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「政商」森英恵の内幕ーこれでもデザイナーと言えるのかー; 雑誌「選択」/ 1988年12月号 第14巻12号より抜粋。

執筆/平川武治:
掲載/2022年10月01日:

 森英恵は我が国のファッション界では珍しく、話題に事欠かない服飾デザイナーである。他を見渡す限りでは三宅一生がいる程度である。
二人の場合、指向する目的は同じだろうが、結果として現れる方向性は全く違う。

佐藤寛子から小谷美可子まで/
森英恵に関わる、最近の話題を拾ってみよう。
日本が惨敗を喫した今回のソウルオリンピック。その中でシンクロナイズドスイミングの小谷美可子は見事にメダルに輝いた。陸上の女王、アメリカのジョイナーと共通する華を持った選手だ。前回のロス大会以降、オリンピックはウェアーやシューズメーカーの大事なプレゼンテーションの場となった。小谷のユニフォームも、もちろんその対象だった。

 白地に蝶が舞う彼女の水着は、スポンサーがミズノスポーツ、そして、
デザイナーが森英恵だった。小谷が将来、芸能界入りするであろうとの読みも恐らく含めて、彼女、森英恵の狙いは当たった。
 たとえ、デザイン料をもらわなくてもそのPR効果は大へんなものであった。ミズノと森英恵は、スポーツファッションコンテストの主催者と審査委員という関係。また彼女と元ファッションモデルの小谷の母親とは知り合い。この立場を使って小谷という媒体の価値を利用することによって、森英恵は自分の話題をまた一つ、強烈に作ったことになる。

 ミラノスカラ座の来日公演、高い入場料とともにその前宣伝もたいへんなもので、何かとマスコミに話題を提供した。その一つにやはり森英恵が参加した。ルチア-リベリティというソプラノ歌手の「椿姫」の衣裳デザインだ。  これも上流階級とその娘たちを狙っての彼女一流のイメージ戦略だ。

 少し古いが、人気度、教養、そしてNHKーどれをとっても森英恵好みの宮崎緑のウェディングドレスのデザインを「ぜひ私に」と名乗り出たのも彼女だった。民放のニュースキャスターたちがアルマーニやフェレといった世界的ブランドデザイナーを着るのなら、天下のNHKの看板娘は天下の日本人デザイナーという発想だろう。

 まだまだある。森英恵が好む対象は美人や特定階級の人たちである。
美空ひばりの再起リサイタルのように、昔のきねづかの芸能人から政治家にまで。竹下首相の初訪米時、奥方のファッションアドバイザーは植田いつ子だったのが森英恵になった。同郷の島根だからと強引に割り込んだという(もちろん本人は否定している)。
 安倍晋太郎のネクタイやポケットチーフをアドバイス。だがこれらもすでに「恩人」、佐藤栄作と寛子夫人で経験、実証済みなのだ。

 彼女と比べられる同じ“権力志向”の有名デザイナーに冒頭に挙げた三宅一生がいる。彼はファッション界のみならず、デザイン、アートのジャンルでも活躍した。年も若いが、彼の文化人脈をもってしても、芸能界から政財界に至るまでの幅広さと、上から攻める戦略では彼女の敵ではない。
 「“政治力”と言われてもう三十数年でございましょ。今さら何とも思いませんワ」と森英恵は言うが、この辺りが彼女をして「政商」と呼ばしめる
所以である。

 現在のハナエ-モリグループは、年間四百億円(公称)の売り上げを誇る。個人デザイナー企業としては世界でも有数である。グループの司令部であるハナエ-モリ-インターナショナルを筆頭にファッション部門が四社、出版部門が二社、映像プロダクション会社、インテリア、不動産会社とフランス料理など食を扱う会社がそれぞれ一社ずつ。これが国内の陣容である。
 さらに海外のファッション拠点としてフランス、アメリカに各々一社、カシミアを扱う合弁会社、一番新しいインドでのテキスタイル会社が一つ。それらのトップに君臨するのが森英恵である。

日本人離れした政治力/
 彼女の軌跡を辿ってみよう。
昭和二十年代後半、デザイナーという職業が確立していなかった時期、日活映画の衣装を手がけることで世にデザイナーを認知させたのが森英恵である。新珠三千代、岡田茉莉子などの銀幕女優との結びつきから、雪村いづみ、美空ひばり、と芸能界へ、さらに佐藤寛子を通じて政財界へ食い込んでいった話はあまりにも有名だ。

 この過程で、特筆すべきいくつかのエピソードがある。
戦後という時代が確実に彼女に味方した事は事実だが、その時代性を的確に読む勘の鋭さと利用しきる能力とエネルギーは他のデザイナーにはなかったものだ。当時、パリ詣でが常識の日本ファッション界にあって、森英恵はただ1人アメリカ進出(昭和四十八年)を計っている。パリの繁栄を支える根っこは、バイヤーの集まるアメリカであることを見抜いてのことだった。

