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私も開き直った日


note創作大賞2024の締め切りが7月23日ということで、せっかくだからと6年前の2018年に書いた物語「s.u.n.d.a.y.s.」(元々は「itudemo yume o」という題名だった)を軽く手直しして応募しようとしたらとんでもない、6年前なんてほぼ前世だし、離婚や産後うつや子育てで体力も気力もないなかでとにかく自分のためにと書いた物語は現実逃避感だったり過剰さだったりが自分で読んでいてものすごく恥ずかしく辛く居た堪れなくて、結局何度も何度も繰り返し読みながら大筋は変えないように、文章を削ったり手直ししたりして、途中で自分の文章に酔って具合が悪くなったりしつつ、やっとなんとかひとまず完成(なんてありえないけど)にこぎつけた。が、そうなったらなったでもうこれが果たして世に出していいものなのかどうかの判断がつかず、こんなにヘトヘトに、頭も痛く気持ちも悪くなるほど過集中して完成させたところで、誰が読むでもなし、全く無意味で、わたしは一体何をやっているのだろうかといつもの沼。だからといってやめるとかやめないとかそういう線上にはない、選択肢はない、やらざるを得ないからやるしかない、だから仕方ない、けれどもなんだかもう自分のやっていることの無意味さを露呈するのがやっぱり虚しすぎて、このままひっそり隠していようかと思ったとき、机にあった新潮の2023年12月号が目に留まり、ふと手に取った。
私は君島大空さんの音楽が好きで、この雑誌に彼のエッセイが掲載されていると知り、少し前に中古で買っておいたのだが、そのまま放置していたのだ。
『私が開き直った日』というタイトルのエッセイは見開き2ページの短いものだったのだけど、君島さんが学生時代、標準より大きかった体格により一貫していじめられていたこと、5歳の誕生日に父親からもらったギターを弾き始めたこと、そのギターによって外界との接点が増え、自分を取り巻く世界が変化していったことなどが書かれていたのだが、その中でも最後のほうに書かれた路上ライブのくだりが、音楽ではないけれど文章を書き、表す者として、とても胸に迫るものがあった。
君島さんは、父親の勧めで初めて小学三年生のジョン・レノンの命日にカバーばかりの路上ライブをしてからこれまでずっと、『自分の音楽が誰かに「届いた」と実感する瞬間がない』という。『歌謡曲などの歌詞で使われる「届ける」という言葉がずっと腑に落ちないし、形の無い時間を使った音楽という媒体が「届いた」という実感をもてることはこれからあるのかというのは絶望的な問いだ』としつつ、『そもそも「届けたい」などという気持ちはおこがましい、なぜなら私の出してしまった声の行先はあなたに委ねられていて、その先の事象をコントロールしようなどというのは人智を超えた欲求である』と記している。
そのうえで、君島さんはこう書いている。

誰かの心根に辛うじて着陸すること、私みたいに薄暗い学生時代を過ごしている、過ごしたあなたの中に私が到着すること。それを一番に切望して生きている。

『私が開き直った日』君島青空  新潮2023.12月号


わたしは、あぁ、と思った。同じ気持ちでものを作っている人がここにもいる、と思った。そのことにとてもこころの深いところが震えたし、なんだかすごく勇気付けられた。
わたしも学生時代に仲間はずれにされ、無視され続け、いつもずっと一人だった。一人で家や図書室や図書館で、ひたすら本を読んでいた。君島さんはきっとよく一人でひたすらギターを弾いていたんだろうなと思った。ライブハウスに行き始めて友だちができるまで。
私は本の中でだけ自由だったし、寂しくなかった。息ができた。居場所だった。
今は文章を書いているとき、好きなようにいられる。自由に息をすることができる。居場所がある。
私はいつも、私に文書を書いている。私が一番厳しくて、手抜きをするとすぐにバレる読者だからだ。でも、君島さんの言葉を借りるなら、その先の『いつかの私みたいなあなたの中に私の文が到着することを一番に切望して生きている。』
それが叶おうが叶うまいが、力や才能が無かろうが、やるとかやめるとかの選択肢すらない。生きている限り、生きることと書くことは何も変わらないからだ。かっこつけでもなんでもなく、それは本当にどうしようもなく仕方のないことなのだ。だから私も開き直るしかなくて、だったらどうせ開き直るなら、もっと堂々と自分に対して開き直ろうと思った。
そこからしか始まらないのだ、本当のことは。





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