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出会えなかったかもしれない

去年の2月25日、会社の辞令が出て群馬から福岡に戻ってきました。2年ぶりの帰還。あれからちょうど1年になります。

まだ1年経ってなかったのか!と驚く。それほど濃い時間をこの1年過ごしてきました。noteで出会った人たちのおかげです。

もともと群馬に転勤になったとき3年ぐらいいるのだと思ってました。いま所属している部署の本拠地は福岡で、いずれ戻ることは決まってたけど明確な期間は決まっておらず、同僚の過去の滞在実績から推測するしかなくて。だから2年で戻ってきたのは、私の予想より1年早かったわけです。

本当なら群馬にいたかもしれないこの1年間を福岡で過ごしました。そう思うことがいろいろ私を混乱させます。

群馬での仕事は激務でした。詳しく書くと支障があるので書きません。休みもあまり取れなかったけど、休みが取れた日は家族と出掛けるようにしていました。九州にいたら見られないものをたくさん見せると約束して家族を連れてきたから。

大変だったけどツラいとは思わなかった。群馬という土地が好きになっていたし、関東中心にいろいろ出掛けました。家族に約束した通り、九州にいたらできない体験をここでたくさんしました。

厳しい仕事 そして家族と出掛ける未知の土地への興味。光と影の境界が極太の黒マジックで乱暴に塗り分けられた対極の世界を同時に生きてきました。

あと1年と思った矢先の帰還命令。それが去年のこと。あと1年いたいと思いました。そうすれば次男のシュンヤが群馬で中学校を卒業できるから。福岡から転校してきて慣れない土地で新しい友達もできたのに。友達と一緒に卒業するのを楽しみにしてたのに。今回もなかば強引に私が家族を説得して、群馬の部屋を引き払い、引越しさせてしまいました。

心がふたつあるなら、群馬にひとつを置いてきたような感覚が今でも抜けません。本当はまだあそこにいたはずじゃなかったのかと。

もしまだ群馬にいたなら私がこの記事を書いてることはないわけです。そもそもnoteを書くことさえなかった。そんな時間は全くなかったから。そう思うと不思議な気持ちになります。それでは今いるこの世界は何なのか?

まだ群馬にいたとして、今年4月に辞令が出て福岡に戻ったら?そのときはnoteを始めるかもしれない。でもその私が書くnoteは同じものなのか?

たぶんまったく別モノになるのは間違いない。私が書く文章だけど、内容は違うはず。そもそも私のnoteはセッションみたいな感じで、フォローしてる人の記事を読んで刺激を受けて書き始めることも多く、こんなこと考えたから書きますねとその人に宣言して書き始めることもしばしば。フォローさせてもらってる人たちとそんな関係をつくってきました。

でも1年後ではその人に出会えなかったかもしれない。

出会いとはそういうもの。

そんなことをつい考えてしまい泣きそうな気持ちになります。

どちらが良かったのか私には分かりません。

本当なら群馬にいたかもしれないこの1年間を福岡で過ごしました。そう思うことがいろいろ私を混乱させます。もうすぐ春が来ます。


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