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"The LEPLI" ARCHIVE 120/『横浜トリエンナーレに思う事或いは、“アーチスト症候群”たちへ、』

文責/平川武治。
初稿/ 2014年9月 8日。
写真/隧道”雪の下口” By Taque.

はじめに、/
 
 読み終えたばかりのスーザンソンタグ、『こころは体につられて−1』(1964-68) に
このような一文を見つけた、この時代のこの様な人は凄い。
彼女、S.ソンタグも、”学び、旅し、創作し、男を、女を愛し、恋し、論じ、愉しみ、読み、
映画を見、芸術を嗅ぎ分ける”強烈なる個性の、可愛い人間であった様だ。

 『芸術は、現在に於ける過去の全般的状態だ。(参考、建築)「過去」になる事とは『芸術
になる事(参考、写真についても言える)。
芸術作品には一定の情念がある。—切迫性。歴史性?或いは、朽壊性?
ヴェールに隠された神秘的な、どこか(そして、永遠に)手の届かない側面とは?
ほかの誰もふたたびそれをしようとしない(できない)という事実の意味は?
たぶん、そういうことなら、作品は芸術になっていくという話。
本来から芸術なのではない。過去の一部となったときに芸術になる。(過去の創出)
 というわけで、現代芸術作品というものは矛盾だ。
われわれは現在を過去に吸収同化する(それとも、別のこと?身振り、研究、文化的記品?)
 過去の創出、その切迫性。
複製品に吐き気をもよおす段階を克服すれば、人生には楽しめることが
それこそたくさんある。
デュシャン:既製品(レデイメイド)は芸術品としてではなく、「偶然性」の余地を作るため、「物体」としての芸術品という考えを打ち出すため。』
 *出典/『こころは体につられて』(1964-68) /スーザン・ソンタグ著/河出書房新社
/2013年12月30日 刊:

テーマとして選ばれた、『華氏451度』/

 例えば、いい例が今回の”横浜トリエンナーレ”のアースティックディレクターの森村泰昌氏が選んだテーマ、『華氏451度』であろう。
このテーマは彼の現代への眼差しから、彼の世代観と育ちとその教養と倫理観をフィジカルに
結果、これを考え選んだのだろう。
 この作品は紙(知識=本=情報)が燃え始める温度の華氏451度から命名され、’53年に
書かれた作品である。
作家、レイ-ブラッドベリ自身は『この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる
文化の破壊』と言うが、紙文化が映像文化に追いやられてしまう、まるで現在の状況を既に、60年も前に予知し、警告を発した作品である。
 此の様に『時代を予知する』迄の何かが本来、芸術作品と呼ばれたものには存在していた
はずだが、今日では個人の”日常の切り売り”がその殆どと言う迄に成り下がってしまった?
(参考/http://ja.wikipedia.org/wiki/華氏451度">http://ja.wikipedia.org/wiki/華氏451度
 
 従って、現代日本のアーティスト願望とその観客となる世代には今回のテーマはかなり、
高度なテーマであろう。というのも、現代の“文化系”と言われるデジタルな若者たちが、
このテーマとなっている『華氏451度』というレイ-ブラッドべリの作品をどれだけ読んで
内容を理解しているか?興奮しているか?
また、この小説を映画化した、F.トリフォーの作品を見た者がどれだけ居るのだろうか?
 故に、僕は今回の”横浜トリエンナーレ”のテーマコンテンツとして選ばれた
このコードはかなり高尚であると感じてしまった。
これを読み解ける教養とこゝろの自由さと倫理観が“アーチスト症候群”たち、デジタル世代の若者たち気分アーチストやアートマニアにどれだけ関心を持って意識されているのだろうか?
理解されているか?そして、又、観客として訪れる人たちにも同じ事である。

 この辺りがデザインの世界がアートの世界へ近寄り、アートの世界が消費へ擦り寄る迄の、
『アートとデザイン』の現実世界の相違であり差異であろう。
 しかし、この距離感と時代感も含めて僕はここに今回の森村氏が選んだこのコードの真意を
愉しく感じる。アートの世界も”ユルキャラ化”し、誰でもがアーチスト症候群的なる状況。
それが消費社会構造と重なって単に、産み落とされるだけの作品は
”アート・スーベニィール”と化して消費財化されてゆく昨今の傾向と
もう一方では、現代と言う保守性が強くなり、閉塞感が増して行く現代社会への
彼のロマンティックな警鐘でもあろうと受け取った。

