのような知識をどのようにして他者に伝え、過去の経験に照らして合理的な決定を下せるのか?」

このような問いについての知識を深める。それを踏まえて、改めて

・何がしたいか
・何ができるのか
・何ができないのか
・夢が必要なのか、不必要なのか
・どこで誰と生きるのか

抱えている問題や課題に対して、自分のできること、できないことを、区別できたらいいなと思っている。

昨日読んだ本と、散歩している時に考えたことをまとめようとしている間に、はらぺこあおむしみたいなパスタが冷たくなってしまった。温め直そう。




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