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縁というもの


ある人がある人と出会って、結果ある人とある人が別れる。
よくあることといえばよくあること。
その袋は容量が決まっている入れ物だから、ひとつ入ればひとつ押し出される。無くなった部分にはまた新しいものが(何かは分からないけど)入る。そういうふうになっているのかもしれない。
ある人は袋がパツパツのギュウギュウかもしれないし、ある人はスカスカかもしれない。
入ってくるものも出ていくものも、選んだつもりでも本質的には選べない。
逆らうことができない、何か大きな流れ。
それを昔の人は縁と読んできたんだろうなと思う。

自分自身のことを振り返ると、結婚も離婚も子どもも縁としか言いようがない。
花が咲いて枯れ落ちるような自然の営みの中でそれは嫌だとかこうがいいとかバタバタもがいて七転八倒しても、どこかで出会いも別れも受け入れざるを得ないのだということを本能的に知っている。
でも、人である限りその理不尽に見えてものすごく緻密な宇宙の仕組みに対して抗い、ずっともがくのだろう。
いくら恋人や夫婦としてのお互いの学びが終わったから別れるんだよとか、死はもと来た場所に帰るだけだよとか言われようが、誰かとの別れに慣れることなんかない。だってひとりは寂しいし、別れは辛いから。
最近になって立て続けに同じようなことが三回あった。そのどれもがいわゆる見えない世界のことを生業にしている人たちに関してだったのだけれど、全てを端折ってものすごくシンプルにいうと「あ、色々言ったって結局みんな人間(地球人)なんだな」という、一周回っても回らなくても当たり前すぎることだった。その当たり前のことが本当に分かるまでものすごく時間もお金もかかったし、もしかしたら時代的にもそういう星の巡りがやってきたということなのかもしれない。何も誰も特別ではない時代、つまりみんなが特別な時代。
自分に還る、自分に気付く、自分を思い出す、と、言葉にするとわりと使い古されてきた感じのそういったことなのだけど、外側の事象(これがこうだから、あの人がああだから私はこうなのだ的なこと)ではなく常に内側からだけ見て、見つめまくったその先にあるのが、みんな地球人でベースはたいして変わりないんだなという発見で、そうするともう争いは起こりようがなくなる。
考え方の違いなどでたもとを分かつことはあっても、地球人というベースは同じと分かった上でのお互いの違いを認められるから、自分を守るために相手を攻撃するということはもう必要なくなる。でも、自分の外側にいる限りはそこから抜け出すのは難しい。自分の内側につねにぴったりと寄り添ってはじめて可能になることなんだと思う。それは自分と生きるということで、自分を生かすということで、自分をゆるすということで、自分の願いを聞き入れていってあげるということで、そうやってはじめてやっと自分以外の人に対して湧き上がる純粋な思い、というものが体感とともに立ち現れるんだと思う。

まずは自分と手をつなぐこと。自分が自分として生まれたのも縁だし、生まれた瞬間から死ぬ瞬間までずっと一緒にいてくれるのは自分だけなのだから。
自分との縁を再び繋いで、人との縁をまた繋いでいく、今は時代の中のそんなタイミングにいるんだなと感じるし、同じ流れの中にいる人たちと出会って、また面白いことができたらいいなと思っている。

(続く)




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