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Re:Start!


1.一人旅

 東京駅で7時9分発の『のぞみ9号 博多行』に乗り込む。随分と朝早い時間の便だが、昼頃に博多に着こうと思うとこれがベストだ。人生初のグリーン車は座っただけで驚くほどに快適で、流石に高額なだけのことはある。普段なら良くても指定席止まりだが、たまにはこんな贅沢もいいだろう。

 僕は辻 玄人(つじ はると)、28歳。どうして平日のこの時間に新幹線に乗っているかと言うと、出張ではない。もし出張ならグリーン車なんてまず乗れないだろう。この度めでたく無職になってしまったので、次の職を探す前に特に宛もなく旅に出たと言うわけだ。以前に勤めていたのは中堅のソフト開発会社で、スマートホンのアプリなどを開発していた。28歳ともなれば管理なども任される立場で、今から考えればかなりブラック……いや、頑張りすぎていたのかも知れない。

 結果として体を壊して入院してしまい、一ヶ月ほど入院して戻った頃には会社に居場所が無くなっていた。社長にやんわりと退職を勧められ、医者からも『無理をするな』と言われていたのもあって、六年ほど勤めた会社を去ることになったのだ。今までの功績もあって退職金を少し多めに貰えたのは不幸中の幸いだったが、当然ながらこれからずっと遊んで暮らせるほどではない。せいぜいグリーン車に乗ることを思い切れる程度だ。

 今回の目的地は博多のもう少し先、佐賀県だ。前の会社の同僚とは退職後も連絡を取り合っていて、旅行先の相談をしたら彼の出身地である佐賀県の玄海町を勧められた。玄界灘に面した町で、原発があることでも有名な場所。彼の話では時間がゆっくり流れている感じで魚や佐賀牛も美味しいし、休養するにはちょうどいいとのことだった。僕自身東北の小さな漁師町の出身だから、魚が美味しいのは有り難い。佐賀県にはまだ行ったことがないこともあって、彼の提案を受け入れることにした。宿は現地に着いてから決めることにして、本当に着の身着のまま新幹線に乗り込んだ。密かに憧れを持っていた『ぶらり一人旅』である。

 『今日も、新幹線をご利用くださいまして、有り難うございます。この電車は……』

 ゆっくりと動き出した新幹線内にアナウンスが流れる。思えば新幹線に乗るのはいつも出張時で、個人的な旅行で乗るのは久しぶり。目的地が知らない場所だけに柄にもなく少しワクワクしている。長らく旅行など行ったことがなかったが、たまにこんなのんびりしたのも良いものだ。しかし新幹線とは言え博多までは5時間ほどかかるわけだから、上手く時間を潰さなければ……まずはトイレかな。

 前方にあるトイレに行ってから自分の席に戻る際、自分よりも三つほど前の列に座っていた女性に目が留まった。黒い革ジャンにメタルバンドのアーティストTシャツ。下はジーンズで、大きめのキャスケットを被っている。上の棚にはギターケースが置いてあった。

 ──ミュージシャンかな?

 何気なくそんなことを思いながら見ていると彼女と目が合ってしまって、慌てて自分の席に戻る。その後は持ってきたタブレットとヘッドホンが大活躍。音楽を聴きながら読書したり、ダウンロードしておいた映画を観たり。何度も見ているはずの風景もグリーン車からだと新鮮に思えて、窓の外を流れていく景色も楽しめた。少し仮眠も取ろうかと考えていたが、思っていた以上に時間が速く過ぎて博多に到着する。車内はとても快適だったし、この旅はなかなかいい滑り出しをしたと感じる。

 そのまま在来線に乗り換えて目的地を目指しても良かったが、ちょうど昼だしまずは腹ごしらえ。駅構内を出て地下に潜り、博多に来た時は必ず行っているラーメン屋へ。博多と言えば豚骨ラーメン……と言うのはよそ者の発想かも知れないが、すっかり定着してしまった。いつもの様に注文して細麺をすする。と、食べている間に新幹線の車内で見た例のミュージシャン風の女性が店内に入ってきたが、今度は目の端で確認しただけであまりジロジロと見ない様にする。東京から乗っていたみたいだけど、博多でライブでもあるのだろうか?

 その後久しぶりの博多駅構内を少しブラブラして、13時前の電車に乗る。どうやら地下鉄空港線に乗れば、JR線に乗り入れている様だ。レンタカーを借りたいので目的地は唐津駅だが、1時間半ほどで到着予定。そこから車で玄海町を目指せば……現地で宿を探す余裕ぐらいはありそうだ。

2.ヒッチハイカー

 一度乗り換えがあって、そこからうつらうつらしている内に唐津駅に到着。乗り過ごしそうになって慌てて電車を降りる。駅を出てみると流石に都会ではないが地方都市と言った感じ。それでも自分の実家があった田舎に比べれば随分と整った町の様に思えた。そこからレンタカー店までは徒歩五分ほど。チラチラとスマートホンの地図を見ながら店を目指すが、デカデカとレンタカーの看板が立っていて容易に見付けることができた。

