E-a)極私的書棚-書き下ろし/ 『傍観者の眼から当事者の眼へ移行した写真或いは、「擬似理想」と言うイメージ。』 ---このような時代になった時もう一度 、 ”イメージ”とはを考えてみたくなった。
文責/平川武治:
執筆/2023年10月21日:
写真/中島花代: Miquele Hirakawa:
1)プロローグ;
酷暑の夏が幻だったかのように、朝晩が肌寒くさえも感じ始めた
10月も半ば、鎌倉から高円寺へ出掛ける。
古い商店街の脇道の奥にある
「タタ bookshop/gallery」を探して辿り着く。
友人の花代さんの個展「 Hanayo Trick Star / 半神半人 」展を
見せていただく為に。
何年も来ていなかった高円寺。
鎌倉からますます出不精になった僕はこのように“世間”へ出掛けると、
「犬も歩けば棒に当たる。」的な彷徨いでしかない。
やっと見つけられた「タタ bookshop/gallery」は
その存在そのものが時間に押し潰された狭い空間。
そこで気になったのはこの狭さで、古いピアノが置かれていたこと。
「本と写真集とピアノと椅子」は思い出す僕の昭和のリビングルームそのもの。
「タタ bookshop/gallery」/ https://tata-books.com/
2)少し、比べたくなったので書こう。
先月の葉山近代美術館での、『「挑発関係」= 中平卓馬 x 森山大道』展。
彼ら二人は同世代人であり、1964年から同じ写真の世界で出会い、
関わり繋がり合っていた“同志”、中平卓馬 と 森山大道のこの展覧会は
僕のような世代人は「写真芸術とはなんぞや」、或いは、
「どのような世界観が、写真芸術を生むのか」を
当時の僕は、思い切り刷り込まれた二人の写真家たちの展覧会だった故、
彼らたちが切り取った写真という作品を
僕は傍観者でありながら、“画像=郷愁”と言う目線で
しかも、かなり重い眼差しで見ていたことを想い出した。
彼の晩年、僕の怠慢さと不義理によって疎遠になってしまった故田原桂一と
"RED BUDDHA"以後の巴里で語り合った彼との写真論によく出てき”中平卓馬”。そして、田原の「窓」シリーズが生まれた世界、深い陰影の使い方
そのものに影響を与えたであろう”中平卓馬”だった事をも思い出させてくれたこの『「挑発関係」= 中平卓馬 x 森山大道』展であった。
多分、彼らの写真が今再び脚光を浴びている根拠の一つには、
R.バルトが提言している、写真における”イメージ”とは、
その前提条件は”見る”ということであり、
「写真の被写体、写真を見る人、そして写真家自身」という
3つの”イメージ”とプラス”時代性”が傍観者の眼として読み込める事が
彼らたちの作品に、重厚に”紙焼き”され定着しているゆえ、
彼らの作品の寿命を長くしている根拠ではないだろうか?
そして、彼らたち世代の写真家の作品に接すると
やはり、彼らたちのその先にあったドキュメンタリー写真の根幹として、
僕には"Walker Evancs"の世界が見えてしまう。
エヴァンスの写真から僕は「都市の本質と日常生活そして、人間そのものとその時代環境」の相互作用という”ドキュメンタリー写真”そのものの力強さを学んだ事も思い出し、この30年ほどの時間が隔たった”二人の写真”から
改めて、「写真とドキュメンタリー」と言う「挑発関係」の”室礼”を
強く復習したこの『「挑発関係」= 中平卓馬 x 森山大道』展であった。
参考/
ウォーカー・エバンス/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B9
"Revolutionizing Documentary Photography" By Pouya Karim /
https://medium.com/full-frame/walker-evans-revolutionizing-documentary-photography-2f41e9491e59
神奈川県立近代美術館葉山/
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/hayama
ロラン・バルト『カメラ・ルシダ』/ 日本版「明るい部屋」:みすず書房 1999年刊。
