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死生観 -織田作之助- 篇

1.浪速のユーモアの源流

織田 作之助というと、もう今の人には馴染みが薄いのかもしれませんね。しかし、その絶望的なまでに暗い物語を、見事なまでにポップに描き切った文体は、明治初期までの候文(です・ます調ではなく、語尾が「そうろう」で終わっていた文体)を、現在の日本語に仕立て直して創作した夏目 漱石を経て、上方文学の集大成(それも全国的に売れた!)です。

 昭和15年、織田 作之助こと通称、織田作(おださく)が27歳のときに書いた『夫婦善哉』は、五年間の雌伏の時を経て戦争が終わった昭和21年、爆発的なヒットとなります。

 短編なので是非、目を通して欲しいのですが、その文体は漫才の台本のようであり、そのストーリーは浄瑠璃が描く悲劇のようでもあり、その中にも生への活力とも言うべき陽気な力がみなぎっています。

近松 門左衛門のお墓のすぐ隣に生家があり、井原 西鶴に傾倒していたというそのバックボーンが、今の大阪の「お笑い文化」の源流でもあり、また、お笑い一辺倒になってしまったように見える大阪文化のお笑いだけではない底力を垣間みることもできます。

 確かアメリカの女性作家がどこかに書いていたのですが(名前を忘れたので思い出したら加筆します)、

ユーモアとは、困難に直面したときの大人の態度

と定義していて、それは浄瑠璃にもチャップリンにも、そして織田作にも共通して見てとれるものなので、なるほどなぁ、と思いつつ、現代の笑わせるか、笑われるかに終始するお笑いを取り巻く社会の現状を思うと一抹の寂しさがあります。

2.お前に思いが残って、死にきれない

 売れっ子となった織田 作之助は、この昭和21年から読売新聞に『土曜婦人』の連載をはじめ、徐々に忙しくなっていきます。そうしてこの年も暮れつつある12月5日、午前2時ごろ、電気コンロを囲んで編集者たちと雑談中、大喀血を起こしました。肺結核でした。

 東京病院(現在の慈恵医大附属病院)に入院しますが、当時は陸軍の兵舎を移築して建てられたボロボロの建物で、織田作は

「これじゃ野戦病院やないか!旅館に戻せや」

と暴れたと言います。

(昭和22年1月)10日の朝、口から回虫が出た。午後から烈しい喀血が再び始まった。暗くなった。手がバタンとふとんに落ちた。付添い看護婦が作之助の顔をのぞきああと声をあげて廊下へ走った。猿田医員がすぐ来た。織田さんしっかり、と言いながら、ビタカンフルを何本も胸に打った。ぱっと目を見開いた。意識ははっきりしていた。かすれた聞き取り難いつぶやきを、昭子は聞いた。思いが残る」

『生きた愛した書いた-織田作之助伝』大谷 晃一 著

 織田作は愛妻家として知られており最初の妻である一枝が亡くなった後、自身が最期を迎えるまで一枝の写真と遺髪を肌身離さず持ち歩いていたといいます。

 作之助が最初の喀血で血を喉に詰まらせて窒息しかけたとき、口付けをして血を吸い出したという二番目の妻、昭子の証言が、若き編集者、阿川 佐和子が手がけた徳川 夢声の対談集『問答有用』に記録されています。

夢声:「死ぬとき、最後のことばは?」
昭子:「それがね、言語道断なんです。酸素吸入をかけられながらいったことばが、お前に思いが残って死にきれない

『問答有用 徳川夢声対談集』阿川 佐和子 編

3.織田作死んでカレーを残す

 織田 作之助の訃報を耳にした太宰 治は、次のように所感を書いています。

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Podcast「チノアソビ」では語れなかったことをつらつらと。リベラル・アーツを中心に置くことを意識しつつも、政治・経済・その他時事ニュー…

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