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幸福なsurrender


声を出すことの少ない日常の何かのリハビリみたいに文を書く。

年が明けて1週間ほど静かにざわついている感じ。
自分の信じるものを信じるしかない、というと堅苦しく大袈裟な感じがするけれど、もっと軽く確かな感触で、
「頭を捨て去ったところからもう一度始めよう。」
そんな気持ちがしている。

昨年はこれまでわりと仲良くというか頼りにしていたり色々助けてもらった友だちが3人生きながらにして遠のき、かなりショックを受けた。
特に喧嘩をしたというわけでもないので、何かが変わったのだろう。何か、と書いたけど変わったのは間違いなく私だと思う。
変わることによって居た位置がズレた、というのが一番ぴったりくる表現だと思う。
これまで生きてきてこういった、突然の容赦のない別れが何度かあったけれど、去年のはかなり大きな節目を感じた。
いつのまにか自ら明け渡してしまっていた自分の力を取り戻すタイミングだったんだろう。
痛いけれど、それに気付けて良かった。
人にはそれぞれの色んな思いがあるけど、結局はただ流れていくだけで、生きるということは変化し続けるということだというのはとっくの昔に鴨長明おじさんが方丈記にも書いてもいる。
そう考えると今現在続いている縁にはますます感謝しようと思うし、その縁も永遠ではなく確かではないというそんな当たり前のことを私は簡単に忘れてしまうということ含め、改めて自分にも他人にもなるべくその都度嘘をつかないで優しくありたいよね、と思う。

そうかと思えばこの数年、星のめぐりのようにピンポイントで会えるタイミングな方がいるのだけれどもそれこそ本当に意図していては絶対に出来ない予測不可能さと展開なので、その人にお会いできるたびになんていうか、大きな川よりも更に大きな、流れそのものの存在を感じる。
それは瑞々しく甘やかなsurrenderで、自分を宙に完全に投げ出しつつ同時にどこまでも自分に戻れるような、その永遠みたいな瞬間を私はたぶん何よりも愛している。そしてそう感じさせてくれる稀有な人が神様ではなく人間のまま地球で共存してくれているということに、何とも言えないありがたさと希望を感じる。
特別面識が無くても「この人が生きているならとりあえず希望は消えない、まだ私も諦めずに生きられる」と思わせてくれる人たちが同じ時代の地球上にランダムに存在していてくれるということは本当にありがたく、ある意味リアルな友だちよりもこころの深いところの友だちだとわたしは勝手に思っている。

掴んでいたら、ギュッと握りしめていたら、期待をしていたら、思いを乗っけていたら。余計な力が加わると例え微力であってもいづれは負荷がかかって壊れてしまうのが自然の法則だし、宇宙のことわりだ。全ては流れていてその中で私たちは明滅しながら存在しているのだから、力を抜き、受け入れるしかない。けれどもやっぱり抗いたくもあって、そんなわたしたちの可愛らしい抵抗さえも大きく包み込んで全ては流れ続けている、つまり私たちはおそろしいほど最初から最後まで許されているということ。
だから生きている間は、この許された場で、遊びをつづけよう。
出来ることなら誰かと。誰もいなくてもとりあえず一人で。


今日の夕飯はハンバーグ。わたしはちょっと味見だけして、子どもたちは一人二個づつたいらげた。生活、生活。
夜中に降り出した嵐のような雨の音を聴きながら寝る。






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