田原桂一/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%A1%82%E4%B8%80
3)そして、「 Hanayo Trick Star / 半神半人 」展、はなよさまへ、;
後期高齢者、身もこゝろも未だ、不完全な男が
店主に梯子を押さえてもらって登った先は“向こう側”。
梯子で登ると言う行為そのものが、
僕のような人間には
久しぶりの懐かしい行為そのもの。
そして、覗いてはいけない空間を覗いってしまった、
遥かになってしまっていた
幾つもの想い出が重なり、
遠い懐かしさがにほい、
手探りで選ばれた音階が、音が
そして、静けさが
どうしても、
僕の幼い頃の時間という、デ ジャヴ。
いつか覗いてしまった、
押入れの戸板のズレの“向こう側“。
僕にとっての楽園は「焼け野原」の遠く
バラック小屋の向こう側。
お彼岸に供えられた献花が
忘れられたからとドライフラワーに、
どこからかの風に
なびくとともに奏でる音。
rhizomeというみちしるべ。
委ねたはずの僕は眠りから落ちる。
既に、遠い“向こう側”という1945年は
悲しさも、悔しさも、優しさも
幾重に重なり合っていた「死んだ楽園」。
作者はトリックスター。
自らのこゝろの有りさまを
自らの感情によって写し切り取る。
その場合の被写体は
作者個人のアクチュアリティから紡ぎ出す
“イメージ”という空気感でしかない。
では、“イメージ”とは? が、
この年齢になって
この作者が曝け出す空間を覗き見したことによって、
“イメージとは?”を
日本語に追い込んで僕は探し始める。
“モード“を軸にして現実を見て来た男の
これは幾層もの彷徨いへのデ ジャヴ。
そして、そんな男にとっての“イメージ”とは、
やっと辿りついた言葉は「擬似理想」。
作者が創造し、作品化した今回のこの空間は、
彼女の手段というリアリテである“写真”に
自らのこゝろの有り様の
拭っても、拭いきれないで漂っている両義性或いは、正義感を
「擬似理想」に対峙するメッセージとして訴える
柔らかく染み込む世界、” Hanayo Trick Star”。
そして、最近の彼女の作品には
「眼に見えるもの以上の何か?」をポエジックに感じる。
HANAYO/
http://www.hanayo.com/
4)50年という時の堆積は”写真芸術”を風化させたのだろうか?;
この2つの写真展が与え曝け出す”差異”とは?が気になり始める。
僕なりの回答は、「イメージ」という言葉の”傍観者”から”当事者”へ、
或いは、”液化”という変革変質移行が根幹差異なのだろうか?
或いは、傍観者が感じる「イメージ」という
「眼に見えるもの以上の何か?」がその「差異」を生み出すのだろうか?
では、今では誰でもが、無神経に使う言葉、「イメージ」という言葉を
日本語にすると?
「心象・印象・形象・着想・想像・一般的印象・意味合い・感覚・感じ」等の言葉に
置き換えられるだろう。
そして、意味の根幹は「経験の本質」或いは、「疑似経験」そのものを
言い得る言葉ではないだろうか?
例えば、バルトは、イメージは「写真の被写体、写真を見る人、そして写真家自身」という3つの角度から考えることができると述べ、
彼はこの3つのうち、”写真の被写体と写真を見る人”の2つの視点からしか
イメージを見ていなかったようだ。
そして、90年代も半ばになり始めると、PCの進化発展とともに、
「モバイルホーン/携帯電話」が一般生活必需品へ急速に進化発展する。
この「ケイタイ」の普及により、在るべきはずの「距離の消滅」が
より、明確に始まった。と、同時に「バーチャル」という世界も誕生し、
「ヴァーチャル リアリティ & イメージ」が強引に介在してきた。
そして、新しい世紀が始まった頃には「自撮り棒」なるものが登場。
以後、写真の世界にも「距離の消滅」が
今までの在るべきはずの世界を消去し始めた。
「自分で自分を写す」と言う行為が、新たな時代とともに、
新たな行為として日常普遍化する。
バルトが実イメージとした世界の「当事者と傍観者」と言う”挑発関係”も
故に、崩れ始める。
写真が作り出す”イメージ”も「疑似経験」から、「疑似理想」へと
在るべきはずの「距離の消滅」と共に
より、写真が生む「イメージ」そのものが、その曖昧性がより、
広がり始めたのではないだろうか?