3次元化された”イメージの世界”/ 
 実際の展覧会ではこの”混乱”を幾つかの会場を分ける事によってクリニュシェされている。
嘗て、『アート』と呼ばれた世界には無防備な”前衛”として『時代を予知および、予告する』と言う役割と与えられたリアルな立ち居場所があったが、、、、、、
 戦後の、あり得るべき新たな世界としての与えられた『イメージ』が自由な努力によって
『リアリテ』と化し、その『リアリテ』に新たなメカニズムによる
『ヴァーチャルイメージ』の世界が参入し、多重層化されて来たのが”現代の豊かさであろう。
 であるなら、この現代と言う“イメージのミルフィユ”にナイフを入れられるものが
『アーチスト』なのだろうか?そして、その切り口が「作品」???

 以前僕が、”今後は『イメージ』と『リアリテ』と『バーチャルイメージ』が
三位一体化された世界が『想像』を生み出す新たな環境である”と述べた事も想い出す。
 デジタル&ヴァーチャル社会は今後、どのような新たな消費財を生み出すのか?
未だ、その決定的な兆しは薄い。
(追記/初稿から10年を経た現在では、この新たな消費財とは、”イヴェント”であろうか?)
或いは、『時間』と言う”在って、無いもの”への新たな思想と発想とシステムから生まれるものなのか?
 或いは、P.ヴィヴィリオが’90年代に提言した『動かない乗り物』の時代へ近づくのか?

そして、ある友人へのメールから、『倫理観』、『贋作』等2冊の本から、/
 『 ありがとうございました、『美術手帖』の特集の件。
僕はこれからの日本人は戦後忘れていた『倫理観』と言うフィジカルなこゝろの在り方が
大切になる時代性だと感じています。
 例えば、アートやファッションの世界でも全ての作品や環境にもある種の“洗練さ”が必要な時代性であろうと、これに近づけるのはそれぞれが持ち得た「倫理観」でしかないでしょう。
これによって次なる”豊さ”への昇華作業が為され、選別されてゆくのであろうと。
この、”洗練する”事の根幹には『倫理観』が存在しなければならないであろうと考えて論じています。

 今回の特集は『贋作』と言うもう一つのアートの側面を特集化したものでしょう。
面白く、それなりの意気込みも感じられる特集です。
 僕が『偽りの来歴』を興味有って読んだのももう、3年程前でした。
しかし、この本の読み方は、何もこの本に限った事ではないのですが、
自心に教養と好奇心と倫理観があれば“本”は幾通りの読み方が出来る愉しいものなのです。
これは“e-books"との違いとも僕は感じているのですが。
 やはり、”贋作”と言うもう一つの世界これは、当然ですが、『表と裏』が歴然と
存在する、人間が生きている限り存在する両世界の一つであるでしょう。
そこは人間の強欲が生む世界と、解って愉しむ世界でもあるでしょう。
だが、僕はこの本から学んだ事は『芸術作品の価値とは誰が作るものか?』と言う事と、
もう一つ、あのオークションハウス、「サザビー」を買収した男、A.ドープマンが為した
”アートの世界”のビジネス構造を彼は現代的にシステム改造化した事を知った事。 
そして、残念ながらこのA.ドープマンが為した構造改革は現在、美術館やギャラリーの
キューレターと言う立場の人たちがどれほど理解し、認識しているか?という
問いにもなりました。

 もう1冊、今夏読んだ本に『ミイラとダンスをする』がありました。
多分ご存知だと思いますが、これはN.Y.のメトロポリタン美術館の’60年代半ばから
館長になった人の奮闘記です。
時代が少し古い(?)頃の、本当に此の様な美術館ブームの黎明期を創成した人の記ですが、この美術館の初期の内幕を知りいろいろ学ぶところ多く、”ネゴシエーション”が大切であるというむしろ、一種のアートビジネスの”ビジネス書”としても面白い本でした。
 この美術館で行なわれた『ロシア衣装展』の経緯は登場人物も意外性があり僕の様な者には
特に、愉快なところでした。
あのダイアナ-クリーランド女史が当時のこのMOMA美術館のモードキューレター。
彼女がこの展覧会のカタログを出版する出版社の担当編集者として、
ジャクリーヌ-オナシスを連れ立ってキューレーションのために当時のソ連を訪れ、
ダイアナはシャネルのあの定番になった"シャネル・スーツ”のオリジナルが
ロシアの民族衣裳にあると、当時のココ・シャネルはロシア人青年と交際していたからだと
言う彼女の発想を持って、遂に、その根拠なる衣装を見つけたと言うエピソード等など。

