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"The LEPLI" ARCHIVE 91/ 『 僕の未熟さを見抜いての、言葉足らずを救って下さった“瘤ドレスと中川先生”の 関係性。』 を語る前に、「ガリエラ宮の ”1997年展”」についても語ろう。

文責/平川武治:
初稿/2013年2月21日:
追記/2023年8月15日:
写真/”1997 ファッション・ビッグバン展”/巴里モード美術館ガリエラ宮

 1)序章としての「1997年」展とその背景。/
 「1997 ファッション・ビッグバン」と言うタイトルの展覧会が
巴里のモード美術館ガリエラで開催されていた。
 僕も訪れた。面白い視点の展覧会であるが、
その”視点”に好奇心を持って見ると何か、不自然さを感じた。
 「深く絞りきれていなくその分まとまりが悪く、
展覧会の内容にキレがない。
キューレーションしている間に、あれもこれが加わって、
”深みと絞りこみ”或いは、この1997年に対しての良い意味の”偏見”が
不十分になってボケてしまった。
 そして、出典ブランドにムラを感じた。
或いは、ブランド企業からの援助も影響しているのだろうか?」

 しかし、現代のモードのシーンから過去を振り返る視線では、
この展覧会「1997展」が現在よりもはるかに、健康的であり、
モードに対する”自由の裁量”が生き生き感じられる時代性である。
それぞれのデザイナーたちの”自由な差異”の眼差しがあり、
結果、それらが、「輝きと驚きと喜び」までの
本来のモードの創造が爛熟するまでの
時代性であったことを改めて、熟知させてくれた。

 何故ならば、例えば、
今から25年前のこの時代のモードの世界には、
現在のように、” L.V.”やこの企業グループが目立っていなかったこと。
「政治力と資本力と企業規模」よりも、
モードの世界本来の「個人の自由なる創造性」が優位に存在した
未だより、”自由性が豊穣な時代性”だったからだ。

 ”M. M.マルジェラのストックマン利用”と”CdGのリベンジ”を軸に
”アントワープ6”、ロンドンからの”J.ガリアーノ”とヴィエナの”H.ラング”等好奇心とともに「身体と服の関係性」を新たなパラダイムで行為された
創造豊穣な時代でした。
 そして、この展覧会を見て改めて、現在のモードの立ち居場所の
”異常さ”に驚いたことも、
もしかしたら、この「1997年」展が教えてくれた大事なことでしょう。

 現実的な話をすれば、このモード美術館としての”ガリエラ”の存在は、
2013年1月1日から正式名称を”パリ市立モード美術館”であり、
公的機関パリ・ミュゼ(Paris Musées)の一つとして運営され
1977年以来、ここには18世紀から現代までの
”パリのファッションデザインと衣装とそのエレガンス”が展示されている。

 この街にはもう一つ、ルーブル宮内にファッション関係の美術館がある。
これが「パリ装飾芸術美術館(Les Arts décoratifs)」でここは、
装飾芸術のための美術館であり、民間が運営する”非営利団体”である。
 当初は、1882年に応用美術に関心を持つコレクターたちが結成した、
「装飾芸術中央連盟/UCAD」だったが、
2004年12月に「装飾芸術美術館(Les Arts décoratifs)」と改称された。

 2017年、「パリ装飾芸術美術館/UCAD」で大規模な展覧会、
「C. DIOR 夢のクチュリエ」展が開催された。
この展覧会のミッションは、「ブランドエクイティ」でしかなかった。
 当時、”LVMH社”は半世紀ほどかかって、このパリの顔である
老舗名物メゾン、”CHRITION DIOR”の全面買収が完了した。
コスメ、香水そして、プレタ部門と靴バッグそして、宝飾部門とそれに、
最後にクチュール部門まで、”完全買収”が行われた。
 そのため、ブランド名も”クリスチャン”が外され、”DIOR"に修正された。

 このための、企業戦略として、”LVMH社”と” DIOR社"は
現在の莫大な資金力と政治力とを駆使して
見事なまでの「DIOR展」を”非営利団体”である、
「パリ装飾芸術美術館/UCAD」を全館借り切って、
最も新しいファッションビジネスの一つである
「ARCHIVEビジネス」を”展覧会”というアイテムで、
”テーマパーク”化して、大衆に媚びる。
 この展覧会のメインミッション、”ブランドエクイティ”を
お金を取ってまで自分たち流に社会へ”刷り込む”という手法として、
この展覧会に及んだ。
 結果、この展覧会は大成功を博し、世界四カ国を巡回し、
改めて,”LVMH版DIOR”のブランドエクイティ育成に
見事な結果と実績をもたらした。

