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E-a/シリーズ-8/”フクシマ”を『風化』させないために。-僕たちの國が穢されました。 「あるインタヴュー記事を読み返して、 学んだこと。ウイリッヒ-ベック氏の インタヴュー『原発事故の正体』を読んで。」

参照/朝日新聞5月13日掲載:
文責/平川武治:
初稿/2011年6月19日:

 『限界のないリスク、近代社会が生んだ不確実性の象徴。』
という見出しで始るこのインタヴューには
もう一つの、確実な眼差しがあった。

*新しいタイプに“リスク”とは?
 人間自身が創り出し、その被害の広がりに社会的、地理的
そして、時間的に限界がない大災害が生むリスクのこと。
 所謂、普通の事故における”リスク”とは、一定の場所、一定の時間
そして、一定の社会グループで限定されている。
 しかし、この”原発企業事故”はそうではなく、
新しいタイプの”リスク”をもたらせた”企業事故”である。
 このようなリスクを孕んでいるのは”原発事故”だけではなく、
気候変動やグローバル化した金融市場そして、テロリズムなど
他のグローバリズム化後の多くの問題も同じような性格を持っている。
 今回の福島の原発企業事故は
グローバリズム以降の近代社会が抱える”リスク”の象徴的な事例である。
 
*なぜ、このような新たな”リスク”が?
 この質問の答えは、
“人間の意思決定”が総てのリスクを生み出している時代性であるからだ。
 ここには以前のような“神の決定”はない。
即ち、”神の不在”の時代になった。
 ここでは神に代わって、
新しいテクノロジーが開発されPCとハイパー機器が
一般化されたハイパー社会。
この社会ではこれらを使っての時間と量と質の変革がなされ、
その結果が
情報規模と量もそして、経済における投資活動も変質した。

*『責任』は誰が取るべきか?
 『地震が起る場所、起き易い処』に
原子力発電所を建設するという事は
政府であれ、企業であれ”人間”が決めた事です。
 ここには”神の存在”は無く,自然が決めた訳でもない。
人間が都合で決めた事であり、
人間が背負わなければならない”新しいリスク”が
今回の原発企業事故である。
 政府や企業は今更、神を問題にする訳もいかず
ここで”自然”や“環境”を持ち出すしか無く、
”近代化”そのものがもう既に、
我々では制御出来ない社会を生み出している。
 そして、それについて、誰も責任を取らない、取らないでいい
組織化された”無責任システム”が出来上がってしまっている。
 この社会構造はハイパー社会に於ける
”バーチャルな責任システム”でしかない。

*破状した近代社会のための制度とシステム。
 19世紀,”近代”という時代が生み出す
リスクや不確実性に対処するための仕組み、
即ち、お金によって補償するという”保険”制度が開発,発展した。
これは“進歩”を可能にするための社会契約だったでしょう。
 しかし、今回の原発事故が起こしたリスクは
これらの保険制度では対応しきれないもの。
 19世紀から20世紀の多くの”制度”は
元来、もっと小さな問題の解決のために設計されて来たシステムであり
今回の”福島原発企業事故”がもたらしたリスクは
この近代社会のための制度とシステムでは処理出来ない
大規模な企業災害事故であった。
 
*資本主義社会の企業の利益は何処へ消えてしまったのか?
 例えば、リーマンで代表された”金融システムの破綻”の時も
”自動車界ビッグ3”等、いろいろあったが、
あのような資本主義世界の世界企業が不祥事を起こし問題が起きても
その負担を國や市民に廻すのであれば,
それは資本主義ではなく社会主義、
国家社会主義です。
 今回の”原発企業事故”もそのようです。
国家の国民の税金を使い、膨大な予算を使い,
更に、世界一高い電気料金を国民から取っている電力企業は
この原発事業を40年以上も推進しておきながら、
彼らが言うところの”安全神話”を垂れ流す事以外には、
”万が一”の事故に対しての
具体的な対策案や保証システムを創って来なかった。
 いつの間にか、自分たちが儲けた利益は自分たちだけで分配し,
自分たちに都合がいい事にのみ使うのが
資本主義の正論になってしまった時代性。

*“市民運動”が必要な時代性?
 産業界や専門家のみに判断を独占させずに、
市民の関与が真実を見つけ出します。 
 市民社会と彼らたちの”市民運動”が
この変質した資本主義を変革させる事が可能である。
資本主義社会であるが、民主主義国家であるという自覚。
そして、この民主主義の内に市民社会があり、
市民参加の”市民運動”が存在しなければ、
産業界と政府の間に強い直接的な癒着が出来てしまう。
 そこには”市民”は不在で透明性に欠け
諸問題の”意思決定”は両者間の癒着と連携の元で行なわれてしまう。
俗にいわれる、官僚と財界の独占性でしょう。
 ここで”市民運動”が関われば、
政治に大きな“窓”を設けることが出来る。
即ち、新鮮な風を吹き込むことが出来るのです。
 自分の”立ち居場所”による市民意識と責任意識。
そのための持つべきそして、学ぶべき教養。
そこから生まれる問題意識。
この自分たちが関心を持った諸問題に
どのように行為に依って関わってゆくかの”決断”が
“市民運動”そのものである。

