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まだまだかな… #204

祈りもするけど、声もかけたくなる。

遠巻きに見て、想い、祈る、、、だけの境地にはいられない私がいる。
電光石火での反応はしなくなったけど、様子を見る私がいる。

そして、お節介とわかっちゃ~いるが、考えに考えて、声や手
出してしまう…

それはまだ相手を信じていないから?
その人自身に力があることを信じていないから?


私自身、そうやって放っておかれた気がするから。
だから、嫌なんだ!という気持ちがどこかにある。

遠巻きに見て、想ってくれている人がいる…
だから自分の問題自分で解決する、解決できる…それも大切なことだけど
私はそっと差し伸べられる手を持っていたいんだ、と思っている。

新聞記事に、
生活保護を受給する母子家庭で育った20歳の女性の話が出ていた。

子どもの頃、うちの家庭の状況を親戚や周囲も知っていたのに、積極的に関わろうとしてくれた人はいなかった。近かった人でもそうなのに、政治家とは育った環境が違いすぎて、私のような人の思いなんてわからないと思う

2022年6月17日毎日新聞・社会面より

これは、政治はこの声に応えられるか、と問いかける記事の中の話だけど、
実際、私も同じような体験をしてきた。

私が生きてきた時代といまは違う。
だから、一概には言えない…

遠い昔、伴侶を亡くし母子3人で暮らしていた私たち家族を、父は心配していただろう。毎朝、神棚に向かい手を合わせていたことは知っているから、たぶん祈ってくれていたと思っている。

だから、心配をかけまいと頑張った私。
30年近くをかけて、すべてがすれ違っていたと気づいた。

ここで、祈りが違っていた、とも言えると思う。
心配ではなくて、しあわせを祈ることが大切なんだよね…

まだまだごちゃまぜ。

本当に相手のしあわせを祈ることができれば、
声や手、本当に出す必要はないのだろうか?

まだまだトラウマが解消されていないが故のものなのか?
私が出してしまう声や手は、本当に必要ないものなのだろうか?

祈りながら、答えを探す日々を過ごしている…


最後までお読みいただきましてありがとうございましたm(__)m。


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