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自分のアップデートを認識する|33歳 フリーランス

2022年の私は「随分遠くにきたものだなぁ」という感覚である。10年前の22歳、大学卒業した頃には想像すら出来なかったフリーランスで多種多様なお仕事に巡り合わせてもらっている。そして、当時はまだ出会っていなかった人と家庭を持ち、1歳の女の子を育てている。

社会人になって多くのことを経験し、自分が少しずつアップデートされている感覚がある。きっとこれからの10年もそうだろうと思う。何せ私は変化や挑戦することが大好きで、この性格はきっとこれからも変わらない。だからこそ、等身大の自分をあえて書き留めたいと思う。

1. 人生=仕事から人生=幸せな日々をおくるへ

写真1_作文

士業を営む共働き家庭に生まれた我が家の会話は少し変わっていたと思う。両親ともに同じ会社で働いているため、ご飯の時も仕事の話が飛び交う。税理士業であったため、やれ帳簿はどうだ、あの会社の経営がどうだ、あそこの相続は・・・、職員は・・・などなど、8割はそんな話だった様に思う。父親は3人娘(私は末っ子)を「女性」という枠にはめず、将来経済的に自立できるようにと、「学ぶ」ことについては惜しみなく投資してくれた。

休日も休むことなく仕事をしていた両親の背中を見て育った私にとって、人生=仕事であり、キャリアを積んでいくことが最優先事項になった。携わりたい仕事だと思えば、東日本大震災の被災地のNPOに転職し、キャリアのために学びたいことがあれば、英国の大学院に留学した。

まだ上手く言葉に出来ないのだが、英国で出会った人それぞれの「幸せ」のあり方に触れ、帰国後に結婚、出産とライフステージがすすむに連れて、私の大事にしたいことは「キャリア」から「自分や周りの人の幸せ」に変わっていったように思う。その感覚と行動がようやく合致しつつあると感じる。帰国後からつい最近までは、トランジションの感覚に思考と行動がともなわず、「何かが違う」と苦しんでいた。

自分や周りの幸せ度に敏感であろうとするほど、仕事だけではなく、家族や友人との語らいの時間、芸術や音楽に触れる時間、運動して汗をかく時間、自由に思考して創作する時間、ゆったりする時間など、今まであまり重きをおいてこなかった時間を大切にしたいと思う様になった。逆に、そういう時間を奪う仕事や働き方は、自分の幸せにつながらないと考えるようになった。

2. 楽しさや刺激を自分で作り出す

写真2_作文

私が大切にしている価値観の一つに、変化や挑戦がある。それらが生み出す躍動感や刺激がとにかく好き。上手くいかないときに試行錯誤する過程も楽しい。そして挑戦は自分への小さな自信や新しい世界観をもたらしてくれる。

振り返ると、原体験は高校生の夏休みに参加したニュージーランドへの1ヶ月の交換留学だったように思う。初めて生きている英語に触れ、伝えたいのに伝わらないというもどかしさを感じながらも、つたない英語と身振り手振りで自分を表現した。帰国時には英語力が少しアップし、何より親元を離れ海外で過ごせた自分にちょっと誇らしい気分だった。

そのためか、私は大きな変化を作り出し挑戦したい時は環境を変えるということを意図的にしてきた。そしてその経験はいつも私を一回りも二回りも成長させてくれた。

ただ最近、この方法で変化や挑戦をしていくことが自分のライフステージに合わなくなっていると感じている。家庭を持つと、独り身の時のようにフットワーク軽く環境を変えることが難しい。結婚と出産を経て、何だか鳥籠に入れられた鳥のような気分になっていたのはこのためかもしれない。

そのため私は最近、発想を逆転することにした。「環境を変える→自分を変える」ではなく、「自分を変える→環境を変える」である。変化や挑戦のきっかけを環境(外)に求めるのではなく、自分(内)から作り出すのである。

昨年から始めたインドのお洋服の輸入販売は、今思うとそんな私の思考の変化の現れなのかもしれない。稼ぐ仕事とは全く関係ない分野での挑戦。毎日手探りで、私がやる意味って何だろうと考えることも多々あるけれど、この挑戦は今まで全く接点がなかった人やコミュニティとの繋がりをもたらしてくれている。私は今最高に楽しいのだ。

3. 誰かがつくった自分像や社会像とさよならする

写真3_作文

人間や世界は「べき論」で動くほど単純でないということが、ようやく体感値として理解できてきた気がする。頭では理解していたつもりだったが、過去の言動を省みると、正体がない「みんな」が良いと思うだろう「べき論」で行動してきたことの連続だったなと思う。

大学受験は偏差値が高い大学が良いと思っていたし、社会人になる時も社会的認知がある「きちんとした企業」で働くという選択肢しかなかった。その後携わった災害復興の現場でも、人と向き合いながらも、復興は住民が主体になるべきだと思っていたし、大学院で繰り広げられるディスカッションも、理論的な正しさを求められるものが多かった様に思う。

ただ面白いことに、「べき論」で決めたことは、一時的に上手くいったように見えるが、長期的には持続しないことが多いなと感じる。今までの自分を振り返っても、「べき論」より「心が動く」選択肢を選んだ時の方が、心から楽しいと思える経験や一生物の関係性を得られたように思う。その法則に気づいてからは、大きな決断をする時は「自分の心がワクワクしているか」を問いかける様にしてきた。

最近私は、この考え方を仕事やプライベートで人と関わる時にも応用し始めている。簡単に言うと、「社会や事業がどうあるべき」はもちろん大事だが、そこに関わる人の想いや気持ちがのっているか、誰かの押し付けになっていないのか、のほうがもっと大事だなと感じる。

また逆のパターンがあることにも最近気がついた。自分が話す際に、人に拒否されることを恐れて理解されやすい「こうあるべき」や「期待されていること」を話しがちで、「本当の自分」について話すことをためらうことがあるなと。

誰かがつくった自分像や社会像にさよならしよう。そうなれば、もっと寛容性があり愛に溢れる社会になるかしら、人が生きやすい社会になるかしら、とそんなことを最近考えている。

この文章を10年後の私へ捧げる。そして、結婚や出産というイベントを経てどこか違和感を感じている女性たちにとって、考えるヒントになれば、これ以上に嬉しいことはない。

Season 2 - 作文集credit


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