 一人旅なので一番小さなクラスの車を借りることにして、期間は四日間。こういう旅はどれぐらいが一般的なのか分からないが、恐らく一週間も二週間も同じ場所では過ごせないだろう。そう考えると四日と言うのはなかなかリーズナブルな期間だ。実は車の運転は久しぶりなのだが……幸いにして道は東京ほど混んでいないから、運転している内に慣れるだろう。カーナビ通りに車を進めると、一駅分走って西唐津の駅前へ。と、駅前の道路脇で、スケッチブックを掲げて立っている人の姿が目に入った。

 ──ヒッチハイク!? 今どき珍しい。

 陽の光の加減で、遠くからだと相手が良く見えなかったが、通り過ぎる際に横目でその人物を見てハッとする。それは新幹線に乗っていたあのミュージシャンっぽい格好の女性。持っていた紙には『玄海町』と書いてあった様に見えた。少し強めにブレーキを踏んでスピードを緩め、近くにあったレストランの駐車場に入る。僕が彼女を見て停まったことが分かったらしく、彼女も小走りでこちらに寄ってきた。運転席の窓を開けると、彼女が覗き込む。

「玄海町まで乗せてもらえる?」
「いいよ。僕も玄海町に行こうと思ってるんで」
「そうなんだ、ラッキー。じゃあ、よろしく!」

 助手席に乗り込んだ彼女は、僕の横顔をしげしげと見つめている。

「そういえば、どこかで会ったことない?」
「今日、新幹線で同じ車両に乗ってたんだ。それと、博多のラーメン屋でも君を見かけたよ」
「ああ、そういえば……」

 彼女からすれば僕は目立たない、どこにでもいる青年なのだろう。彼女は派手ではないが目立っていたので、僕の方はしっかり覚えていたけれど。

「あなたは旅行? 平日にこんな所にいるなんて珍しいね。サラリーマンじゃないの?」
「色々あって先日退職してね。同僚に勧められて玄海町に行ってみることにしたんだよ」
「そうなんだ。あ、じゃあドライブがてら、海沿いの道を走った方が楽しいね。次の信号、左に入らずにまっすぐ行こう」
「あ、はい」

 彼女の提案でカーナビの道案内を外れて海沿いの道を走ることに。少し窓を開けると潮の香りが一気に車内に広がった。彼女の話では一時間弱で玄海町に着くそうだ。カーナビ通りに山の中を走るより、断然こちらの道の方が海沿いの町に来た実感がある。ドライブを楽しみながら、自然と彼女との会話も増えていった。

「僕は辻 玄人。28歳だよ。さっきも言ったけど、訳あって会社を辞めて、次の就職先を探す前にちょっと旅行をね」
「私は松田 七海。見たまんまだけどミュージシャン……崩れってところかな。実家がこっちなんだ」

 『ミュージシャン崩れ』と言うところは引っ掛かったけど、それ以上は詳しく聞かなかった。彼女が自分のことをそう表現したことも、また実家に帰るのことにも何か理由があるのかも知れないが、旅の出会いで根掘り葉掘り聞くのも野暮と言うものだ。その後は玄海町の話やちょっとした世間話などで会話が繋がる。

「そういえば辻さん、宿はどこなの?」
「玄人でいいよ。辻さんって言われると、なんか会社を思い出しちゃうんだよね。君は……七海ちゃんって呼んでいいかな?」
「私も松田さんって言われるよりそっちの方がいいかな」
「ありがとう。ああ、それで宿なんだけど、まだ決めてないんだよね。ネットで調べたらエネルギーパークだっけ? あの辺りに結構民宿がありそうだったから、着いてから探そうかと思って。この時季なら空いてるって同僚も言ってたし」
「そうなんだ。じゃあさ、ウチにおいでよ」

 突然、彼女の家に誘われてビックリしたが、まさか車に乗せてあげたお礼!? いや、そうだとしても、いきなり初対面の女性の家に上がり込むなんて厚かまし過ぎる。

「いやいや、それは余りにも厚かましいからいいよ。車に乗せてあげたのは気まぐれだし、気にしなくていいからさ」
「アハハ、真面目だなあ。違うって、ウチの実家は民宿やってるんだよね。今は休館中だけど、一人ぐらいならなんとでもなるからさ」

 なるほど、そういうことか。休館中なのにお邪魔していいものかとも思ったが、折角の厚意だから甘えさせてもらうことにした。彼女を家まで送っていって、宿を探す手間も省けるなら一石二鳥だ。

 橋を渡ってエネルギーパークの横を走り抜ける。どうやら先ほどの橋を渡りきった所で玄海町に入った様だ。そこからまた十分ほど国道を走って、目的地である彼女の実家に到着。『民宿まつだ』、そこが彼女の実家の様だ。

3.民宿まつだ

「ただいまー」
「あら、おかえり……って、あんたどうやって帰ってきたの!?」
「ヒッチハイク」
「ヒッチハイクって……」

 彼女の母親であろう女性は、娘の後ろに立っていた僕を怪訝そうな目でジロジロと見ていた。

「僕は旅行に来ていたんですが、たまたま七海さんを駅でお見かけして、車に乗って頂きました」
「彼、宿がまだ決まってないんだって。ウチに泊まってもらってもいいでしょ?」
「構わないけど、お父さんがいないから料理も何も出せないわよ」

 どうやら彼女の父親は入院中らしい。西唐津駅の近くの病院に入院していて、僕が彼女を拾う前に面会に行っていたそうだ。

「えー、私の夕飯は?」
「あんたの分は私が作るけど、今から買い物に行くから」
「折角だから、彼にも海の幸を食べてもらいたいと思ったんだけどなあ。玄人も海鮮、食べたいでしょう?」
「ええ、まあ……」
 
 海鮮云々よりも彼女が『玄人』と呼んだ途端、彼女の母親がハッとしてこちらを見たことに少し焦る。いや、お母さんが思っている様な親しい間柄でも何でもないですから!