今回、『「挑発関係」= 中平卓馬 x 森山大道』展と、
「 Hanayo Trick Star / 半神半人 」展を見る機会を得て
この2つの写真展が与え曝け出す「イメージ」とは、その”差異”とは、
新たな「疑似理想」であり、「リアリティ」と「イメージ」
そして、「バーチャル」と言う
新たな、”三位一体”が生み出せる「差異」なのであろう。
5)敢えて補足すると、;
実は、「西欧近代」が構築され、その後の周辺哲学によって、キリスト教も巻き込んで、
この構造をより強靭な構造体としてきたはずの「西欧近代」そのものが、「PCの世界」の登場とその進化発展によって、「西欧近代」のパラダイムの一つが完全に脅かされ
そして、制覇されてしまった。
そこで、富める西欧人たちは「近代、再び!」を根幹とするための手法でしかない
「グローバリズム」が掲げ始められたのが21世紀の始まりを告げた頃。
これは、「植民地政策主義」の再来構造とパラダイムでしかない。
現実世界はもうすでに、「在るべきはずの距離の消滅」によって
世界が「液化状態」と化してしまっているというのに。
しかし、変わらず厚顔強引な彼らたちは”地政学政治論”によって
敢えて、「グローバルノース」と「グローバルサウス」を設けての継続パラダイムシフト。
そして、改めての「二項対峙の防衛戦略」。
「アメリカとその仲間たち」と「ロシア+中国などなど」とのグループ対立。
もう一つは、「ユダヤ教とイスラム教」という宗教対立などが、
世界の至る所で倫理観なく、節操なく繰り広げられている現在という
「近代の終焉」という状況。
これに気づいてください。
「近代の終焉」によって、白人至上主義によって構築された世界と
そのパラダイムシフトは見事に砂糖菓子が崩れるがごとく、じわじわと、
音も聞こえぬままに今後、ますます崩れていると言う事に、
気づいてください。
しかし、これらの根源や根幹は変わらぬ、「人間が持ち得た”業欲”のみ。」
”サスティナブル”や、”DSGs"も全て、彼らたちが構築する「格差社会」の
富めるスパー リッチたちの”まやかしの罪滅ぼし”がほとんどである、
「業欲」が為せる更なる富への”利権”確立と確保の行為でしかありません。
例えば、ファッションの世界でもこのような時代においても、
それぞれのブランド生産企業は「年間生産数」や「年間売上」を公表せず、
彼らたちはブランドという“間口”を増やす事でその生産数を拡大するのみ。
抑えることは決して、していません。
また、そのための動力源を今後も原子力発電に委ねるパラダイムを
自分たちの都合主義によって再シフトし、決定しているに過ぎないのが
”世界”というまやかしの現実なのです。
この世界のリーダーであり、これらの「業欲」を自分たちの理論によって
先導している集団の多くが「ユダヤ民族」の人たちであることは周知の事実です。
これが、「世界」です。
6)エピローグとして、僕の好きな短編小説の一つ、;
A.C.クラークのS.F小説、「天の向こう側」があります。
その冒頭の短編に「90億の神の御名」というのがあり、
その内容は「チベットの僧院から自動逐次コンピューターの受注を受ける話です。
なぜならば、チベットのラマ僧たちは、神のあらゆる可能な御名を連ねたリストを
3世紀もかかって作成するのが仕事であり、
彼らはこれが1万5000年ほどかかるものと思ってやっていたという世界でした。
そこで、ラマ僧たちは”自動逐次コンピューター”の存在を知り、
その利用を思いつき、発注することを決めた。
彼らは”自動逐次コンピューター”にプログラミングさえすれば、
機械は100日でやってのけるだろうと目論んだのです。
大変だった、搬入、取り付け、電源などの問題点もそれなりに解決出来、
アメリカから専任技師が2名、チベットへ住み着いて早速仕事をする。
そして2年後、仕事を終えた技師を迎える飛行機が到着するまでに、
技師たちは山を降り始め、コンピューターも仕事を終え始めた頃、
彼らたちの頭上から星星が音もなく消え始める。」という、内容なのです。
これは1957年の”スプートニクス1号”の打ち上げの直後の、
66年前に完成されたS.F.短編です。
「近代の終焉」と共に、
最近、僕はこの小説を時折、思い出してしまうのです。 合掌。
参考/
A.C.クラーク/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF
「天の向こう側」/A.C.クラーク著 山高昭訳 ハヤカワ文庫刊。
文責/平川武治。
制作/2023年11月23日。
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