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s.u.n.d.a.y.s. #9


雨の日は雨の音ばかりする。
街中がひっそりと沈黙している。
たかひろくんはカウンターの中でタマネギの皮をむいている。
雨が降っている。

五月の雨は生暖かく、この街の全ての生き物たちを潤わせている。
お店の中では小さな音で音楽が流れている。
バッハのゴールドベルク変奏曲。
ピカピカに晴れた日に聞くよりも、こんな雨の日に聞くほうが少しだけ好きだとたかひろくんは思う。
空白に満たされながらたかひろくんはタマネギの皮をむいている。
何も変わらず、いつもと同じように。

たかひろくんは一度だけ、結婚しようとしたことがある。
三十歳になる手前の夏だった。
その日、たかひろくんと彼女は、毎年近所の河川敷で行われる大きな花火大会に訪れていた。
ものすごい人ごみの中で、これから結婚する二人が、これから打ち上がる花火を待っていた。
会場にはたくさんの家族連れや浴衣を着た恋人たちがいて、皆一様にうちわをパタパタ扇いだり、缶ビールを飲んだりしながら、その瞬間を待っていた。
昼間の熱気が抜けきらない夏の夕方の空気の中で、誰もが、この世には楽しいことしかないとでもいうような、喜びと期待に満ちた顔をしていた。
だんだんと暗くなりはじめた空には、小さな星が二、三個チカチカと見えはじめた。
人々のざわめき、テキ屋の威勢のいい声、高揚感、夏の草のむせるような匂いと、川の水の気配。
「そろそろかな?」
たかひろくんは言った。
彼女は何も答えなかった。
喧噪に紛れて聞こえなかったのだろうと、とくに何も気にしなかった。
前を向いたままの彼女の表情は、影になって見えなかった。
星が瞬き始めてからどのくらい時間がたっただろうか。
空はすっかり淡い青から濃紺になっていたが、待っても待っても花火は打ち上がらなかった。
ずいぶん後ろの方で誰かが「いつまで待たせるんだよ!」と怒鳴った。
それを合図のように、人々の期待の波が段々と不安と苛立ちの色に変わりだし、辺りを黒く覆いはじめた。
その渦に、たかひろくんは気分が悪くなりそうだった。
「ごめん、少し人酔いしたみたいだ。ちょっとここから離れたい。」
彼女に伝えたその時、耳を塞ぎたくなるような大音量でアナウンスが流れた。
「皆様、長らくお待たせして大変申し訳ございません。本日予定されていた花火大会なのですが、トラブルが発生し、開催することが出来なくなりました。大変申し訳ございません。本日の花火大会は中止とさせていただきす。大変申し訳ございません!」
動揺した声のアナウンスが流れたとたん、その場には怒号とも悲鳴とも区別がつかない人々の声がわぁっと沸き上がり、あたりは一瞬にして騒然となった。人々の混乱や怒りがどんどん増幅し、渦巻いて、今にも破裂しそうになっていた。
危ないな。そう思ったたかひろくんは、咄嗟に彼女の手を取って、素早く人のあいだを縫って走り抜けた。
何度も人にぶつかっては怒鳴られ、その度にすみません、すみませんと謝りながら、なんとか会場を抜け出し、土手を渡り、橋を越え、遠く離れた川向こうまできてから、やっと立ち止まった。
たかひろくんの額から背中から、汗が流れ落ちる。
その後ろで俯いて肩で息をしている彼女の、遥か向こうの方に、薄明るく花火大会の会場が見えた。
さっきまでいた、何百、何千人という人も、渦巻いていた怒りも悲鳴も、すべてがまるでぼうっと煙る幻のように思えた。
ここには黒い夜と、黒い夜を映して静かに流れる川と、その川の流れがあるだけだった。
二人は黙って、さっきまでいた場所がぼんやり光っているのを見ていた。
ずいぶん遠くまできてしまったな、とたかひろくんは思った。
ようやく汗の引いた肌に夏の湿った風が吹いたとき、彼女が迷いなくスッと口を開いて、言った。
「ずっと考えていたのだけど。私、やっぱり結婚出来ない。たかひろくんと人生を共にすることは、出来ません。本当にごめんなさい。」
たかひろくんは、聞き慣れたはずの彼女の声を、その音を、久しぶりに聞いたような気がした。
あぁ、そうだった、この子はこんな声をしていたんだった。
おかしいな、ずっと聞いていたはずだったのに、今思い出したような気がする。
僕はいつから忘れていたのだろう。
風に揺れる草むらから、もう秋の虫の声が響いている。
季節は夏から秋に、気付かないうちに移り変わっているのだな。
僕は気付かないふりをした。
失うことが怖かったから。
俯いた彼女の細い肩が、小さく小さく震えていた。
「君にごめんなさいって言わせてしまって、ごめんね。」
その数日後、たかひろくんはあてもないまま国際線の飛行機に乗っていた。
旅立ってから何ヶ月後かに訪れたインドでひたすらカレーを食べまくる日々の中、ある朝、海のように広くて茶色い川からオレンジ色の美しい朝日が力強く昇るのを見た。
あぁ、と思った。
あぁ、どこにいても何があっても、太陽は毎朝昇ってくれる。誰の上にも。死なない限り。生きている限り。もし死んでしまっても、この世界には変わらず太陽は昇る。だから大丈夫だ。何があっても、きっと。
日本に帰ろう、そう思った。
日本に帰って、彼女の次に好きだったインドカレーのお店をやろう。
たかひろくんは、そう決めた。




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