「あ、あの、代金はお支払いしますので、食材だけ買ってきて頂くことはできますか? 僕、少しは料理ができますので、お近づきの印に夕飯は僕が担当させてもらいます」
「料理できるの!?」

 僕の実家は母がずっと小料理屋をしていた。父は僕が小学校の頃に亡くなったので、それ以来母親がずっと働いて大学まで行かせてくれたのだ。そんな母の役に立ちたくて子供の頃から店の手伝いをしていて大学生になっても休みの間は続けていたので、いつの間にか一通りの料理はできる様になっていた。そんな母も三年前に他界してしまったのでそれ以来魚を捌いたりしてなかったし、前の会社に勤めているときは殆ど自炊もしていなかったので少々不安はあるが、まあ大丈夫だろう。

 彼女の母親にお金を渡そうとするが、『娘が車に乗せてもらったから』と言って受け取ってくれず、そのまま買い物に行ってしまった。その間彼女に案内してもらって民宿の部屋へ。折角だからと用意してくれたのは二階の角部屋で、窓からは海が見渡せる贅沢なロケーションだ。料理は厨房を使わせてもらえるとのこと。実家の小料理屋に比べると随分広くて落ち着かないが、使いやすそうではある。

 そうこうしている内に彼女の母親が帰ってきて、厨房まで食材を持ってきてくれた。春先のこの時季、目の前に並べられたのは真鯛にブリ、そしてイカにエビ。牛肉とイチゴもあって、どれもこの地域の名産らしい。魚やイカを捌くのは久しぶりだが、新鮮な食材を前に気分が高揚してくる。次の就職先はどこかの料理屋でもいいかもな、なんちゃって。

「魚、捌ける?」
「もちろん。七海ちゃん、お料理は?」
「私は全然。これから勉強するつもりだけど、今日は玄人に譲るよ」
「まったくあんたは……私も手伝うから、ゆっくりやりましょう」

 彼女の母親にも手伝ってもらって、久しぶりの料理。僕が刺し身を用意している間に、彼女の母親がエビフライやかき揚げを作ってくれて、どんどん皿が増えていく。そして一時間もしない内に豪勢な料理が出来上がった。刺し身に揚げ物、それにサイコロステーキまであり、デザートはイチゴ。普通に店で食べたら、何千円と取られるんじゃないかな。久々の料理だったけど、刺し身もあらを使った味噌汁も、そして鯛飯も上出来だ。

「美味しい!」
「あら、ほんとね。これだけ料理できるなら、板前でも十分やっていけるわね!」
「アハハ、有り難うございます……ホント、美味しいですね!」

 久々に食べた新鮮な魚介類。鯛もブリも脂が乗っていて、イカやエビは弾力があるのにプリっと噛み切れ、味が口の中に広がる。自分で作っておいてなんだが、出汁が効いた鯛飯も味噌汁も絶品だ。七海ちゃんも彼女の母親も味には満足してくれている様子で、自然と会話も弾んだ。入院していて久しく飲んでいなかったけど、地酒を少し頂いたのもあるかも知れない。彼女の父親はこの民宿でずっと板前をやっていたが、持病のヘルニアが悪化してしまって先日手術したそうだ。二日後に退院とのことだから、帰る前に会えるかな?

「玄人は観光するの?」
「そうだね。車もレンタルしてることだし、折角だから回ってみようかと思ってるよ。どこかオススメのスポットとかある?」
「じゃあ、私が案内してあげる! 町内なら任せといてよ」
 
 ちょっとテンションの上がっている彼女を見て、彼女の母親はどことなく嬉しそうにしていた。今回の彼女の帰省は久々だった様だが、娘が元気そうにしているのが母親としては喜ばしいなのかも知れない。それとも僕みたいな冴えないサラリーマンが、彼女の彼氏ではないと分かって安心したのかな?