 この”LVMH社”の宣戦布告の偉業にライバル意識を燃やしたのが、
もう一つの”パリの顔”、宿敵”企業シャネルグループ”。
 この”シャネルグループ”の実績売り上げは
変わらず、トップを走り続けている。
 ”パリ市立モード美術館ガリエラ”が2018年から始めた、
野心的な改装プロジェクトに”シャネル”社は、強力に全面支援した。
 このプロジェクトにおけるメゾン”シャネル”のミッションは、
「パリとモードとエレガンス」を永遠的に、この”ガリエラ宮”とともに
関わってゆく故の、”ブランドエクイティ”である。
 ここで新たに誕生したのが、2020年10月1日にオープンした、
「ガブリエル・シャネルの部屋」と名付けられた地下に新たに設けられた
新しい常設ギャラリーだ。

 結果、モードのキャピタル、巴里における二つの”ファッション美術館”は
事実上の、”CHANEL社”と”LVMH社”の「棲み分け」が構築された。
 一つは、「公的機関パリ・ミュゼ(Paris Musées)の一つ、ガリエラ宮」
もう一つは、”民間非営利団体”が基本的には運営している、
「パリ装飾芸術美術館/UCAD」。
 もちろんこれ以外では、それぞれのメゾン企業グループが手がけた
自社運営の既存の”美術館”もある。
 今後の彼らたちがより、大手を振って行くであろう
ファッションビジネスなの新たな”ビジネスパラダイム”である
「ARCHIVESビジネス」の為の”装置としての美術館”が
確保されたと読めるまでの、
”3年半振りで訪れた巴里”の進化発展であろう。

 そして、次なる”ペイジ”は、
来年の「オリンピック パリ」とそれ以後の
それぞれのメゾングループのビジネス戦略が楽しみであろう。
 ここでも、一歩リードして、
”全面スポンサー”になってしまったのが、
「LVMH社」グループの動きである。

 ちなみに、展覧会「1997年」展では
この企業グループの名前を見つけることが殆んど出来なかった。
 しかし、この同じ年の1997年に、
トランク&サックブランドでしかなかった”ルイ ヴィトン”は、
N.Y.のファッションユダヤ人、”マーク ジェイコブス”をデザイナー起用し、ハイファッションブランドとしてデビューした年もこの1997年であった。
 わずか、23年ほどで、
「パリのファッションを語るには、L.V.を語る。」までの
現実を構築したその根幹は???
 これがさらに、「パリ オリンピック」と「それ以後」に
どのような”魔術”をかけるのだろうか?
 僕には淡い恐怖としてのファッションの世界における
「柔らかいファッシズム」しか思い浮かべられない。

 
 2)“瘤ドレスと中川幸夫先生”の関係性。/
 僕の未熟さを見抜いての、言葉足らずを救って下さった
“瘤ドレスと中川幸夫先生”の関係性。

 前述のガラリエラ宮の「1997 ファッション・ビッグバン」展で
強く印象を残したのが、CdGの”瘤ドレス”であった。
 僕はこの”瘤ドレス”の「創造のための発想」の経緯の当事者として、
今回、この事実を語っておこう。

 '89年に”M.M.マルジェラ”が衝撃のデビューをして以来、
川久保玲の創造性は”煽られ”、
ビジネスも”原反在庫過多”によって低迷し始めた。 

 そして、このブランドの低迷期を脱することが出来たのが、
この”瘤ドレス”コレクションだった。
メディアの反響もよく、アート性を持って、
N.Y.の”マース カニングハム舞踏団”がダンス衣装としても使った。

 僕の経験からの見解では、当時のCdGを救ったとも云える
あの“瘤ドレス”の件の本質は、
川久保さんの要請で、僕が中川幸夫先生をご紹介したことが、
全ての始まりでした。

 中川幸夫先生は、”生花”を生業になさって、ご自分の”美意識”に正直に、繊細にそして、強靭に気骨と共に誠実に生きてこられた人です。
激しいまでの美しさを生むお人の
こゝろの有り様とお軀の実態が全て、
この所謂、超現実。
 僕がある人の仕事の現場へついて行ける機会をいただき
中野新町の先生のご自宅へお伺いし
その現実に立ち会う幸運をいただいたことが、
”ことの次第”の始まりで、この時間を共有した者にのみに
感じられた衝撃とその後の”衝動の津波”。

