見出し画像

C-KDI-7/桑沢講義デジュメ2015年版/ 「巴里モードを25年見続けて来て、」   巴里モードとは? その歴史と現状まで、−2;

インデックスー2:
2)では、「モードの巴里」の現状と現実とは?;

 1>嫌がる巴里;
 2>死守したい世界統一性;

 3>「文化は武器」という価値観。;
 4>美的生活に於ける美意識の自由さ;
 5>”1本のゆったりとした大樹”観;
 6>時代性の歪み観;
 7>新たな価値観とスタンダードを;
 8> 時のNEW TECHNOLOGYとは;


2)では、「モードの巴里」の現状と現実とは?;

 1>嫌がる巴里;
 結論的視点は「今後」も「これからも」モードのキャピタルとしての
この街、”巴里”は彼らたちが築き上げて来たスタンダードとそのための
ボキャブラリィーがあり、それらを継続される為には余計なモノはいらないのである。
 その背景には、この巴里のモードの世界とはユダヤ民族の人たちによって構造化された「利権」ビジネ スであり、完全に利権者が儲かるように構築されている世界でしかないからだ。
 
 2>死守したい世界統一性;
 当然だが、『モードのキャピトル巴里』はいつも新しいもの好きである。 この気質と気骨がこの街を世界の”文化のキャピタル”に築き上げて来た最たる由縁の一つであろう。そして、この背景には”精神の自由”が存在しているからである。この自由さは異質な文化にも物怖じせづ、自分たちが持ち得た好奇心と喰ってしまえる勇気さえ在ればいつでもその時代時代に現われた
”異質と異端”を喰って自分自らの滋養と肥やしにもして来た強かさが此の国の文化の豊かさを醸造して来たのだろう。
『葡萄がワインになるバクテリア』を熟知しているからだ。

 3>「文化は武器」という価値観。;
 ここには’30年代迄、世界のリーダーであった、ヨオロッパが持っている『文化は武器』であるという価値観がビジネスコンテンツとしても歴然と
存続している。(余談であるが、アメリカはこれに嫉妬をして、『文化を買い集めて来た』。そして、僕たちの國は『文化を持て遊んで来た』のが
この戦後であった。)
 彼らたちの精神の自由さが常に、革新性を愛し『異端と異系』を理解する心の広さと深さである。この彼らたちの優越感から我が国のCdGが’80年代前半には認められた。しかし、その裏側には彼らたちが歴史を通じて持ち得た文化価値/美意識を武器にする経済構造の大いなる,時には傲慢な迄の
”自信”が存在する。
 この彼らたちの自信とは、この街の歴史と美しさであり、シャンパンや
ワインであり、そこに集まる階級ある裕福な男たちと美女であり、彼女や
彼らたちが装いで競い合うオージーな世界であり、宝石でありそして、
モードである。そして、それらを“武器”とする奢侈価値という名のこの国の一つの国家産業のスタンダードである。

 4>美的生活に於ける美意識の自由さ;
 そこでは『創造性、品質、文化性、革新性、伝統』が先の”コルベール
シンジケート”の本質である事。又、これらを自分たちの語りうるべき共通のボキャブラリィーとしておけば、現在のような低価格という異端が登場して来ても最終的には問題にならないと言う迄の”自信”である。
 従って、巴里のモードのスタンダードの根源は『創造性、品質、文化性、革新性、伝統』である。これらのスタンダードを独自のペースで継続させてゆく事が、又、自分たちのレベルと質でモードにおけるビジネスのプライオリティが取れる事も既に、彼らたちのこの奢侈産業のビジネスディレクションには必需である事を熟知している。

 5>”1本のゆったりとした大樹”観;
 ここには自分たちのブランドという一本の樹が老い枯れずに、
生い茂ること。
その為の肥やしと情熱とケアーと資金そして、時代の技術が大切である事も知っている。
 或る意味で彼らたちのブランド-ロゴマーク産業は”ジャルダンデモード”に於ける”庭師”が大切な仕事なのである。
豊かな敷地を持ち、ビジネスマインドを持った資本家の元で働く、
今ではこの「庭師」の役割が”ファッションディレクター”という名で
表玄関まで出て来てしまった時代性。
 しかし、所詮地主に雇われた「庭師」である事には代わりが無い。

 6>時代性の歪み観;
 ここで2つ程の事柄が既に、今世紀には時代錯誤を生んでいる。
一つは「文化は武器」という場合の文化そのものがブレ始めた事、時代に
追いつけなくなり始めていること。即ち、ヨオロッパに於ける文化とは
旧世紀までのものであり、澱み始めている事。
 新たな21世紀の文化とはより、リアリティある路上からの流れと
ハイパー文化と称される新たな文化の領域と”消費文化”であるがもう、既にこれらには立ち後れている事実と現状が巴里には在る。
 例えば、21世紀になってのリアル文化とは、’90年代後半に於ける日本発のケイタイ、 MANGA、T.V-GAME, デジ-カメ、iPHONをはじめとする
ハイテク機器による路上から誕生したハイパー文化。
それに、東京というコンシューミングデカダンスな都市に於ける高度な消費文化が静かにヨオロッパの日常性に広がりつつある現実である。
 参照:「日本によるひそかな「植民地化」-日常の中の東洋的記号」
(Marc Bosche著/ ル-モンド ディプロ ジャポン) http://www.diplo.jp/articles96/japon00.html

 7>新たな価値観とスタンダードを;
 その現実の一つに、Pales de TOKIOは変わらづ,日本のストリート
カルチュアーを紹介し続けている最も新しい芸術の前衛を担っている美術館であり、当然であるが巴里の若者たちには人気あるリアルな美術館とされている。HIP-HOPとGRAFFITI, SKATERSたちが毎日のようにこの美術館の
中庭などにも集まって、それぞれが思い思いのプレーを愉しみに来る世界である。
 これはこの街の次世代たちのリアルで、新たな情報発信地であり、
もう一方では次なるアーティストたちを誕生させる金鉱でもある。
そして、セーヌを挟んで対岸には数年前に新設した「ケ ブランディ美術館」がある。この最新美術館は嘗ての植民地であった諸国 からの強奪品を中心に、時代を経て美術品化されたものを収集、展示している所謂、植民地美術館である。かなり意識的で、面白いポリティカルな対比がこの界隈には構築されている。
 そう、ここは昔もそうであったように、110年前には流れるセーヌのその向こうにはエッフェルタワーがそびえた万国博のシンボルン地域であり、
革新的な界隈であったはずだ。
 現在、彼らたちはここに新たな文化価値を孵化しようと試みている。

 8> 時のNEW TECHNOLOGYとは;
 もう一つは、モードに於ける「庭師」も時の技術が必要である。
これが無いと新たなモードのイノベーションのための手入れが出来難い。
この”時の技術”とはその時代時代に於けるヒューマンテクノロジーと
サイエンステクノロジーのバランス化を計る事でしかない。
 しかし、この“時の技術”であるテクノロジーのバランス化を素材にのみ
委ねているモードの現状は今後のこの世界に新たな革新的な自由さは求め難い。
 この2つの歪みが現在のモードのキャピタル、巴里に大きく閉塞感を作っている原因である。
『 巴里モードとは? その歴史と現状まで、−2完。』
文責/平川武治。
初稿/2015年:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?