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子ども

部屋いっぱいに敷いた布団に子どもたちがカエルのように伸びてあちこちになって寝ている。
布団はかけてもかけても蹴り飛ばすしなんなら私だって蹴り飛ばされるし、あーあ!って思うことはたくさんある。
スースーと寝息がそれぞれ聞こえてきて、本当に静かなカエルの合唱のよう。
正直言って全然望んだ未来ではなかったけど、これ以上の幸せは考えられない気もする。
もっとお金があればとかもっと才能があればとかここがハワイならとか愛し合える人がいればとかもちろんいくらでも無限にもっともっとは思い付くのだけど、それはこの子どもたちがいて初めて付け足せるオプションであって、それ無しには全く無意味というかモノクロ感がすごい、というほどに、子どもたちの存在がこんなにかけがえのないものになっているなんてと寝顔を見ながら改めて気付いて本当に驚く。
そして今は一つの部屋いっぱいの布団で狭苦しく伸びている子らも、もう少ししたら一緒に寝てくれなくなって、さらにまた少ししたらそれぞれ家を出て行くなんて、本当に信じられない。
信じられないけどそうなんだなあと思って愕然とするが、あまりに悲しいから今は想像することもできないというかしたくない。
昔から、人生に起こる悲しい出来事(おもに別れ)に耐えられるように前もってシュミレーションをして準備する癖が染み込んでいるのだけど、子どもたちに関しては悲しすぎてそれすらできない。
結果、今を生きよう!となるのだけど、どんなにそう思っても時間は手のひらを滑り落ちる砂のようにどんどんこぼれ落ちるし、子どもたちはどんどん成長するし、そもそも私にはどんなに気をつけても今という貴重さに居続けて目を開き続けることが難しい。
そう考えると人生ってなんなの?ともう何百回と思ったことをまた思わずにはいられないけれど、今という一瞬の感覚を永遠に引き延ばすことができれば、人は死んでも死なないのかもしれない。
つまり、一瞬の中に常に全ての愛はあるということで、生きているというのは、つまりそういうことなんだろうと思う。

眠る子どもたちの顔を暗がりで見る。
よく知らない人たち、でも誰よりも知ってる人たち。
可愛くて、誰よりも私に優しい人たち。
いつか訪れる別れの悲しみを越えて、会えて本当によかったなと思う。
どうせ失うのなら何も手にしたくないと頑なにこぶしを握りしめて生きてきた臆病で意気地のない私の人生においてこんなふうに思えることがあるなんて本当に革命的なことで、それはこの小さな人たちのおかげ以外のなにものでもない。
人生ってなんなの?とはやっぱりこれからもずっと思うだろうけど、人生は美しいと、ここを去るときにそう曇りなく言えればいいなと思う。



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