 蛇足ですが、僕が以前に読んだ美術関係で面白く参考になった本ではこれらの他には、
『ミュージアムの思想』と『芸術崇拝の思想』(共に白水社刊)
この2冊、松宮秀治氏の力作の著書があります。

トヨタヒトシさんの写真作品は、/ 
 今回の”横浜トリエンナーレ”に初参加なされている友人のトヨタヒトシさんの写真作品は
ユニークです。ある意味で一番古くて、新しい写真の表現方法と思われます。
彼は作品を”紙焼き”を一切せずにネガを編集し、“選ぶ”と”間”としての”時間”を構成化して、
彼自身によってプロジェクターで“スライドショー”が為される迄を”作品”としている人です。
作品はとてもポエジックで、繊細さと思いやりがまさに彼の倫理観が作品を洗練させたものに
なっていました。ある意味で彼の作品は『私小説』でした。
そして、彼自身もスライドを投影する設備を設営して、自身でその1枚1枚のスライドの
”送り”をやる即ち、彼のその時だけの”時間”という間を作ると言う行為が含まれて
全てが作品になっていると言う兎に角、現代社会に於いてここにも未だ、此の様な
”アナログ”作品が在ったのだと、僕の子供の頃に幻燈会をしてで遊んだことを思い出す、
彼の作品に対する“誠実さ”とその1シーン1シーンへのこゝろの想いがゆったりと、
じんわりとそして、おおらかに優しすぎる程に伝わって来る作品です。
 *参考/ https://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/omxn2fbvwdnu8fbq9yiz/

 余談ですが、”写真”を、”アートの世界”へ誘ったのもこの世界のユダヤ人たちの発想でありその後、現実にこの写真の世界を独自の理論とともに彼らたちのフィールドとしてしまった。
 作家、エージェントそれにフォトメディアと写真評論家たちが、
その作品、紙焼きされたものを同じ様なアルミニュームのフレームに入れ込んで展示、見せる(=売れる=複数)という作家としての”プレゼンテーション”と言う方法と手法は
’30年代より始まり、現在まで殆ど変わらずこの表現手法はその後の進化がない、
ここで止まってしまっている事に僕は異議と退屈感を感じる者なのです。
 僕の記憶に残っている写真家では、「田原桂一」が以前に挑戦した、
ガラス板に挟んで壁と床に立て掛ける手法或いは、ロールの印画紙に直焼きした大判の作品をクリップで止めて垂れ下げた展覧会などしか記憶にない。

「隔たりの関係性」という眼差し。/
 彼、ヒトシさんのこの”スライドショー”で作家自身が作品を「選び、時間を編み間を作る」
事で構成する作品に今、新たな『スローな時間感』が存在し興味と好奇心を喚起します。
これは、今後増えるであろう、『スローアート』写真の一端かもしれません。 
 以前、P.ヴィヴィリオが『動かない乗り物』と言う言葉をこの彼の作品から感じたのです。
”写真~オーディオヴィジュアル”を論じるには彼、P.ヴィヴィリオは面白いし、関心を持って読んでみるべき論評でしょう。
「時間=速度=間隔=距離」と言う「隔たりの関係性」が根幹の世界でしょう。

 これが、デジタル=ヴァーチャル以降の世代たちへどの様にロジカルに変貌してゆくか?
また、P.ヴィヴィリオは’02年に巴里のファンデーション-カルチェで『事故の博物館展』と言うユニークな展覧会をやった人です。
 ”進化”とはもう一方で、”事故”を生み出す事であるという発想のユニークな内容の展覧会でした。
 参考文献/『明日への対話、電脳世界』/産業図書館/’98年
                『瞬間の君臨』/新評論刊/’03年そして、『自殺へ向かう世界』NTT出版刊/’03年。
 これ等の書籍は今、読み返すと“思惑”と”リアリテ”と”ズレ/時間”の関係性が見えて来て
面白いでしょう。

 秋の風情が深まる三伏の候。
ご自愛とともにお気張り下さい。
相安相忘。

エピローグ/
『本来から芸術なのではない。
過去の一部となったときに芸術になる。(過去の創出)』
 *出典/スーザンソンタグ、『こころは体につられて−1』(1964-68)

 ファッション系アーチスト症候群たちよ、
何を作るにも
常に、謙虚で倫理観ある人間性をフィジカルに持つ事を根幹として
自心の世界の創造から始めてください。

文責/平川武治。
初稿/ 2014年9月 8日。

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