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続・なぜ日本人はクソ真面目に働くのか?

前回の記事の続きです。

明治時代の日本に工場機械の技術指導者として派遣された外国人エンジニアが、日本人労働者の勤勉ぶりに驚嘆(ドン引き)したわけですが、その源泉はどこからくるのか?

結論だけ先に言っておきますと、

「修行として仕事する」という日本独自の職業倫理が影響しています。

そしてこの職業倫理を日本人が持つに至った源泉は道元禅師まで遡ります👇

道元禅師(永平寺HP https://daihonzan-eiheiji.com/history.html)

道元禅師って誰?🤔

という方もいるかもしれませんが、歴史の教科書には必ず名前が載るレベルの有名な禅僧(禅宗の僧侶)です。日本史だと織田信長とか千利休クラスの有名人です。敢えて肩書きを使って道元を紹介するなら「曹洞宗の開祖」でしょうか。※曹洞宗は日本における仏教宗派(禅宗)の一つ。

少年・道元の問い

道元禅師は幼い頃、当時仏教の最高峰であった天台宗の本山・比叡山で修行していました。

天台宗のメイン教義には、次のようなものがあります。

「人は誰でも、生まれた時点で悟っている」

道元少年は、この教義に対してこんな素朴だがビッグな問いを抱きます👇

「生まれた時点で悟っているというのであれば、なぜみんな一生懸命修行をしているのだろうか?修行の意義とは一体何なのか?」

なんかお寺のお坊さんって、めっちゃ修行しているイメージありません?朝から晩まで坐禅組んだりお経読んだり掃除したり。あろうことか道元少年は「修行」という仏僧のアイデンティティ的行為の存在に疑義を持つわけです。(この時点でもう道元少年って神童ですよね。。。そんな本質的な問いを立てられる小学生がおるのかと)

その問いの答えが知りたくて居ても立っても居られなくなった道元は比叡山を飛び出して日本中の名僧を尋ね歩きました。しかし、誰一人として道元の問いに対して納得のいく答えを出してくれる人はいませんでした。

困り果てて臨済宗の開祖・栄西禅師に相談したところ

うーん。ワシにもわからん。いっそ中国に行ったらどうか?何か分かるかもしれんよ

と中国への留学を勧められ、中国(当時は宋)に渡ります。道元1223年24歳の時です。

中国で「修行」の意義を知る

中国に着いていきなり、道元は名もなき老僧から大切なことを学びます。その老僧は典座(てんぞ)でした。典座(てんぞ)とはお寺に所属して修行僧達の食事の世話をする係のような役職を指します。典座は道元が乗ってきた船が近くの港に着いたのを見て、食材の買い出しに来たのでした。典座には経験豊富な僧侶が就くものですから、初めて本場中国の僧侶を見た道元はテンションが上がり思わず

是非、船の中に上がって私とお茶でも飲みながら、仏教ついて談義しませんか?

と声をかけてみました。

典座は「いや、せっかくの申し出だが、これから食事の支度があるのですぐ寺に戻らねばならない」と断るのですが、道元も引き下がりません。

「まぁまぁ、せっかくこうして縁あってお会いできたのですから、少しくらい良いではないですか」
「それに食事の支度なんて、あなたのような年長者がやるような仕事ではないでしょう。若い門人にでもやらせておけばいいではないのですか」

それを聞いた典座は

「お若い方、あなたはまだ仏法の修行とは何たるかが分かっておらんようですな」

と言って立ち去ってしまいました。道元ポカーンです😐

その後の展開は端折りますが、道元は如浄という名僧の元で修行を積みます。そして5年間の修行の末、如浄より印可(悟った証)を得て日本に帰国します。

(ちなみにこの時、印可と共に如浄から道元に授けられたモノがまたすごいのですがそれはまた別の機会に…😅)

