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(7)愛は優しい世界でも学べると思うんだ

高校卒業後は専門学校へ進んだものの、家庭の状況により、2カ月後には家を出て1人暮らしをすることになった。

それを機に、父からの養育費を直接もらえるようになった。家賃には足りなかったけれど大きな助けではあった。

でも生活費の不足分と学費をバイトで稼ぎながら、学校も行って、資格取得の勉強もするほどの熱意は持てず、学校は諦めてフリーターとなった。

6月に学校を辞めると決めてすぐ、たまたま見たチラシに誘われ、夏休みの1カ月間をカナダでホームステイをしながら過ごした。学費に充てようと、高校時代に貯めたバイト代が100万円以上あったので、そのお金を惜しみなく使った。

帰国してすぐ、賄い付きのバイトを探した。この要素は重要!
当時はしばらくバイトしてお金を貯めたら、1年間カナダで暮らそうと思って帰国したので、就職したいとは思ってなかった。
とにかく生活費を浮かせるために、ご飯も食べられるバイトであれば良かった。

学校には年度末まで在籍して時々顔を出すつもりだったので、そのアクセスも含めて選んで採用されたのが北新地の某飲食店だった。

美しいホステスさんと同伴出勤のお客さんが、夕食を取るのに使うような、少し客単価が高めの老舗のお店。

ここで私の教育係となった当時40代の男性社員が、私にとって人生最大の悪役大スター、Nだ。

18才の世間知らずで、新米バイト。立場は弱い。
きっかけは、店が暇な日は人件費節約のため、1~2人を早く上がらせる店側の指示で、Nと私が21時くらいに一緒に上がった日のこと。

まだ働き出して1か月も立っていなかったから、私はかなり周囲に気を使っていた。

部長に「Nさんにコーヒー奢ってもらえ」と言われ、内心面倒に感じたけれど、それも付き合いかと、Nに誘われて近くのカフェに入った。

キタの地下街は夜でも人が多く、カフェもほぼ満席だった。
特に警戒することもせず、仕事の話や身の上話などをしていた。私はついつい人の話を聴き続けてしまうところがある。

高校時代にも、大阪城公園でデート中に話しかけて来たホームレスのおじさんがいて、寂しそうに地元に残して来た家族の話をするのを聴き込んでしまったり。

間違い電話をかけて来たお兄さんが、「この番号は別れた彼女が使っていた番号で・・・」と話し始めたのでしばらくその話を聴き込んだこともあった。

そういう性分だから、Nの子どもさんに障がいがあることなど、大変な話を聴いているうちに自分が帰る電車の最終時刻を過ぎてしまった。当然バスもない。家までのタクシー代など持っていない。

Nが帰る電車はまだあったので、Nの家の方まで一緒に乗って行ったら車で送れると言われて、信じてついて行ってしまった。

Nは職場では、一番みんなからの信頼も厚く人気者だったし、自分は現金をあまり持っていなかったし、まさかその先にレイプが待っているとは思いもよらなかった。

自分がバカだったからだと思ったし、いろいろ考え過ぎて誰にも言えなかった。性犯罪被害の80%は顔見知りによるものだというデータがある。

職場に行く度に顔を合わせる相手で、周囲との関係性も絡んで来る。
誰にも言えないまま、何とかしないとと1人で闘っていたが、何を言っても曲解されたり、殴られたりした。脅され、性関係を強要され、それでも毎日10時間以上働いて、気力は無くなり、他のバイト先を探すエネルギーも知恵も起きてこなかった。

美味しい賄いも喉を通らなくなり、毎日、何とかつかまらずに家に帰ることばかり考えていた。

見つからずにバスに乗れてほっとして帰ったら、降りたバス停に怖い顔をして立っていたこともある。そのまま夜中じゅう連れまわされ、一睡もできないまま、Nが掛け持ちしていた早朝の新聞配達を手伝わされてから出勤するという、信じられないような事もあった。

休日に、遠く離れた家から頭にタオルを巻いて走って来たこともある。
「思いの強さを示すために走って来た」と嬉しそうに笑う。
吐きそうになるのを必死でこらえ、どうやってこの場を逃げるかを考えていた。