 デザートに頂いたイチゴの『さがほのか』もこの地域の名産だそうで、甘みが強くてジューシー。今まで食べたイチゴの中でダントツに美味しかった。宿も決めずにブラっと訪れた玄海町だったけれど、魚介類に牛肉、それにフルーツまで名産品を堪能できたのは七海ちゃんに出会えたお陰だな。案内もしてもらえることになったし、なかなかいい旅になりそうだ。

4.玄海町観光

 その日の夜はぐっすり眠れて、朝9時にスマートホンのアラームが鳴るまで一度も起きなかった。のそのそと起き出して部屋の障子を開けてみると、窓の外は爽やかな光に満ち溢れている……東京の自分の部屋ではまず見られない光景だな。大体、窓を開けた隣りのマンションの壁だし。

 着替えを済ませて一階に降りると七海ちゃんがいて、どうやら僕を呼びに来ようとしていたらしい。今日の彼女は髪を下ろしていてスカート姿。昨日のロックな感じと全然雰囲気が違う。

「あ、起きた? 朝ご飯できてるよ」
「ありがとう。おかげでぐっすり眠れたよ。こんなに爽やかな朝は久しぶりだな」
「普段、どんな生活してるの? さあこっち、こっち」

 彼女に誘われて食堂へ。美咲さん(彼女の母親)が朝食の準備をしてくれていて、いい香りが漂ってくる。ご飯にお味噌汁、それに焼鮭に目玉焼き、冷奴まで……正に旅館の朝食と言ったラインナップだ。

「おはようございます。すみません、朝食まで用意して頂いて」
「昨日は玄人くんに料理してもらっちゃったからね。これぐらいはサービスしとかないと。七海も食べちゃいなさい」
「はーい」

 一人旅を決め込んでいたので、こうやって誰かと一緒に朝食を食べられるのは嬉しい。対面に座った彼女はニコニコしていて、それだけでその場が温かくキラキラして思えた。窓の外の景色といい、朝から贅沢続きだ。

「なーに、七海。あんた妙に浮かれちゃって。玄人くんと一緒なのがそんなに嬉しいの?」
「そ、そんなんじゃないから! 自分の町を案内できるのが楽しいだけ!」
「はいはい、ムキにならなくてもいいわよ。しっかり案内してあげなさい」
「もう!」
「ハハハ……、よろしくね、七海ちゃん」

 食後にコーヒーを頂いて、少しゆっくりしてから観光に出かけることに。民宿を出たのは10時を過ぎた頃で、僕の借りた車に七海ちゃんと二人で乗り込み彼女のナビで観光スタートだ。まずは国道を南下する。

「あ、ここが私の母校、青翔高校」
「ここ、昔はコンビニなんてなかったのに! 高校の時に欲しかったなあ」

 などなど、地元情報も交えて彼女とお喋りしながら道を進む。暫く南下した後、脇道に。最初は対面二車線の道だったが進むにつれて細くなり、山や畑の中を走っている感じになった。途中、県道47号線と書いてあったが、それでも細い一車線の道。

「これ、合ってるの?」
「大丈夫、大丈夫。田舎の道なんてこんなものよ」

 そう言う彼女を信じるしかないが、途中いくつか大きな溜池の横を通りやがて公園らしき場所に到着する。

「ここで一旦降りまーす」

 彼女の指示で車を停め公園内へ。ここは轟木公園と言うらしく、沢山の桜の木が植わっていた。平日だけあって人はまばらだが鳥の声がかすかに聞こえて、空気もとても清々しい。

「ちょっと歩こっか」
「そうだね」

 二人並んで公園内から続く遊歩道を歩く。森の中を歩いていると小さな滝があって、水の流れる音が心地よい。マイナスイオンが辺りに満ちている……気がする。

「海沿いの町に来たつもりだったけど、山の中にもいい場所があるんだね」
「そうよ、玄海町は海と山、どっちも楽しめる場所なんだから!」

 暫く自然を満喫してから車に戻る。彼女の話ではこの先に大きなダムがあり、そこの周りを走っていくことにした。

「おーっ! キレイなダムだね!」
「藤ノ平ダムは結構新しいからね」

 さっきの滝もそうだけど、ダムを見るとちょっとテンションが上がる。ダムの周りの道もキレイに舗装されていてずっとダムを見ながら運転できるのが気持ちいいし、道沿いに植わっている桜もいいアクセントになっていた。ダムをグルっと一周してから再び県道に戻り、今度は北上。役場の横を通り過ぎてそのまま北上していくと、別の県道に交差していた。

「ここ、右に行くと西唐津駅に行けるよ。直ぐに隣町なんだ」
「ああ、じゃあ昨日のあの道、海岸沿いの道に行かなかったらここに通じてるんだ」
「そうそう。今村枝去木線(いまむらえざるぎせん)って言うんだよ。あ! ここを道沿いに西に行ってね」
「オーケー」

 暫く走ると見覚えのある道と交わる。確か昨日も走った国道だ。彼女の指示通りそこを右折して更に北へ。エネルギーパークの手前まで来て、目の前にある食堂の駐車場に入るように言われる。

「ここでお昼食べよう!」
「おー!」

 そこは『バス停食堂』。中華料理に焼き鳥、ラーメン……何でもありな感じかな? 注文は彼女に任せると、焼きビーフンや焼き鳥、餃子、それにタコ刺しにサラダとかなりのごちゃ混ぜだったが、どれも美味しかった。魚介類は当然名物だけどこの食堂も地元では有名らしく、確かに平日なのに結構人がいる。近くの原発やエネルギーパークの人たちが食べに来るそうだ。こういう場所でご飯を食べるのも、旅の楽しみの一つなのかも知れないな。