道元禅師が見出した真理

中国留学を経て道元禅師が得た真理は一言で言うと、

「人間は確かに生まれながらにして悟った存在である。ただし、それは修行しないとあらわれて来ない」

というものです。修行しないとそれが表に出てこないというのが重要です。

また道元禅師は、「修行」とは決してお経を読んだり、坐禅をしたり、公案を説いたりすることだけを指すのではない。掃除をしたり、食事を作ったり、日常的に行うあらゆる行動・所作のすべてが「修行」なのであって、その人が本来持っている「悟り」を顕現させるのに必要なことだと説きました。

典座が道元に教えたかったのはこのことです。曹洞宗が他の宗派と比べて特に「修行」に厳しいのもこの考え方に基づいています。

さて、この「悟りに至るためには(正確には悟性を顕現させるためには)修行が必要である」という道元の教えを継承し、やがて日本人全般の職業倫理へと昇華させた偉人がいます。

それが鈴木正三(しょうさん)です。※「しょうぞう」じゃないですよ笑

鈴木正三って誰?🤔

神谷満雄著「鈴木正三」より

道元禅師は知っていても、鈴木正三をご存知の方は少ないのかもしれません。日本史の教科書に出てきてたかな・・・?

正三は江戸時代初期の禅僧です。といっても最初から僧侶ではありません。元々は徳川家康の家臣として関ヶ原の戦いでも活躍していた戦国武将でした。江戸の治世になり42歳の時に曹洞宗の仏門に出家したという異色のお坊さんです。(武士が出家するのは本来ご法度なんですけど)。

正三は道元の教えをベースに「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」という教えを説きました。「世法」とは「世俗」つまり私たちのような一般市民が暮らす社会の規範や考え方や価値観です。正三はそれらがイコール「仏法」だと言っているわけです。これはいったいどういうことでしょうか?

「悟り」はガチ修行者の特権だった

仏教は元々インドで生まれて中国に渡り、日本に渡って来たものです。

現代日本での仏教の普及状況を知っている私たちからすると、実家や祖父母の家に普通に仏壇が飾ってあったり、近所のお寺の檀家だったりするのを見て「え?仏教徒って誰でもなれるんじゃないの?」と思うかもしれません。でも、それは必ずしも正しくありません。

仏教には「出家主義」といって「世俗のすべてを捨ててガチで仏門に入って死ぬ気で修行しないと悟れないよ」っていう考え方があります。今でもスリランカや東南アジアの国々で信仰されている仏教(≒上座部仏教)は出家主義を採っています。

出家主義の仏教は本当にガチです。入門するだけでも様々な条件がありますし(例えば女性はNGです)、全財産を放棄しなくてはならないし、入ったら入ったで戒律も超厳しいし、托鉢だけで食い扶持を稼がねばならないし「人生の全てを仏道に捧げます!」という覚悟がないととても勤まりません。

スリランカの仏教(Wikipediaより)

一方、日本に渡った仏教(≒大乗仏教)は「在家主義」です。曹洞宗のように修行をガチでやっているところもありますが、最も信者が多い浄土真宗のように、在家のまま一般人も念仏を唱えるだけでOK!というように仏教徒になるためのハードルを超低くしています。

しかし、そうは言ってもスピリチュアルな不可視の世界の話なので、どうしても不安になってしまうのが人情というものです。

「ちゃんとした修行法を教わってないんだけど、これでいいの?」
「我流で坐禅を続けているんだけど、これで本当に死んだときに成仏できるのか?」
「念仏を唱えているだけでよいと聞いたが、本当にこれで悟れるのか?」

国から給料(俸禄)がもらえる武士階級はぶっちゃけヒマなので、寺で坐禅でも読経でも教わって実践すればよいのでしょうけど、農工商の身分である一般市民は納税しながら家族を養っていかなければなりません。日々の生活に追われて、とてもちゃんとした仏道修行をする暇などありません。