Nはブロック塀を拳で殴って、血を流して痛さに呻いたりしていた。
ドラマのようなことが、目の前で起きていた。

そう、気づけばNにストーキングまでされるようになっていたのだ。
まだその当時はストーカーという言葉も知らなかった。翌年に、「ストーカー 逃げられぬ愛」というドラマで知った。

人々が行き交う賑やかな繁華街で殴られたこともあるし、シャッターを降ろした店に軟禁され、袖の中に隠し持っていた包丁で刺されそうになったこともある。

私にはまったくその気がないと伝えても、「俺に妻子があるから、本当は俺の事が好きなのに嘘をついて身を引こうとしてる」と言われて殴られる。

やがては「分かった」と言いながら「分かってくれ、助けてくれ」と泣き崩れるようになった。

仕事中も私への攻撃的な態度が露骨になり、「18の小娘がNさんを狂わせた」と、パートのおばさま達からいじめられるようになった。

何をやってもダメ出しをされ、意地悪をされ、聞こえよがしに嫌味を言われる。

そんな日々が半年も続いた後、職場で私がNに泣きつかれている場面をオーナーが目撃し、殴られている場面を目撃した複数の従業員からも伝わったことで、Nは即解雇となった。

おばさま達はコロッと態度を変えた。

未成年に対する暴行、傷害、軟禁、付け回し、連れ回し、脅迫、強要、殺人未遂、、、幾つも罪状が並ぶような事件だから警察に被害届を出さないかと、他の社員さんに言われたが出さなかった。

終わった・・・という安堵と、家を知られていることの恐怖。
私のせいで仕事を失ったと、恨まれているのではないかという恐怖。
警察に言うことも怖かった。

解雇された直後、一度だけNから電話がかかって来たことがあったが、それ以来、彼の姿は見ていない。

私も数カ月後にようやく次の賄い付きのバイトを見つけて辞めることにしたが、気が緩んだのか数日間は入院した。胃に穴が開く寸前だったらしい。

病室で思っていたのは、「あの時、刺されなくてよかった。」ということ。

いろいろあっても、私は生きていたい思いがいつも強かった。
幼い時に自分の存在価値を見失い、生きてていいのか分からないまま生きていたけれど、それでも死にたいと思うことは一度もなかった。

どこかで、既に死なせてしまっていた本当の自分を蘇らせて、自分は「在る」ともう一度確かめたいと願っていたのかも知れない。

終わり。

 ・・・

このマガジンはこれで終わります。

この記事は、本当にあったことを、できるだけ重たくならないように書いたつもりですが、気分が重たくなった方がいたらごめんなさい。

私はこの一連の出来事を完全に癒すのに約20年かかりました。

長いことかけて恐怖心を手放し、自分もNも許し、更に長いことかけて感謝へ繋げることはできた。でもそこからどうやっても、愛へ繋げることができない数年がありました。

全ての鍵は、自己愛でした。

深く深く、本当に自分を愛していく。
私がこの話を開示するのは、しんどさを抱えながらも私の話を読んでくれている人達に、心から自分を愛する力を取り戻してほしいと思ったからです。

そのためにはこの話は避けては通れないと思っていたし、この話を書けるようになったと思えたから、noteを書き始めました。

文章を書いたからってその役に立てるかも分からないけれど、でも書きたいという思いに駆り立てられるような感覚がありました。

この一件の後、次の職場の経営者からもセクハラを受け、更に愛人にされそうになったり、お金を追いかけるだけの働き方をして一文無しになったり、自分の身体を酷使し過ぎて寝たきりになったり、祖父母と暮らしたり。

6年ほどの間で本当にいろいろな経験をし、結婚して、母になりました。

15才から9年交際して結婚し、16年の結婚生活を経て離婚した元夫。2人の娘たち、そして自分。親。全ての関係性を通して、私は愛について学んで来たのだと今は思っています。

次のマガジンでは、交際・結婚・離婚・離婚後と、お互いの人生の半分以上の年月を共にしてきた元夫との関係性を題材にして書いていきたいと思います。自分を癒し終えたら、離婚が起きた。そんなお話です。

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