 ”驚き”+”美しさ”はより、激しさを持った『感動』や『感激』であり、
そこにこそ美意識と想いを入れ込んで出来上がる
川久保玲にすれば、服の”特意性”が存在しうる。
 そして、初めて見る畏敬を感じるまでの、今まで知らなかった
見知らぬ世界に触れてしまった彼女の経験は
その人間にしか受け取れない波動と生まれ得ない世界。
 人間の”躯つき”までを変えるものとしての”服”と言う逆発想。
そのための”服”と”躯つき”が重なる空間が
ここに存在したのでしょう。
 「瘤という見掛けの形態とその内面の美しさ」の二項対峙が根幹。
例えば、J.コクトーの”美女と野獣”ですね。

 『神戸に初めてのモード美術館が出来るらしい。
このオープニング展に、”私たちのCdG展”をしてほしいと要請があった。
何か、いい企画案がありませんか?
ご存知のように私は忙しいので!』
 このお話が発端で、暫くしてからの事でしたが、
僕が中川幸夫先生を川久保さんにご紹介する日が来た。

 この小さな出来事の具体的な仲介は
中川幸夫先生が確か、’77年にご自身の編集企画で
「華」という作品集を求龍堂から出版された。
この作品集を川久保さんに僕は見せた。
 この本は当時の中川幸夫先生の集大成の写真集であり、
「前衛生花作家」という自らの立い居場所を生み出し
この本の序文は瀧口修造氏が寄稿されている。
 この件は、中川先生ご自身が、瀧口修造さんに書いて頂きたく
寄稿依頼に瀧口修造さん宅を自ら訪れて、
半年ほど後に、現実になった曰くの”序文”でもある。

 この本を仲介して、川久保玲は中川幸夫先生と
その後、会場となる青山店で会った。
 川久保玲、田中蕾、山田店長の”3ビッグ”が迎え待つ
青山店の入り口。
 中川先生をご案内する僕。
このある一瞬の驚愕を彼女たちに感じてしまった僕。
この一瞬に慣れ切っていらっしゃる中川幸夫先生の屈託のない笑顔。
 この出会いがなければ、「瘤ドレス」は生まれなかった。

 川久保玲のコレクションを’82年から見続けて来た僕の
これは、”勘”なのですが、
 彼女の「創造のための発想」に
驚愕のエネルギィーを生み出す契機の一つに、
「初めて眼にした驚き」がある。
 例えば、”黒の衝撃”を生み出したのは、
当時の恋人であった、山本耀司と一緒に訪れた
ポルトガルの漁村ポルトの風景と
漁夫の妻たちが纏っていた衣装が根幹。
 「SEX」を産んだ発端は、
アントワープの”レッドライン街”で見た売春婦たち。

 そして、「瘤ドレス」然り。
今まで見たこともなかった、
”なかったあやういモノとそこに漂う美しさの出会い。”
ここまで考えられた川久保玲の”瘤ドレス”が生まれたのでしょう。

 追記/
 この出会いと件があった後、
僕は残念なことを中川幸夫先生のプロファイルで発見した。
 それは、”コムデギャルソンおよび、川久保玲”との出会いと
その後の全ての、”関係性”が消去されてしまっている。
 ’96年に僕が介在して
現実に、5ヶ月ほどCdG青山店での展覧会とその後の、CdG海外店、
N.Y.と巴里における写真インスタレーションや、
巴里の”JARDAN DE MODE"誌のインタビューなど、
CdGが中川先生へのリスペクトであり、
勿論、この企業のそつが無さからの結果であろう、
この来歴の全てが、
”中川幸夫”の経歴から抹消されてしまっていることである。

'98年のパリカルチェ財団における、「etre nature」展への写真出展参加や
'001年のロンドンのヘイワードギャラリーの「FACTS OF LIFE」展には
繋がらなかった。
 これら、彼のプロファイルに残っている、海外のその後の活動は
やはり、CdGのプレス活動が大いに関係していたはずである。

 これは、'12年の4月に故郷丸亀で亡くなられた、
中川幸夫先生ご自身の意志の表れか?
それとも?

 僕がこの事実を知ったのは先生が亡くなられたのちのことだった。

 「あの人は、恐ろしい人だね。」
中川幸夫先生が初対面なされた青山店の後に
ご一緒したお茶の席での
お言葉が思い出される。
合掌。

 参考/
https://ja.wikipedia.org/wiki/中川幸夫 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E5%B9%B8%E5%A4%AB
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/1301

文責/平川武治:
初稿/2013年2月21日:
追記/2023年8月15日:


 




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