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俺たちは持統天皇のことを知らなすぎた②

暑い日が続きますね🥵

我が家は購入10年目にしてリビングのエアコンが壊れました。かれこれ3週間ほどエアコンなしで過ごしております…。幸い、寝室やこの記事を書いている部屋のエアコンは問題ないので何とかなっていますが😅早く工事に来てほしい・・・。

さて、こちらは本名『うののさらら』こと第41代天皇・持統天皇の偉業を紹介する記事です。

持統天皇は日本人なら誰でも知っている聖徳太子徳川家康などの偉人に負けないくらい大きな功績を残したのですが、あまり知名度がなく「百人一首に歌を残した女性の天皇」ぐらいでしか認知されていません。日本は「ジェンダー指数が低い」とだの「男性しか活躍できない社会」とかナントカ色々と批判されがちですが、1,300年も前に自国を守るため活躍した女性のトップリーダーがいたという事実は覚えておいても損はないかもしれません。

持統天皇の功績(おさらい)

前回も書きましたが、改めて持統天皇の功績をおさらいしておきます。彼女の功績は他にもたくさんあるのですが、とりわけ「日本のアイデンティティを確立した」という点で以下の4つはとても重要です。

  1. この国の正式名称を定めたこと
    ⇨ この国を「日本」という名称に定めたのは持統天皇です。

  2. この国のトップの正式名称を定めたこと
    ⇨ この国のトップの名称を「天皇」と定めたのは持統天皇です。

  3. この国の信仰インフラを整備したこと
    ⇨ 神道の総本山として伊勢神宮を整備したのは持統天皇です。

  4. この国の歴史書を創ったこと
    ⇨ 古事記/日本書紀の編纂を進めたのは持統天皇です。

今回は、持統天皇がこれらの功績に取り組むに至った背景を紹介します。

当時の日本も「内憂外患」だった

聖徳太子が推古天皇の摂政に就いた5世紀頃の日本は大変な「内憂外患」の状況に置かれていた、というのは聖徳太子パイセンの偉業シリーズで紹介した通りです。

そして持統天皇が生きた頃の日本もまた、聖徳太子の時代に負けないレベルで「内憂外患」の状況にありました。

まず「内憂」です。

持統天皇が生まれたのは645年、つまり大化の改新があった年です。大化の改新とは、絶対的な政治権力を握っていた蘇我氏を中大兄皇子中臣鎌足が暗殺するという政治クーデターです。そして持統天皇はクーデターの実行犯である中大兄皇子の実の娘です。

すごくないですか?国内の権力構造をひっくり返すようなクーデターが起きた年に生まれ、しかもそのクーデター実行犯の娘っていう。うののさららは「時代の転換点に生まれた申し子」と言っていいのかもしれません🤔

で、クーデターに成功した中大兄皇子はその後「天智天皇」になるのですが、その後継者の座を巡って皇族同士で殺し合いをしたのが「壬申の乱」です。「天智天皇の息子」vs「天智天皇の弟」っていう構図です。結局、弟の方がこの争いに勝って後継者となり「天武天皇」となるのですが、この天武天皇が持統天皇のダンナさんです。天武天皇の在位中は皇后として、天武天皇が亡くなった後に持統天皇になりました。

何が言いたいかというと、聖徳太子パイセンによる内政改革で政治の中心は地方から中央に集権化が進んだものの、肝心の中央(皇族)の周りでは相変わらず血なまぐさい権力争いが続いていたということです。

そして、いつまで経っても一枚岩にならない国内の状況を

「やれやれ、いつまで経ってもまとまらないね〜、この人たちは・・・😮‍💨」

と、他人事のように眺めていられる状況ではなくなった事情があります。それが次に紹介する「外患」です。

最大最強の外患: 唐帝国

聖徳太子パイセンの時代の中国はでしたが、隋はわずか40年足らずで滅亡しています。そのを倒して成立したのがです。は約300年続いた長命の政権でしたが、特筆すべきはその支配地域の広大さです。

以下の地図は7世紀終わり頃のユーラシア大陸の勢力図を示したものです。
緑色が隋を滅ぼした時点、薄オレンジ色がその後支配した地域です。

画像引用元:「世界の歴史まっぷ」https://sekainorekisi.com/world_history/%E5%94%90%E3%81%AE%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E3%81%A8%E7%99%BA%E5%B1%95/

現代の私達がイメージする「中国」の範囲を大きく超えた地域を唐が支配していてのがわかると思います。なんていうかもう、めちゃくちゃ強かったんですね。特に中央~西アジアでは無双状態。

そんな中、朝鮮半島で起きた「白村江の戦い(663年)」という戦争に日本が負けてしまいます。もう少し詳しく言うと、朝鮮半島の覇権を巡って唐&新羅の連合軍に攻められていた百済は日本に支援を求め、百済&日本の連合軍として戦ったのですが、唐&新羅の連合軍に大敗したのでした。(その後、百済は滅亡)。

これによりユーラシア大陸の東岸は実質的に唐の支配下に置かれ、唐・新羅の連合軍が日本にいつ侵攻してきてもおかしくなくなりました。日本からすれば「喉元に刃物を突きつけられたような状態」ですね。

キーワードは「創業垂統・継体守文」

このように組織が外部からの強大な脅威に晒されたとき、組織のトップリーダーはどうあるべきなのでしょう?


「いや~~、あなた方の強さには恐れ入りました!降参です!これより我々はあなた方の傘下に入りますので、どうか我々を攻めたりしないでね☆」

と、相手の軍門に下ることで「国民の命と財産を守る」という考え方もあるでしょう。実際、新羅はそうやって唐の支配下に入りました。これを冊封関係といいます。

でも、武力で現状を変更しようとする国と冊封関係を結んで「あぁ~、これで国民の命と財産が守れるわ〜」とは普通は思いませんよね(※日本の一部の政治家は思ってるみたいですが)。

歴史を見れば明らかなように、上下関係が決まった国は間違いなく蹂躙されます。だって「コイツらには何をやっても許される」という思考になりますから。これは洋の東西を問わず真理でしょう。

こんな状況下で持統天皇がとった「したたかな外交戦略」と「リーダーシップ」があったからこそ、日本は唐の冊封に入らずに済み、むしろ唐と対等な関係を築けたわけです。

この持統天皇がとった外交戦略とリーダーシップを端的に表すキーワードが

「創業垂統 (そうぎょうすいとう)」

「継体守文 (けいたいしゅぶん)」

です。

前回も紹介しましたが、この2つのキーワードが示す考え方は現代においても十分に通用します。その最たるものは「アトツギ」つまり「先代から会社の経営を引き継いだ事業継承者」なのですが、会社経営に限った話ではありません。職場、学校、自治会、サークル、コミュニティ、何にでも適用できます。既存の組織に自分が新たに参画し、組織の一員として成果を出さなくてはならないときに必ず役に立つ考え方が「創業垂統」と「継体守文」です。

次回は持統天皇が取った「創業垂統」「継体守文」の中身を紹介します。

つづく。


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