5.浜野浦の棚田

 食後はエネルギーパークへ移動。ここにも桜並木があり、腹ごなしがてらブラブラしながら園内を見て回る。原発の紹介施設だけかと思っていたけど、植物園の様な温室や伝統工芸品を紹介するふるさと館などもあり、広い園内は思っていた以上に見応えがあった。気が付くとニ時間ほど見て回っていた様で、時計は15時前。

「予想以上に見るものが多かった!」
「私たちは社会見学とか事あるごとに来てたから、見飽きちゃったけどね。でも、桜並木と温室は好きかなあ。満足してくれたなら、連れてきた甲斐があったわね」
「そうだね、有り難う」

 車に戻りエネルギーパークを後にする。そのまま民宿に戻るのかと思いきや、途中で脇道に入る様に指示されて、言われるがままに道を走ると牛舎が見えてきた。

「ここは……牧場?」
「アイスクリームを買って帰ろうと思って。お母さんも大好きだからさ」
 
 松本アイス工房は松本牧場が運営していて、新鮮なミルクから作るジェラートが有名なんだそうだ。彼女は手慣れた感じで九個セットと、ばらで二つを購入。二つは車の中で食べる用らしい。そこからまた国道に戻って暫く走り、駐車場に車を停めてアイスを食べることに。

「最初はやっぱりミルク味ね。はい、これ。私は黒ごまきなこ」

 渡されたアイスの容器を開けると、フワッとミルクの香り。すくって口に運ぶとサラッとした舌触りなのに濃厚で、ミルクの味がしっかりと感じられた。

「へえ、すごいミルク感だね!」
「美味しいでしょ? 通販もやってるから東京からでも買えるよ。私は時々注文してたんだ」

 確かに、このミルクの味を知ってしまうと他の味も食べたくなるし、コンビニのアイスではちょっと味わえない濃厚さだ。リピートしたくなるのも頷ける。松本アイス工房……東京に帰ったら早速お取り寄せしなければ。

 アイスを食べ終えると車を降り、最後の観光地に行くとのこと。ここは『浜野浦の棚田』が見渡せる展望台の駐車場だったようだ。玄海町をネットで検索したとき、最初に出てきたのがここの棚田だった。

「おお! 写真で見るより、ずっと迫力があるね」
「でしょ? 田植えの時季は水が張られてて、もっとキレイなんだけどね。でも、ちょうど夕日も見られていい時間だったかな」

 少しオレンジ色に染まった空と海が棚田の輪郭をよりくっきりと見せて、それはもう絶景だった。暫く無言のままでその景色を眺めていたが、ふと傍にあったモニュメントが目に付く。

「これは?」
「ああ、ここは一応『恋人の聖地』ってことになってるの。プロポーズするのに最適な場所ってことらしいよ」
「恋人の聖地か。じゃあ、今度は恋人と来ないとな」
「……恋人はいるの?」
「まずは、恋人を見付けないとダメだけど」

 そう言うと彼女は呆れた様に笑っていた。そもそも恋人がいたら一人で旅行なんて来ないし、就職してからは忙しすぎて恋人を作っている余裕など全くなかった。今から考えると、本当に仕事だけしかしていなかった気がする。美しい景色を見て感動したり恋人の話をして笑ったりできるのも、心に余裕があってこそだ。

 今日一日観光してみて、如何に余裕のない生活をしていたのか改めて理解したし、豊かな自然に触れて心身を休めることの重要性もよく分かった。もちろん、一緒に回ってくれる人がいることも心には重要な栄養だったと思う。

 大満足の観光を終えて、民宿に戻ってからまた夕飯の支度を担当することに。昨晩ほど凝ったものではないが刺し身や唐揚げなどを用意して、三人での食事を楽しんだ。そういえば家族で食べる夕食はこんな感じだったな。昨日はまだ『客』と言う意識が強かったが、今日一日彼女と行動を共にして食事をしながら美咲さんに色々報告していると、本当の家族の様に錯覚してしまう。

 夕飯を楽しんだ後は美咲さんに勧められて、七海ちゃんと一緒に温泉へ。民宿の前には陸続きながら『三島』と言う島があって、そこに温泉施設があるらしい。本当に目の前なので、歩いてニ分もかからない場所だった。

「家族風呂もあるよ。一緒に入る?」
「いや、流石にそれは……」
「フフフ、冗談だよ。じゃあ、あとで」

 本当に冗談だったのか、笑いながら彼女は女湯の方に行ってしまった。真面目に答えてしまった自分がちょっと恥ずかしいと思いつつ、男湯へ。少し遅い時間だからかほぼ貸し切り状態で、大浴場にゆったり浸かると今日一日の疲れどころかここ最近の疲れも全部流れていく様な気がした。着の身着のまま何も決めずにここに来たが、本当に贅沢な旅行になったとしみじみ感じる。

6.退院祝い

 翌朝は起きると10時前で、どうやらスマートホンのアラームは無意識に止めてしまっていた様だ。着替えて一階に降りていくと、美咲さんの姿はあったが七海ちゃんはいなかった。

「おはようございます」
「おはよう。よく眠れた?」
「はい、すっかり寝坊してしまって……七海ちゃんは?」
「今日は友達に会いに行くって、朝から出かけたわよ。博多に行くんだって」
「元気だなあ」
「玄人くんは今日はゆっくりするんでしょう? とりあえず朝ご飯ね」

