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檸檬のようなもの

高校2,3年生ぐらいの時に教科書で読んだ、
梶井基次郎の『檸檬』。
読んだ当初、あまりに衝撃的な内容で今もよく
覚えている。
とにもかくにも「檸檬が本屋を木っ端微塵にする」話。(とてもざっくりな説明なので、詳しくは読んでみてください)

色々な時にこの檸檬のようなものを生み出しては置き、生み出しては置きをしたくなる。

例えば、人の悪口を言うとき。
人は人の悪口を言う時、必ずその人のことを全て分かったような、その人の何が悪くて、真の良いことが何かを分かっているような口ぶりで話す。
だけどそれって、自分が理解できる範囲の限界値とか底に達してしまっているのを露呈しているだけではないかと思ってしまう。(悪口言うの楽しいけど)

例えば、地元にいるとき。
人は学校を卒業したら就職し、真っ当に働いてお金を稼ぎ、後に家庭を持ち、平穏に暮らす。
そんな生き方が至極当然として、地元に住む人達の共通認識となって、チェーン店しかない国道23号線に横たわっている。
それはあくまで選択肢のひとつでしかないと思うのだけど、これが社会通念かのようにやはり横たわり、寝返りをうっている。

例に挙げたこれらの「えたいの知れない不吉な塊」に対し、自分はその対局にあるように見える「面白いもの=檸檬のようなもの」を置いて破壊したくなる。
それは今流行りの“逆張り”であると、分かったような口をきいてくる人もいるかもしれない。
そうではない。むしろ常に隣り合わせにあるもの、気づかないだけのもの、日常の中にある非日常的でシンプルに綺麗なものとしてある(気がする)。
それを模した「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」を作り、素知らぬ顔で置いて、時間が来たら木っ端微塵になっているのを想像してほくそ笑みたい。面白いものと言うとハードルを上げている気がするけど、とにかく今はキレているから一種の老害みたいなものとして認識して、ほっといてほしい。
檸檬のようなものを置き続け、自分も他人も爆発して失くなり、また新たに構築していく。それの繰り返し。そんな強かな錯覚が今は常に見えている。唐揚げにはレモンをかけたいが、レモンをかけた唐揚げはかけてない唐揚げには戻らない。
このnoteを書き始めて書き終える今、もう後戻りはできない。僕は片っ端から木っ端微塵に破壊したい。

おわり


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