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いくつになってもこの土手を歩きたい。(182日目)

多分、蝉だった。なんだか眠くて作業が捗らないので、まだ17時過ぎだが、いつものコメダ珈琲を後にして公園の中を歩こうと思った。

自動ドアが開いた瞬間、冷房で冷え切った体が、外の生ぬるい空気に包まれて喜んだ。イヤホンをはずして街を歩くと、街はあらゆる音に満ちていることに気づく。その音の中で、蝉が鳴く声は1番深いところで申し訳なさそうに流れていた。その声に気づいたのは、もう公園を抜けて、土手にたどり着く一歩手前に差し掛かったところだった。

朝から天気が不安定で、家を出る時には握っていはずのたビニール傘をどこかに置いてきた気がする。天気に振り回されてモノをなくす人間の1人になった。7月の幕開けと同時に響き出した蝉の声が、梅雨に別れを告げているようで、なんだか切なくなる。

つい先日、22歳になった。それでも変わらず、またこの土手を歩いている。不意に、いくつになってもこの土手を歩いていたいと思った。やはり土手は気持ちがよい。

サイクリングやランニングに興じる人は、どこからか現れて、すぐにどこかに行ってしまうし、空に響く轟音に視線をやる人は、糸電話で飛行機と繋がれたように天を仰いで首を動かしている。犬を散歩するはずが、犬に散歩されているおじさんもいれば、特に何も考えずにぷらぷら歩いている僕みたいな人もいる。

土手の上では、訪れる人がみな、それぞれの肩書きを一時的に捨て、他でもなくこの大地の上に生きる人間として振る舞っている。

土手という場所の心地よさは、こういうところから来るのだと思う。日々の忙しない暮らしの中で無くしてしまった落とし物のような感覚が、土手の上にはゴロゴロと転がって落ちている。そんな落とし物を拾いにくるように、またこの土手を歩きにくるのだと思う。

あのビニール傘、本当にどこに置いてきてしまったんだろう。土手の上かな。

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