 美咲さんに朝食を準備してもらって、今日は一人で朝食。食べている間、美咲さんが七海ちゃんのことを色々と教えてくれる。

「七海は昔から歌が好きでね。東京で歌手になるんだって頑張ってたのよ」
「そうなんですね。ギターを持ってたからバンドでもやってるのかとは思ってましたが」
「大学時代からの仲間とバンドをやってたんだけど、デビュー目前でメンバーが抜けちゃってね。そんな時主人が腰の手術をして、もうそろそろ宿もたたもうかって話をしてたら『私が継ぐ』って言い出して……それであの子、こっちに戻ってきたのよ」

 そんなことがあったのか。彼女の身の上はあまり詳しく聞かなかったから、単なる里帰りかと思っていたけど……自分と似たような境遇だったと言うわけだ。しかし宿を継ぐと言っても彼女は料理が全然できないと言っていたし、誰か新しい板前を探す必要がありそうだ。

「玄人くん、就職先は?」
「まだ全然探してないです。東京に戻ったらぼちぼち就職活動も開始しないと」
「大変ね。七海はあなたの身の上に共感してたのかも。人見知りのあの子が、初めて会った人にこんなに懐いてるのって珍しいから」
「僕は無害そうに見えたんですかね」

 前の会社でも『いい人そう』ってことで良く無茶な仕事を頼まれていたから、人からはそういう風に見られがちなのは分かっていた。懐かれるのとは少し違う気もするが、やはり何かしらのシンパシーがあったのだろうか。

「こっちにはいつまで?」
「明日、東京に戻ろうと思ってます。レンタカーも四日しか借りてないですし、あまりお邪魔しても申し訳ないので」
「フフフ、玄人くんならずっといてくれてもいいんだけど。そうだ! 今日、主人が退院なんだけど、もう一度お料理お願いできないかしら? あなたの作った料理を是非主人にも食べてもらいたいの」
「お安いご用です。それじゃあ、今日は食材も僕が買いに行きますよ。お店を教えてもらえますか?」
「じゃあ、お願いしちゃおうかしら」

 本物の板前であるご主人に料理を振る舞うなんておこがましい気もしたが、退院祝いとしてできる限りのことをしようと思う。それが泊めてもらった恩返しでもあるのだから。

 昼からは教えてもらった店を回って食材を揃える。真鯛にイカ、金目鯛やカツオ、それに蛤……どれも旬の新鮮な食材だ。筍も手に入ったので、これは筍ご飯かな。新鮮な旬の食材を見ているとワクワクしてついつい沢山買いそうになる。あとは肉と野菜、これだけ揃えば十分だ。

 夕方に美咲さんがご主人を迎えに行き、入れ違いで七海ちゃんが帰ってきた。

「あー、またお料理してる!」
「今日は七海ちゃんのお父さんが退院する日でしょ? 美咲さんからリクエストされたんだよ」
「ごめんね、働かせちゃって。何か手伝うことある?」
「えーっと、じゃあ、食器を出してもらおうかな」

 料理と言っても刺し身は切って並べるだけだし、金目の煮付けをしている間に他のものを処理。こうやって並列で料理できるのは、母の小料理屋でずっと手伝いをしていたお陰だ。

「玄人は器用だね。料理人になればいいのに」
「僕の料理なんて素人の延長みたいなもんだからさ。それを七海ちゃんたちに食べてもらって申し訳ないけど」
「そんなことないよ。どれも美味しいもん……あ、お父さんたち帰ってきた!」

 建物の外で車がバックする音。やがて声が厨房に近づいてくる。

「おー、君が辻くんか! ほう、なかなかしっかり料理してるじゃないか。立派、立派!」
「初めまして。厨房、使わせて頂いてます」
「構わん、構わん。退院祝いに料理してくれてるんだろう? 嬉しいじゃないか!」

 ガハハと笑って出ていったご主人。入れ替わりに美咲さんが入ってきて、配膳を手伝ってくれた。今回はちょっと気合を入れたので、自分基準ながら初日よりも更に豪勢な料理がテーブルに並ぶ。七海ちゃんが一番キラキラした目で料理に見入っていて、本当に地元の海鮮が好きな様だ。

7.歌声

 料理はどれも好評で、久々に作ったものもあったけど上手くできていた様子。ご主人にも好評で、これなら玄海町で板前としてでもやっていけると太鼓判を頂いた。料理の腕はそこまで落ちてなかった様で一安心だ。四人でワイワイと楽しい時間。入院中の病院のご飯はあまり美味しくなかったとご主人が言っていたが、それには激しく同意だ。僕も退院後に食べた牛丼が、泣けるぐらいに美味しかったのを覚えている。

「それで、辻くんと七海はいつ結婚するんだ?」
「えっ!?」

 七海ちゃんと僕、同時に食べていたものを吹き出しそうになる。どこでそういう話になったんですか!? 美咲さんだけクスクス笑っていたので、きっと彼女が何か吹き込んだに違いない。