*市民運動の必然性とは?
 大切なポイントは、産業界や専門家たちに
いかに”責任”を取らせるか?持たせるか?
そして、いかにして透明に出来るか?
又,他方ではいかにして市民参加の構造を組織出来るか?
これらが市民運動が目指すべきところである。
 産業界や技術的な専門家たちは
今まで、”何がリスクで、何がリスクでないのか”
これらを決断する権限を独占して来た人種である。
 彼らたちは普通の市民たちが
そこに関与する事を望まず、寧ろ排除して来た
特権意識の強い世界の住民であった。
 ここには自分たちの民族意識からの責任意識よりも
彼らたちが持ち得た世界での
”個人のエゴ”から生まれる特権意識の方が強い。
 今回では“原子力村”の住民たちがそである。

*市民運動に必要なものとは?
 一つは、自分たちの立ち居場所の根源としての”民族意識”です。
今ここに来てドイツ、メルケル首相の動きが表層化し,
関心が持たれて来た。
その根拠の一つに彼らたちドイツ国民が持っている”民族意識”がある。
 自分たちの國を想うこゝろとは
自分たちの民族を想うこゝろに他ならないという根拠が伺えるのである。
 これが今回の”原発企業事故”に対する
日本政府と政治家たち企業家たちや学者たちと
一般国民の欠如しているところでしょう。
 即ち、國を想うこゝろがあれば
“気骨”が生まれます。

 二つ目は、市民としての“学びと教養”が必要である。
そのためには人間としての誠実さと謙虚さが必要ですね。
そのための”学ぶ”という行為が必要でしょう。
 市民運動に参加するにはそのために必要な知識や知恵を学び、
謙虚さという人間の美徳の一つを持っていなければならない。
こんな時、「群衆とは思想を持たない集団」という言葉を想い出す。
思想を持たない群衆がただ、行動すれば暴挙、暴動になる。
“反対”をしていれば、自分たちの立ち居場所が感じられるから
と言っての”反対運動”では不足するものがある。

 三つ目は、市民運動には“気概”が必要である。
”民族意識”を持って、問題意識について”学びと教養”を
身につけそこで、
日本人としての”気概”が必要でしょう。
 この”気概”を持つ事によって、
市民運動もがんばり、張り切って“気骨”ある運動として
継続出来るのです。
“気概”と持つ事は勇気と自信に広がり
他人を想うこゝろへ発展し、新しいゆとりを芽生えさせます。

 四つ目は、当然ですが、自分の”立ち居場所”が必要です。
今回の”原発企業事故”によって
この自分の”立ち居場所”が無くなったり、より見えなくなったりと、
大きくシャッフルされてしまったようですが、
やはり、自分が生きている証しとしても、
この自分の”立ち居場所”は必要ですね。
この事故後にやっと、自分の”立ち居場所”が判った人たちも
多くいるでしょう。
何故ならば、戦後の多くの日本人は
目先に吊り下げられた”エサ”に操られた結果、
それなりの豊かさを享受し、
その自我のみの傲慢さと虚栄心で
現在では“豊かなる難民”に成り下がってしまたからです。

 五つ目として、もう一つ加える事は“情報”です。
オープンでフラットな”情報”がこの市民運動には必要です。
必要な”情報”は価値と直接的な機動性を持つ。
 だから、今回の原発企業事故に於いても
”情報”が不透明、遅い、不確実などの
マイナス要素ばかりの”情報”だったので
国民を余計に不安,不信にし、
その怒りを増大させる原因となったのです。
しかし、”情報”が早かっても確実なものであっても
それを受け止める側にそれなりの知識が無ければ、
”情報”そのものは正常に機能はしません。
 結果、今回、“情報の市民化”が市民権を得た
サイト上においてのYouTubeやUSTREAMやTWITTERと
個人のブログによる情報発信の多くが市民運動への
”開かれた窓”として機能を果たしたからである。
 世界に自らを開き、もっと協力しあい、協調しあう事が
この”市民運動”にも必要な”情報”です。
 グローバル時代には、どんな國の国民も
『新しいタイプのリスク』に対して
より、オープンな態度が不可欠です。
これらのリスクがもたらす諸問題に対して
自分たちだけでは解決出来無くなってしまったのが
現代と言う”近代社会です。
 
 このように書き記していると、
僕は京都大学原子炉実験所助教/小出裕章氏の存在が強くあった。
彼の人格と存在そのものが、今回の”原発企業事故”で
多くの教えと共感と勇気を与えて下さった。
『たいへん、ありがとうございました。』

 「どうか、『近代性』がそして、『明日』が
『あきらめ』の同義語となって行く事の無いように。」

合掌。
文責/平川武治。
初稿/2011年6月19日。

*参考文献/
 「原発事故の正体」/朝日新聞5月13日掲載/
Ulrich Beck氏インタヴュー。
 Ulrich Beck著書リスト;
『危険社会』/二期出版、1988年/法政大学出版局、1998年
『世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊』
/平凡社、2003年:ちくま学芸文庫、2010年
『グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬・グローバル化への応答』/国文社、2005年
『ナショナリズムの超克―グローバル時代の世界政治経済学』
/NTT出版、2008年
『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』
/而立書房、1997年
 

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