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「君たちはどう生きるか」をみる

注)以下、映画「君たちはどう生きるか」について書いていますので、目にしたくない方はこのままそっ閉じでどうぞよろしくお願いいたします。






やっと「君たちはどう生きるか」を観に行った。
とにかく人の感想も何もかも事前に目にしたくなかったので(それこそ面白かった!とか何もかも、そういうこと全て)キーワードをミュートしたり色々していたのだけど、それでも斜め上から突然投げ込まれる投稿により木村拓哉が声優として出ている事、マヒトという人物がいる事、米津玄師が主題歌だという事、最近見ていたドラマで良い演技するなあと思った若い男の子が声優で出ていること、は、知ってしまったが、それぐらいでなんとか映画館に行くことができた。
映画の始まりを前に私はものすごく緊張していた。7年、本当に完成出来るのか、内心ドキドキしながら待ち、駿どうしてるのかな、今元気かなと友達のように夕暮れを見ながら思いを馳せたりしていた。
宮崎駿監督は私にとって本当に本当に特別な人で、どう特別かというとうまく言えないけど、一番近い感覚は「同じ水の仲間」という感じ。だからずっと昔、若い頃から私は宮崎駿監督のことを最上級の愛と親しみと尊敬を込めて駿呼びしているのでここでもそのまま書かせていただくと、私は駿のどの映画をみてもいつもなんだか分からない涙が溢れて仕方なく、それは感情ではないもっと奥深い記憶の泉から流れる涙で、とにかく駿、死なないでくれと常に願ってきた。
映画ももちろんだけど私は駿のドキュメンタリーが大好きで、創作への姿勢、普段の姿、エプロン姿、ラジオ体操姿、全面の笑顔、照れ笑い、怒鳴ってる姿、花見で替え歌を歌ってるところ、鉛筆が小さくなっても繋ぎ合わせている姿、幼稚園生に挨拶する姿、鼻歌を歌いながら映画と全然関係ない漫画に色塗りする姿、カメラマンにイライラしている姿、絵コンテを描いている目、描けないときの貧乏ゆすり、ドワンゴの社長に本気で怒っている姿(私はあそこは怒りよりも悲しすぎて泣いてしまった)、ヤギのゆきちゃん人形を子供達が見えるところに毎朝出して夕方にしまう姿、誰もいないアトリエに必ずただいまと言う姿、とにかく本当に胸が苦しくなるほど分かる、分かるなぁと思って見ている。
私のような若輩者が分かるだなんて本当におこがましいし分かるわけないのだけど、私じゃない私がとにかく駿のことを分かるのだから、それは私の感覚だから誰になんと言われてもそうなのだから仕方ない。繰り返すけどこの人間としての私は何も分かってない。駿のことに限らず私は常に何も分かっていない。
で、そのドキュメンタリーの中で駿はいつも、めんどくさいと言う。とにかく言っている。めんどくさいなぁ、あーめんどくせぇ、ほんっとにめんどくさいと一人でぶつぶつ言いながら絵コンテを描いている。もう、本当に分かる。めんどくさいんですよね。すでにあるものをわけが分からないけどとにかく出さなきゃならなくて、しかもそれは本人の頭で考え尽くしに尽くしてヘトヘトになってその先にある思考が考えることを諦めた先にあって、しかも本人の手を通さないと絶対に出せないという領域が確実にあり、それは絶対にAIではできないもの。で、駿は、大切なものはだいたいめんどくさいんだよと言う。この言葉は私の人生の中で本当に大事な言葉になっている。そしてあんなにも考え尽くして悩んで苦しんで深くまで行って映画を作り出してやっと公開された時にはいつも駿は一人、アトリエで奥さんの愛妻弁当とカップラーメンを食べている。世間の盛り上がりや評判なんかと全然別のところで煙草をふかして何事もなかったようにドキュメンタリーのカメラマンさんにおつかれさまと言って手を振りドアを閉める。私はその、全てが終わった後にアトリエでコーヒーを沸かし弁当やカップラーメンを食べている駿を見ているのが本当に好きだ。その上品な孤独の質が本当に好きだ。
ちなみにプロデューサーの鈴木さんは駿のことを宮さんと呼ぶけど、この、鈴木さんの「宮さん」と言う声の感じとニュアンスも、本当に好きです。

こうして書いてみると私は人生の大切なことの大半を宮崎駿から学んでいる気がする。そして全然終わらない、学び続けてる。一生。本当に死なないでほしい人。駿のいないこの世界をどうやってサバイブすればいいのか、考えるだけでも途方に暮れそう。でもだからこの映画なのかな、「君たちはどう生きるか」。

映画は、なんかもう分かりすぎて分かる、分かる〜と苦しくなるほどだった。あぁ私はここをこれを知っている、これはわたし(わたしたち)の生まれる前の、そして生まれてからの記憶、心象風景、夢から夢へ場面がスッ、スッと変わるようなさまは私の見ている、世界を意識が瞬間的に跨ぐパラレル感に酷似していた。うわーと思った。これをよく目に見える形に、そして大衆映画にしたなと思って、駿って本当にすごいなと思ったし、やっぱり頼むから死なないでと思った。同じ世界を分かち合っていると感じられる人がいなくなるのはたまらなく寂しい。あちらにはたくさんいるけど(ていうかみんなだけど)こちらでそれを分かち合える人なんて本当にいないのだから。そう思って、終わらないでと思っていたら、映画は蝋燭が消えるようにスッと瞬く間に終わった。その消え方は、見事だった。
私はやっぱりボロボロに泣いていたけどなぜ泣いているのかは言葉にできず、ただ深く奥底の泉から水が溢れては流れていくだけだった。

映画の中で強く心に残ったのは悪意という言葉だった。
悪ではなく、悪意。
悪は分かりやすい。でも悪意は分かりにくい。隠されている。悪人はそんなにいない。でも悪意は誰もが持っている。それがこの世界を、透明な水に落ちる墨汁一滴の墨のように、どんなに薄くても黒く暗く染めていく。だから、たった一滴の薄い墨であっても、それぞれが垂らさない努力をすること。水を清く保つよう努めること。そのために芸術や文化や、美、がある。美とは見た目が美しいとか、そんなことばかりではない。今はルッキズムとか見た目ばかりが大事にされて整形したり男性も化粧したりそんなことばかりで、それが悪いことは全くないしむしろ美しくなることは本人も、また見る人の心も豊かになる素晴らしいことだけれど、そこにまた優劣や人を見下したり蔑んだり妬んだりすることがセットで醜さを増幅させるのならば、なんのための美なのか分からない。そんなんでなしに、本当の美とは薫るものだ。そしてどんな形であれ命の存在を肯定するものだと私は思っている。誰もが持っている悪意を、芸術や文化や美に触れて、自分のうちで責任を持って整え、自身の命に面と向かって立つこと、自身(つまり世界)に真っ直ぐに存在すること。悪意を誰かや何かのせいにして垂れ流さないこと。それはつまり、自分の人生を放棄しないということだ。
そして志を同じくする友達を持つこと。
みんはばらばらだけど思いを共に生きる人がいれば、どんなに苦しいことがあってもきっとユーモアを忘れずに生きていける。
宮崎駿と鈴木敏夫みたいに。

映画を観終わって、エンドロールと共に米津玄師の音楽が流れるなか、私の意識の眼前、心の眼前に再び真新しく、より生き生きと、重く現れた「君たちはどう生きるか」というタイトルの意味。
あれから数日経っても、未だその問いかけは消えない。
消えないどころか、それは全くもってこれからの話だ。
本当に、これからの話だ。





















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