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相対コントラスト

人は仲良くなった相手を変えたがる

わたしはこうだ
わたしはこう思う

という「me」の話をしているのに
なぜか

あなたもこうしなさい
あなたはまちがってる

と聞こえているみたいだ。

そうすると、必ず
対抗意識が生まれる。

誰が正しいか、誰が間違っているかの話になる。

相手はわたしにこう言う。

「言い方が悪い」

そう聞こえるような言い方が悪いというのだ。
喧嘩をうってるように聞こえると。

わたしはこう思う。

「相手の考えや提案に違和感を感じるのであれば、それはあなたの中にある〝守りたい〟なにかが「変わりたくない」と言っているからだ」

相手は自分の思考の鏡である。
「共感」とは「鏡観」だ。

相手から感じる「違和感」を自分とは違うと一掃してしまうのは、自分の劣等感(コンプレックス)を鏡に見てしまうのが怖いからだ。

人は自分のことが一番よく見えていないものなのだ。

自分をおざなりにし、相手を優先することを美徳としているのだ。

本当の愛ではなく、「正しい」としてしまっているのだ。

相手を通して感じ得たものを自分の中心に肥やして生まれてくるものしか「確か」だと思えるものはない。

そのシグナルが「感情」なのだ。
感情につまづいたとき、そこに「変化の石」が転がっている。

「いつものつまらない石だ」と邪険にし通りすぎるか、「もしかしたら宝石かもしれない」と拾って磨いてみるか、それは「このままでいい」のか、「気づきたい」のかの違いである。
変化への反応である。

拾ってしまえば、持ち物を増やすことになる、手間を増やすことになると思っている人間には目に見える「確かなもの」以外は無駄なことなのだ。

「相手は自分と同じだ」という視点からしか物事を考えれない人は多くの違和感と劣等感を感じるだろう。

感じたそこに「何が」あるんだろう。

自分の中心に問われている答えを探ろうとするとき、人間が生まれながらに忘れてしまった感覚を思い出す。

人は物の見方ひとつにおいても感じていることはさまざまである。

それは宇宙のパレットが造り出すコントラストだ。

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