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チャミ→なかしー(#6)


昨日まで脳みそがぎゅーっとしていたのですが、今日は少し、抜けています。
今日は、5年ほど追い続けているミュージシャンのライブがあるので今から大阪に行くところなのですが、新幹線乗り場で並んでいて新幹線が来たら全然違う乗り場だったからびっくりしました。
私はいつも何を見てるんだろうか、本当に謎です。
そう、それで話は戻るのですが、ぎゅーっとした脳みそが少し楽になったのは、多分に昨日受けたエイリさんのtellmeyourstoryのおかげだと思っています。
絡まった糸を一本づつ、もしくは束で、ほぐして、解明して、名付けて、見せてくれるような時間でした。
袋小路にはまって身動きできなくなっているときに、他者からの視点って本当にありがたいなと思います。
でもそんなときって他の人の介入が難しいときだとも思うのです、私にとっても、相手にとっても。
脳がパンパンで隙間がなくて狭いから、そこを外れた話をされるとそうじゃないとイライラしたり、どうせわからないと悲しくなったりして、余計閉じたりして、もっとぎゅーっと狭くなって、どんどん刺激や外界に過敏になって、悪循環に陥りがちです。
そんなときに、エイリさんは正面からスッと入ってきてくれて、でも決して入り込まずにいてくれて、公平に、フラットに、広く私の世界を見渡してくれて、凝り固まった思考に気づかなかった角度から光を当てて「それも全然オッケーだけど、もし居心地悪いならこんなのもありますよ!」と教えてくれて、今の私をジャッジのない場所から包み込み、進みたい道を引き出してくれて、照らしてくれて、サポートしてくれる。それってなかなか出来る人間技ではないと思うのです。少なくとも私には出来ません。なんていうのかな、視座が広くて高い、だけど隣にいてくれる。そしてその行動基盤がブレずに他者への愛とリスペクトに基づいていて、口先だけじゃなく、腹を決めている。他人の人生に関わるということに。自分にも他人にも誠実であるということに。それってちょっと本当にすごいことです。有難いことです。
と書いていて、今新幹線の中なのですが、車掌さんに切符を見せたら席が3つ前ですと優しくご指摘いただき移動しました。
本当に私の目と脳みその連携どうなってるんだろう。何回も何回もチケット確認したのに。びっくりです。
日々こんな感じなので私は自分のことを全く信用していません。だから運転ができないのです。いや、運転はできます。目と脳の経路というか、理解がバグってるので、信号機とか交差点とか対向車とか通行人とかの認知と情報処理がうまくできないのです。だから、人に付き添ってもらって、道を練習する。練習して覚えたら、その道は運転できます。免許を取ったらどこにでも行けるのかと思っていましたが、私にとってはそうではありませんでした。
みんなが普通に出来ることが私にはできない。みんなが普通に乗れる車や電車や飛行機が、私には乗れない。みんなが普通に出来ることが出来ないってすごく惨めな気持ちになります。よそと比べて出来ない私をダメだ愚図だと母に言われてきた記憶が湧き上がり胸を締め付けるのですが、だからやっぱり今の私は出来ない私を責めるのではなくて、そうかそうか、出来ないんだね、出来なくてもいいんだよ、とヨシヨシしてあげるしかないんですよね。なかなか難しいけど。
ヨシヨシ出来なくても、責めるのは絶対に違うよなあって思います。