 彼女のよき理解者で雑誌『装苑』の編集長だった今井田勲が、日本人で初めてアメリカのファッションショーに参加するチャンスを提供した。折からのジャポネスクブームでショーは大成功。この時に超高級デパート、ニーマン-マーカス社の会長スタンレー-マーカス、世界のファッション界の帝王、フェアチャイルドら有力者の知己を得たのである。もちろん、アメリカ進出に当たって彼女の標的は定まっていたに違いない。日本での政財界への根回しよろしく、海外でも同様な手法をとったわけである。

 ターゲットはフェアチャイルドであり、それは見事に成功した。
フェアチャイルドを味方につけたことで、彼女のアメリカ進出の成功がジャーナリズムに保障された。おそらく、”今井田的な存在”をフェアチャイルドに求めたのであろうが、そこはアメリカ、結局、金がものを言う。
 フェアチャイルドにとって日本の森英恵の利用価値は、成長著しい日本での拠点作りだった。フェアチャイルドのファッション誌「WWD 」はその後、ライセンス出版で「W-W-Dジャパン」としてハナエ-モリグループが出版した。このあたり、使うべきところへは金を惜しまない森英恵の日本人離れした金銭感覚の勝利であろうと言われる。続いて、昭和五十二年には、日本でこれまた初めてのパリのオートクチュール入りを果たした。誇り高きクチュールも当時は名ばかりの存在となっていたが、森英恵の海外パブリシティの日本への効果は絶大なものであった。世界のハナエ-モリの確立であった。

 海外戦略で頂点を極める一方、国内固めにも抜かりはなかった。
たとえば、四十二年の「園遊会招待」である。ファッション界で初めて、
皇室主催の秋の園遊会に招かれたのが森英恵夫妻である。当時の週刊誌は、時の佐藤内閣のお声がかりと報じたものだ。

 佐藤栄作の次男、佐藤信二が衆院選に出馬したのが昭和五十四年。
それまで、特定の代議士の選挙活動を応援したことのなかった森英恵が初めて表立って応援した。佐藤信二は通産省政務次官、自民党将校委員長を歴任する”商工族”の中堅。ファッション行政は商工族のフィールドだから、森英恵にとっては結果的にも損ではなかった。

 英恵の夫、森賢が理事長を務めるファッション振興財団の設立の経緯も曖昧模糊としていた。が、内幕は関係者ならほとんど承知の事実である。
 かつて、朝日新聞と森英恵の共催で、世界の有名デザイナーを毎年五人東京に集めて「ベスト5」という名でファッションショーを行なっていた時期があった。(五十四年〜五十六年まで)。
 ところがこの活動を、財団設立の許可を取り易くするために、彼女と夫が主催したかのように記して通産省に提出した。実態はショーの会場提供とホステス役が森英恵の役割だったのにである。なんの相談も連絡も受けず、寝耳に水で驚き憤ったのが朝日新聞。通産省も事実確認も調査もせずに彼女側の提出をあっさりと受理した。申請から五十八年9月の認可までわずか二、三ヶ月の速さである。財団設立には通常何年もかかってやっと認可が降りるという常識を破った。
 佐藤信二初め「商工族とパイプの太い森英恵ならでは」と業界で話題となったものだ。

 佐藤信二の兄(栄作の長男)である竜太朗は、その後、同財団の理事の一人におさまっている。また竜太朗の長女、路子と森英恵の次男恵との婚約
発表もあった。母親が仕組んだ政治閣入りの婚約だったが、この結果は裏目。現在までこの話は日の目をみていない。(追注、結局は破談となる)

 ここで、夫、賢にも触れておかなければならない。世間では陸軍主計少佐出身の彼のマネージャー的役割が、今のハナエ-モリ-グループの大きな力になっているといわれる。表向き英恵はクリエイションは出来るが、ソロバンは出来ない、お金にはうといことになっている。だから賢の存在と力が必要だった。今日の森英恵王国の前身「ひよしや」は”パパ-ママストアー”でスタート。表面に出るのはいつも彼女。その陰で帳簿を記していたのが賢であった。

 賢は昭和三十年代、それまで洋裁学校の先生たちを主力メンバーに構成されていた日本デザイナークラブ(NDC)の向こうを張って、日本デザイン文化協会(NDK)を発足させた仕掛け人。設立後、賢自らが理事長におさまり、”先生”上がりでない英恵をデザイナーとして中央舞台へひきあげることに成功した。このNDKを彼女のステイタスを固める国内戦略とすれば、さきのファッション振興財団は海外戦略である。財団を利用して日本の森英恵が世界のハナエ-モリとしてもプレステージを持ち得る情況を確実なものにした。

 国内の関係者たちは”ファッション大国”と日本を評価しているが、実際海外から日本を見た場合、この国ほど政府や地方行政レベルで外国からのファッション産業人を受け入れる機関が組織されていない先進国はない。
 この実情を彼女は自分の海外での体験で見抜いての財団設立であろう。
自分がどう動けば自分中心の世界が作れるかを見極める力を持った女性である。それを支えるのが賢の存在に他ならない。