「わ、私たちはそんな関係じゃないから! 玄人とは数日前にたまたま会って、ここに泊まってもらっただけ!」
「僕は今無職ですし、それにもう明日には東京に戻りますので」
「そうなのか? 七海もここを継ぐつもりなら、相方としてもいいと思ったんだがな」
「玄人くんもウチに就職しちゃえば? 東京ほど給料は良くないけどね」
「もう、お母さんまで!!」

 照れて真っ赤になっている七海ちゃんと、それをからかう様に笑っているご両親。本当に仲のいい親子で、とても温かい雰囲気に包まれる。そんな中によそ者の自分が加わっていることに若干の違和感があったが、それでもこの瞬間に輪の中に加われている喜びも感じる。こんなに和んだ家族の空気は、もう何年も味わっていないものだった。

 夕食後、楽しかったあの時間を思い出しながら部屋の窓辺でスマートホンをいじっていると、七海ちゃんが出ていく姿が見える。こんな夜更けにどこへ? そう思いながら目で追っていると、どうやら向かいの温泉のある島に渡る様で、手にはギターケースらしきものを持っていた。彼女のプライベートのことだから……そう思いつつも気になって、後を追うことにした。

 外は当然暗くて、所々に灯っている街灯と月明かりが頼り。まだ少し寒い中肩をすくめながら彼女を追うが、島のどこに行ったのかは分からない。と、風に乗ってギターの音と歌声が聞こえてきた。そちらに歩いていくと、小高い丘の様なところで手すりに腰掛けて歌っている彼女の姿。邪魔しては悪いかと思って、少し離れた場所から曲を聴く。アップテンポの曲をアコースティックにアレンジした感じで、喋り声とはまた違った彼女の澄んだ声に良く合った曲だ。流石、メジャーデビュー直前まで行っただけのことはある。

「パチパチパチ……」
「やだ、聴いてたの!?」

 曲が終わったのを見計らって自然と拍手しながら彼女の方に近寄ると、少し恥ずかしそうにしている七海ちゃん。

「いい曲だね……美咲さんに聞いたよ。デビュー直前だったって」
「デビュー曲はさっきの……『スタート』って曲の予定だったんだよね。今日、博多で友達のライブに行ったら私も歌いたくなっちゃって。ここから始まる、これから始まるって想いで書いたんだけど……結局始まらなかったなあ」
「……」

 歌が上手いのだから、諦めなければ……と言いそうになって言葉を飲み込む。彼女も色々考えてこちらに帰ってきたのだろうから、部外者が下手な同情をするのは筋違いだろう。

「慰めてくれないんだ」
「いや、こっちに帰ってきたのも理由があるんだろうし、『こっちで歌えばいいのに』とか言うのも失礼じゃない?」
「ハハハ、それもそうだね。ごめんね、気を使わせちゃって……お互い、色々と上手く行かないね」
「そうだな……でも、僕はここに来て良かったと思ってるよ。食べ物も美味しいし、七海ちゃんや美咲さんに良くしてもらったし。帰ったら職探しだけど……まあ、なんとかなるような気がしてきた」
「そう? じゃあ、私も頑張ろうかな―」

 大きく伸びをしながら笑ってみせた七海ちゃん。少し寂しそうでもあるが、明るくて強い女性だから彼女ならきっと大丈夫だろう。僕も負けられないな。

8.Re:Start!

 翌朝は少し早めに起きて、東京に戻る準備。11時過ぎの新幹線だが、レンタカーの返却などを考えると9時にはここを出る必要がある。早い時間だったにもかかわらず松田家の全員が一緒に朝食の席に着いてくれて、最後まで賑やかな食事を楽しむことができた。そして、いよいよ別れの時。

「お世話になりました。お陰でとてもリフレッシュできた気がします」
「こちらこそ、料理してもらって悪かったわね。また来てちょうだい。今度はちゃんと主人が料理するから」
「はい。有り難うございます、美咲さん。ご主人も腰、大事になさってくださいね」
「おうよ! 七海がいい婿さん見つけて継いでくれるまで、倒れるわけには行かねえな! 今度はオレが料理の腕を見せるから、また来てくれよ」
「はい、必ず!」
「……」

 七海ちゃんは最後まで何も言わなかったが、車に乗り込む直前に駆け寄ってきて右手を差し出した。

「色々有り難う。私も頑張るから、玄人も就職活動、頑張ってよね」
「こちらこそ、観光楽しかったよ。七海ちゃんも頑張って。また、君の歌を聴きに来るよ」
「……バカ」

 ちょっと照れながらそう言った彼女。最初に新幹線で会った時は近寄り難い感じだったが、今は随分と柔らかい、可愛い表情を見せてくれている。この出会いが東京だったなら……いや、別れのこの時にそんなことを考えるのは止めようか。後ろ髪を引かれる思いをしながら車を発進させる。バックミラーで松田家の皆さんが見送ってくれているのを確認しながら、国道204号線を北に向けて走り出した。

 玄海町を勧めてくれた同僚に博多駅でお土産を購入し、自分用にもお菓子や明太子、それに新幹線の中で食べる弁当などを買い込む。新幹線に乗り込んだ時はまだ心が玄海町に残っていて寂しさも味わったが、少しずつ東京生活の厳しい現実も思い出されて複雑な気分だ。