今朝大雨だったんですが、かねてから学校に行きたくない下の子が涙ぐんで学校に行ったのですね。休んでもいいよって言ったのですが、自分で行くと決めて出かけた。で、15分後くらいに濡れ鼠で帰ってきたんですけど、泣いてるんですね。
とりあえず何かあったのかは心配だったので聞くとそれはないみたいでほっとしたのですが、どうやら行きたくない気持ちが勝って、途中で足が止まっちゃったみたいなのです。雨の中、頑張って家を出て、途中で足が止まっちゃって、多分通学路の半分あたりで立ち尽くしたんだなと思いました。行きたくない、でも、帰ったら、怒られたらどうしようと思うと怖い。で、しばらく立ってて、でも帰ってきたんだなと。帰り道でも、ちゃん(私のことです)になんて言おうか、なんて言われるか、不安だっただろうな、と思いました。
で、とりあえず濡れてる服を着替えさせて、大丈夫だよ、自分で決めて偉かったね、頑張ったんだねとソファで背中をさすっていたらしゃくり上げて泣きだしたので、あぁ良かったなと思いました。自分で決められて、帰ってきて、家が帰れる居場所になれてて、ちゃんと泣けて。それは受け入れてもらえるという思いがあるから出来ることだと思うから。そういうスペースを子どもに与えることができていて、良かったなと思いました。
私は子どものとき、親に甘えられない泣けない許されないの3点セットで、安心というものがありませんでした。だから確信しているのですが、人は、安心のスペース、安心の基盤があれば、生きていける。ここは大丈夫とか、この人にはどんな自分も受け入れてもらえるとか、そのセーフティーネットがありさえすれば、どんな状況になっても投げやりになったり、自分を諦めたり、人や自分を取り返しがつかないほど憎んだり攻撃したり、しないのだと思うのです。というか、しなくて済むのだと思うのです。どっしりと自分として生きていけるのだと思うのです。
私はずっとずっと、それが心の底から欲しかった。それがもらえるならその直後に死んでもいいとさえ思ってました。そんな私を見かねてか、宇宙は私に宇宙の安心を感じさせてくれました。だけどそれだけではやっぱりだめなのですね。私は人間だから、人間として、肉体としての安心というものがやっぱり必要なのですね。宇宙としての安心、たぶんワンネスといわれるものはなんかとてもよく分かるような気がするというか、それとともにずっと生きているのだろうと思います。それがわたしのセーフティネットです。意識をそこにおけば、それはもう、そうなのです。でも、私は人間なので、人間としての安心というものを体感して、地球で生きたい。それに、どっちかだけではとてもバランスが悪いのです。なんかこう、いい感じにバランスよくなりたいです。つまり、楽しみたい、ってことなのですが。
自分で地球を楽しむためにも、安心のスペースは自分の肉体の内側に持っていたいと私は思っているのです。それを他人に求めることは悪いことではない。むしろそれができたら素晴らしいことだとも思います。人は1人では生きていけないし、補い合って生きている。でもやっぱり、まずは自分なんだと思います。足りない分を人に求めても、最初は満たされるかもしれませんが、結局はお互い枯渇してしまう。お互い相手から満たしてもらおうというのはそれはそれで相互循環になるのかもですけど、やっぱりなんか、循環型の温泉みたいに濁るわけで、どこかで強力な浄化装置が必要になったりするわけで、その役目が子どもだったりするともうそれは本当に悲惨なんですよね。私の家はそんな感じでした。
だから今、私の子どもたちが、安心のスペースをすでにしっかり持ってて、その上で人に甘えることができるということが頼もしい。私みたいにマイナスからとかじゃなくて、しっかりした土台の上でスムーズに進みたい方へ楽しく人生を進んでくれたら、私は大きなミッションクリア、という気持ちです。

で、さっき新大阪について、充電ケーブル忘れてきたからコンビニで買ってホテルの部屋に行って充電しようとしたらぜんっぜん違うの買っちゃってて、交換しに行ったら不可だったのでまた新しいのを買い直して部屋に戻ったところです。結構な出費!本当に何やってるんだろうって、またまたまた思いました。
中村一義の名盤『金字塔』の超名曲「永遠なるもの」に「ああ全てが人並みにうまくいきますように」って歌詞があるのですが、初めて聞いた19歳の頃からずっとそう思ってます。


なんか全然お返事にならなかったな、ごめんなさい。なかしーが書いてた、人に期待することと、他者となにかをやることで見える景色について書きたかったのに。
私も最近よく考えることなので、また今度なんか、タイミングでお返事書けたらなと思っています。
ではまた!




より良い表現ができるように励みます。ありがとうございます🌷