数字を求めるということ

「ビジョン」とかいう言葉、学生時代からかなり苦手だった。聞けば具体的ではないことが多く、夢と言えるほど本気で憧れてもおらず、目標と言えるほど現実的でもない。ポーズでしかないということがほとんどだったように思う。

もしかしたら自分があまりにも穿った見方をしすぎているという可能性は考えている。でも、大学生から大学院になってそういう話を聞かなくなった矢先の就活、「我が社のビジョンは●●です」「ビジョンに共感し〜」みたいな言葉を嫌というほど目にして、気分が落ち込んだりしていた。鬱っぽくなったというよりは「は〜、マジだるいわw」くらいの気分の落ち込み方ではあるけれど。

ビジョンという言葉が嫌いとは言ったものの、これは単純に目指したい目標や達成したいことが明確に自分の中にある人が少ないということ、そして、本気でそういうものがある人は(大抵はバカにされて終わることを知っているため)人前でわざわざ言いたがらないということがあるんじゃないかと思う。

部活の中で高い目標を掲げたり、会社の中で「ビジョン」に沿った目標を言う、ということは叩かれにくい。し、なんかうわべだけでも応援してくれるっぽい人も現れたりして、気分がいい。だから本気で思ってなくても言う。これを達成したいとか、世の中をこう変えたいということを言う。翻って、集団の中で少数派となる目標を掲げるということは基本的にあらゆる悪意の対象になる。やれあいつには無理だ、意味がわからないとかの類の内容。

こういった理由で「ビジョン」を掲げることが大事だという主張に、自分は基本的には賛同していない。


先日、ネットのインタビュー記事で、経営者のビジョンについての考え方的なものを読む機会があった。「昔は会社としてビジョンを掲げることを怠っていた。だから人がついてこなかった。」という発言があった。

読んだ瞬間から、これは本当にそうなのだろうかという疑問が湧いた。

売上だけを目的にしているのではない、それはビジネスではない、みたいなことを言い、単純に利益をあげるだけの会社に対して意を唱えていたその経営者は、どうやら「以前はビジョンを掲げずに売上のみを重視していた。だから人がついてこなかった。今は売上ではなくビジョンを主目的として動いているから、人がついてくる」ということが言いたいらしかった。

自分にこれが理解できないのは、自分にとっての「ビジョン」が、そもそも人と共有するために存在しているのではない、という考え方があるからだと思う。ぼくは他人のビジョンを聞いても、「なるほどそうなんだ、頑張ってね、おれは自分のことをがんばるよ」で終わり。自分の目標は結局、自分自身で達成するしかないという考え方がある気がする。経営者がビジョンについて話していても、自分は同じことを思うだろう。

そしてもう一つ、数字を求めるということがぼくにとって目標そのものであるということ。その人は、会社として売上を伸ばしていくという行為は5年くらいで虚無ったと話していたけど、競技水泳を10年やってた頃の僕はそんな「飽き」は発生しなかった。タイムを縮め、大会に参加し、結果を残すということが全てであった。ついてくる人間関係やイベントはオマケみたいなもので、あったら楽しいけどなくてもいい。そんな程度のものだった。

目標とするものがあれば、多分売上や利益を伸ばすということに飽きは来ない。水泳でもそうだったように、伸びた先では見える世界も、できることも、変わっていくだろうなという確信がある。

だからとりあえず、「ビジョン」は人に言わなくていい。人に言っても仕方がない目標や夢をイメージしながら「伸びる」ことが大事。今はそう考えています。

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