「異常」なほどのマスコミ対策/
森英恵の「マスコミ利用」の上手さには定評がある。映画の衣裳を手がけて以来、どれだけマスコミが現代社会において重要な機能を持っているかを熟知した彼女は、自分の事業の一環としてマスコミを直接に持ち利用し始めてもいる。

 出版、TV、CATVと現代のあらゆるメディアを先述のグループにとり入れ、利用できるものは総て利用して自分をPRしている。
 また、マスコミ人への対応も絶妙だ。森英恵の”一流志向”から大新聞、大TVほど大切にし、彼女なりのランク付けで、関係するマスコミ人への盆暮れの贈り物も欠かしたことがない。重要人物には自筆の手紙を添えることも忘れず、ショーの時には特別席まで設ける念の入れ様。これでは表立って批判する記者もいなくなるわけである。

 ファッション振興財団の理事の顔ぶれをみると、これまでお世話になった人たちの名前が連ねられているが、今井田、大石尚(元NHK)、大内順子(ファッション評論家)、星川俊三(元日本繊維新聞社長)―と半数がマスコミ関係者。また雑誌「W」の編集長は元サンケイ新聞文化部員。同紙で英恵のサクセスストーリーを連載した記者だ。

 恐い話もいっぱいある。ある業界紙が彼女の半生記を連載したことがあった。批判のヒの字もない内容だが、いつもそうであったように、事前に森英恵自身が必ずチェック、担当記者の手元に戻ってきた原稿は直しの赤字の方が多くなっていたという。業界で同じことをするのは三宅一生くらいであろう。

 そして、アメリカの友人、フェアチャイルドを通じてのニューヨークでの日本人攻撃。これもまた「ベスト5」絡みだが、朝日がショーの会場をハナエ・モリ・ビルから銀座のマリオンに移すにあたり、それまで毎回参加してきた森英恵に"日本代表"の座を降りていただくことになった。
 これに対する仕返しが、ニューヨークの「WWD」紙上での「日本ではファッションもわからない素人が幅を利かしている」という朝日と担当記者への批判記事。これは二回にわたった。

 こうした内外のマスコミ対策で活躍するのが、ハナエ・モリ・インターナショナルの「秘書室」である。室員は森英恵自身が直接人選を行っている。「エリート、家柄、それに見栄え」が条件だという。非常に人の出入りが激しいグループの中にあって、この秘書室と広報担当は人選も厳しいが勤続年数も長い。彼女がマスコミ、広報にどれだけ気を使っているかがわかろう。
 面白いことに、秘書にはもう一つ、「毛筆が上手いこと」が条件。新しい内閣が誕生するたびに、全閣僚に毛筆の祝辞を書くのも重要な任務の一つだというウワサがある程である。

利用価値を見種める天性の「嗅覚」/
 芸能界を皮切りに、フェアチャイルド、レーガン米大統領夫妻に代表される世界の有名人とのコネクション―と、次々に望みを遂げてきた彼女に終始まといつくのは「権力好き」である。
 政界への接近もその一部。竹下しかり、安倍しかり、宮沢にいたっては、外交官夫人としてパリに住む彼の長女をパリ店のプレス担当として引き抜いてまでいる。
 そうした見返りが、ステイタスの確保であり、財団設立、異業種進出にあたっての便宜を受けることなのである。
 雑誌に代わって今彼女が最も力を注いでいるのがCATVだが、その「認可をめぐって自民党の大物が動いた」(雑誌「創」八五年九月号)という。
彼女が佐藤信二と並んで本格的に選挙運動に動いた鈴木都知事との関係も見逃せない。港区内で逸早く認可がおりた森英恵のCATVは、いまではNTTと組みスーパーキャプテンを利用した「インファス・アンド・NTTネットワーク」の設立にまで拡がっている。

 世界的にも日本でも、森英恵を支えるものはデザイナーの地位ではない。お金もコネもマスコミもフル活用して"一流"の座を保持しているのが現実である。上流社会の情報をつかむ、誰にどう近づけばいいかーその人物の利用価値を見極める能力は天性のもののようだ。このあたりは日本人離れした特性ではないだろうか。

 そんな彼女が六十の坂を越えた現在、最後に狙っているものは何か。春の紫綬褒章の次は、「政界に一番近いデザイナー」としてのごほうび、”文化勲章”ではなかろうか。彼女の賞好き、勲章好きは有名である。
昭和五十九年にはフランスのシュバリエ芸術賞、他にアメリカ、イタリアなどから、優に十を超える賞を受けている。彼女自身の宣伝文句に従うなら、
まさに「美の大使」である。夫、賢はファッション振興財団理事長として勲三等瑞宝章を一足先に受賞しているのだから、当然の欲求であろう。
 「政商」森英恵の野望は、果てしなく広がり、留まる所を知らない。
(敬称略)ー完ー。

出典/雑誌「選択」/1988年12月号 第14巻12号より抜粋。
執筆/平川武治:


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