 ふとスマートホンの写真フォルダーを見返して、再び玄海町のことを思い出す。観光している間や夕食の時にふざけて撮った写真も入っていて、写真の中ではイキイキとした笑顔の七海ちゃんが。彼女はこれから板前をしてくれる誰か素敵な男性と結婚して、あの民宿の女将としてやっていくのだろうか。

 そんなことを考えながらぼーっと写真を見ていると、メッセージが入る……美咲さんからだ。ご主人が退院したあの日、食材の買い物を引き受けた際に『何かあったら連絡して』と、アドレスを交換したのだった。あちらを出る前に七海ちゃんともアドレスを交換したが、まさか美咲さんから先にメッセージが来るとは。

『まだ新幹線の中かしら? 就職先が決まったら連絡ちょうだいね。もちろん、ウチに就職してくれてもいいわよ。七海が寂しそうだし』

 と、文面では本気なのか冗談なのか分からない内容。写真で彼女の笑顔を見直して、彼女が『寂しい』と思ってくれるなら……そんな考えが心の中に芽生えた。ただ今はまだ玄海町を名残惜しいと思う気持ちが強すぎて、冷静な決断はできそうにない。

 ──東京に戻ってから、ゆっくり考えよう。

 結論は先延ばしにして、

『有り難うございます。考えてみますね』

 とだけ美咲さんに返事し、ゆっくりと目を閉じた。東京まではまだまだ時間がかかる。弁当も食べたし、少し眠ることにしよう。

 三ヶ月後、駅前でスケッチブックを持って立っていた僕の前を一台の車が通り過ぎ、近くのレストランの駐車場で停まった。僕が駆け寄ると相手も車から降りてきてこちらに走ってくる。そして勢いよく僕に抱きついた。彼女がやっていたヒッチハイクの真似を思いつきでやってみたけど、他の車が止まったらどうしようかとちょっとドキドキした。

「おかえり!」
「ちょっ……七海ちゃん!?」
「『ちゃん』はやめてよね」
「あー、まだ慣れなくて。じゃあ、七海……ただいま」
「おかえり、玄人!」

 玄海町の観光から東京に戻って、転職活動をしようかとも考えた。でも、松田家の人々……七海のことが忘れられず、その思いは日に日に強くなるばかり。電話やメッセージで頻繁に連絡を取っていたのもあるかも知れない。それに加えて美咲さんが料理人向きだの、その腕で会社に就職するのは勿体ないだの……半分勧誘じみたメッセージをくれるものだから、ついその気になってしまった。でも、後悔はしていない。自分の腕が活かせるのなら、こういう道もアリだろうと今は思える。

「さあ、乗って、乗って。ちょっと寄りたい所があるから」
「あ、うん。じゃあ、運転よろしく」

 前回も通った、ちょっと遠回りの海沿いの道。ドライブを楽しみながら玄海町に向かうと、彼女が車を停めたのは『浜野浦の棚田』の駐車場。車を降りて彼女に手を引かれながら展望台まで行き、『恋人の聖地』のモニュメントの横に立たされた。棚田には水が張られていて、夏の眩しい日差しを反射する。前回は見られなかった景色だ。

「これ、持って」
「はい」

 モニュメントの鐘から伸びた紐の片方を持つように言われる。彼女は近くにいた人に声を掛け、自分のスマートホンを渡して写真を撮ってもらえる様にお願いしていた。その後走ってモニュメントの横に戻り、彼女ももう片方の紐を掴む。

「じゃあ、撮りますよー。はい、チーズ! ……カシャッ!」
「ありがとうございます!」

 撮ってくれた親切な人からスマートホンを受け取ると写真を眺め、とても満足そうに笑っている。そして僕にも写真を見せてくれた。

「良く撮れてる」
「あ、ああ。なんかちょっと恥ずかしいけど……」
「この前来た時、今度は恋人と来るって言ってたでしょ? こんなに早く願いが叶って、良かったね」
「ハハハ、そうだね」

 恋人……正確にはもう婚約者かな。東京にいる三ヶ月の間に彼女と結婚を前提にお付き合いすることになって、暫くは民宿で板前見習いとして働くことになっている。僕の腕前ならすぐにでも民宿を任せられると美咲さんには言われたが流石にそれは無茶なので、まずは従業員扱いで働かせてもらうことにした。

「なに? 不満でもあるわけ?」
「いーや、トントン拍子に事が運びすぎて、ちょっとビビってるだけ。でももう覚悟はできてる。これからよろしくね、七海」
「うん! こちらこそ!」

 一度旅行で訪れただけのこの地で、しかも前職とは全く違う業種で働こうなんて自分でも思い切ったことをしたものだと呆れている。でも彼女の笑顔には、それだけの決断をする価値があると思った。それに玄海町のこの雰囲気は、自分に合っている気がする。前の会社を退職したときはどうにもやりきれない気持ちだったが、今から考えればここに至るための運命だったのでは? とさえ思えた。

 ──ここからが僕のスタートだ。

 田植えが始まった棚田とその奥に広がる海に陽の光がキラキラ光る。僕たちの前途もきっと輝かしいものだと信じて、七海の手を握った。さあ、二人の新しい生活の第一歩をを、ここから始めよう!

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