見出し画像

s.u.n.d.a.y.s. #5




「いらっしゃい。」
お店を始めたころ、たかひろくんはそのひとことが言えなかった。
正確に言うと、どんなふうに言えばいいのかわからなかった。
どのくらいの大きさで、どんな高さで、どんな音で声を出せばいいか、わからなかった。

お店のドアが開き、今日最初のお客さんがきた。
「いらっしゃい。」
たかひろくんの笑顔を見たお客さんたちは、みんな少しハッとして、少し照れて、少しこころが柔らかくなる。
ぽつぽつとお客さんが一人、また一人とやってきて、いつのまにかお店はいっぱいになる。

たかひろくんには、喋らなかった時期がある。
喋らなかったというか、喋れなかったのだ。
高校生のとき、夏休みの始まりの朝、目覚めて母親に「おはよう。」と言った自分の中から出てくる声のトーンが、その広がりが、振動が、音が、自分の真ん中とズレていることにたかひろくんは気が付いた。
最初は何が起きたのかわからなかった。
それは普通は気付かないような、本当に微細なズレだったから。
でも体の感覚は、そのズレを見過ごそうとはしなかった。
その違和感の手触りの気持ち悪さに、たかひろくんは驚いて、黙った。
それはまるで、ぐっしょりと濡れて砂まみれになった洋服を着ているような、重たくてザラリとした感触だった。
普通の人だったらその違和感を、気にも留めないか、そもそも感じなかったかもしれない。
でも、たかひろくんは違った。
その違和感を決して受け入れることをしなかったし、「それ」をもっとじっくりとよく視なければいけないと思った。
今「それ」を無いものにしてしまったら、なんだかわからないけどきっと取り返しのつかないことになるに違いない。いや、取り返しがつかないどころか、いつか自分がその重たい湿った砂まみれの気持ち悪い服を着ていることすら忘れてしまうかもしれない。そして人の着ている服を羨んだり、逆に蔑んだり、不平不満ばかり言うようになってしまうかもしれない。
そう思うと背筋がゾッとした。
その日から、頭に届く前のこころをひとつひとつ丁寧に眺めて感じていくことを、たかひろくんは始めた。
最初はどうしたらいいのかよくわからなかったが、とにかく食べ物を丁寧に良く噛み、味わって食べた。感情をそのまま眺め、またなぜそう感じるのかを探り、自分に関するあらゆるものごとを考えるのではなく感じることに集中した。
次に声を出す時は、声の音がなんの混ぜものも無い、全くの自分の声であるときだろう。そう思った。
そんな日々が夏休み中、続いた。
そしてその時は、突然おとずれた。
新学期、学校に向かう道で、自転車に乗ったスーツ姿の男性が曲がり角で男の子にぶつかりそうになったときだった。
たかひろくんはとっさに叫んだ。
「あぶない!」
久しぶりに出した声とその大きさに、耳と頭がしびれるようだった。
その声の音は男性と男の子の頭の中にまっすぐに届いた。
驚いた男性は咄嗟に急ブレーキを踏み、立ち止まった男の子はびっくりして泣き出した。
男性はたかひろくんを不思議そうに眺めてからその場を走り去った。
たかひろくんは泣いている男の子の前にしゃがみ込み、驚かせてごめんね、と謝った。
その日から、たかひろくんは再び声を出すことが出来るようになったのだけれど、その声を聞く人は最初、なにか不思議な感じがして戸惑った。
気味の悪いものを見るような目をする人もいた。泣き出す人もいた。とくに学校の先生にはとても嫌われた。
最初はどうしてなのか全く分からなかった。特に反抗するわけでもない自分を、なぜ嫌うのか。
けれどもある時、自分を怒鳴りつける先生の目の奥をじっと見つめていると、そこに怯えの色が混ざっていることにたかひろくんは気が付いた。
たかひろくんが取り戻した声には、余計なノイズが全く無かった。
混じり気が無いものは鏡のようにあるがままを写し出す。
人は本当の自分自身を見ることを無意識に恐れ、避けようとする。
たかひろくんは、先生に怒鳴られながら、何も言わず、何もしなかった。
本当に、何もしなかった。
ただ、そのままじっとそこにいた。
たったひとり、誰もいない空間でひたすら自分の音に耳を澄ませ、ひとつひとつ、違わない石を内側に積み重ねていくような日々は、ものすごく地味で地道な作業だった。
でも、誰に怒られても、嫌われても、恐れられても、みんないなくなってしまっても、そうすることしか出来なかった。
なぜならたかひろくんは生きていることが好きだったし、生きていることが好きでいたかったからだ。

「いらっしゃい」
その声は決して大きくはないけれど、扉を開けたお客さんにまっすぐに届き、誰もが、純粋に、ここに来て良かったんだ、という気持ちになる。
今日もお店にはカレーを食べに、たかひろくんに会いに、お客さんがあちこちからやって来る。




より良い表現ができるように励みます。ありがとうございます🌷