「これでは、我々のような一般市民はいつまでも悟れないではないか!!」

そんな嘆きの一般市民たちに教えを説いたのが鈴木正三です。

鈴木正三の教え

正三の教えは「万民徳用」という書物で著されました。

そこにはこのように書かれています。

「仏法の修行とは何も特別なものではないのだよ。世のため、人のためを思いながら日々、自分の職業に励むことが仏法につながるのだよ」

これが「世法即仏法」ということです。

正三は士農工商それぞれの身分に対し「四民日用」というガイドを作って具体的なアドバイスを示しています。

例えば農民に対しては、

「凍えるような冬の寒さ、焼け付くような夏の暑さの中で田んぼを鋤き返す、草の刈り取りなど、日々の農作業を身を粉にして、心を尽くして一生懸命働く。それだけで十分に仏道修行です。だからそれ以外に修行なんてしなくていいんですよ」

農民日用より

農民にとって毎日当たり前のようにやっている農作業が、じつは出家主義でガチの仏法修行をしているお坊さんが日々やっていると何ら変わらないと現役の禅僧がお墨付きを与えてくれているわけです。日々の農作業に追われている農民達にとってどれほど救いになったことでしょう。

お坊さんが坐禅を組むのと👇

曹洞宗 僧堂での坐禅の様子

農家が田植えするのは👇

田植えの風景

「悟りに至る修行」という観点では全く変わらないということです。

現代でみられるこんな光景も当然「修行」です笑

現代サラリーマンによる修行

前回のポストで「工場の日本人労働者たちは、作業場所を掃除したり、機械をキレイにしたり、道具を丁寧に扱う」という様子を紹介したと思いますが、それが当たり前だということがここまでくれば分かりますよね?

お坊さんなら当然、毎日自分たちの修行場所をキレイに拭いたり掃除するし、お経や法具をしっかり手入れしますよね。それと全く同じです。お坊さんと一般人ではたまたま職場が違うだけで、どちらも職場が修行の場であることに変わりはないからです。

まとめ

鈴木正三はこの「万民徳用」を多くの人に説き、またこの教えを伝えるためたくさんの寺を建立したことから、日本人の職業倫理のルーツと言えます。しかし鈴木正三の教えも、道元禅師の「悟りと修行」への問いと導き出した答えがなければ生まれませんでした。

道元禅師→鈴木正三とつないできた日本の職業倫理は、幕末の思想家・石田梅岩に継承されます。石田梅岩は仏教というより神道・儒教のベースがあったので、日本の職業倫理は仏教・神道・儒教の思想が混ぜこぜになっていますが、正直とか倹約とか神道由来の要素も加わって商業倫理のレベルまで昇華されます。

こうして改めてみると、現代に生きる私たち日本人の精神性はいまでもあらゆる場面で江戸時代までに蓄積された精神資源に依るものであるというのが分かります。

この世界でも稀有な職業倫理観は、日本型の資本主義を考えるときにヒントになるような気がしています。

おしまい。

おまけ

西洋に広く普及した職業倫理といえば「プロテスタンティズムの倫理」通称プロ倫でしょうか。一見するとどちらも「労働に勤勉さを求める思想」ですが、両者には大きな差があります。正三が説く「世法即仏法」は「量より質」重視、「結果よりプロセス」重視です。大量の仕事をこなすのを求めず、1つ1つの仕事を修行だと思って真心こめて丁寧にやることを重視します。一方、プロ倫の方は「救済対象となる人間は、このぐらいやって当然だ」という強烈なプレッシャーがあるので「質より量」重視、「プロセスより結果」重視になりがちです。そう考えると「過労死」なんて本来はプロ倫的な職業倫理の弊害であり、キリスト教世界でしか起きないはずなんですけどね🤔

あ、ちなみにタイトルの画像は「坐禅をしながらパソコンで仕事をするビジネスパーソン」というプロンプトで生成AIに作らせたものです笑

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