日本の伝統的死生観の尊重に基づいた終末期患者心理の弁証法的分解とその応用可能性

I. はじめに − 生死二元論と弁証法的死生観

 「生きている」という状態は我々が主体として存在している限りにおいて自明のことであり、自らの「死」にまつわるクエスチョンが日常において意識下に現れる機会は非常に少ない。ごく稀に、自らの臨死体験や身近な者の死、もしくはそうした場を喚起させるような何かしらの起因に触れることによって、我々は当然のように生きている自分の中にも不可避的に「死」に向かうベクトルが存在することを再認識するのである。時にそれは映画や小説などの作品に触れることによって偶然に引き起こされる。


 「キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのこと学んだ。…それはこういうことだった。『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ。』確かにそれは事実だった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。…(『ノルウェイの森 下』, 村上春樹)」


 他方で、客観的意味を持つ現象としての「死」という言葉は日常的に用いられる。−とあるセレブリティの死は毎度ワイドショーを賑わし、期末試験の出来が芳しくなかった際は「期末死んだわ」などとその悲惨な結果が比喩される。歴史の教科書をめくれば、様々な偉人たちの死を迎えるまでの有様が淡々と書き綴られている。これらに表される日常ボキャブラリーとしての「死」は、前述したような哲学的思索を惹起させるような意味合いを含まない、まさに客観現象としての「死」であり、その「死」を用いる場においては言うまでもなく、仮に「生」と「死」という二つのモーメントがせめぎ合う場を想像するに至ったとしても(例えば歴史上の人物の悲痛な最後を知るなどして)、その場に自らの主体は存在し得ない。このような現象としての客観的な「死」、そしてそれ以外の状態として表される「生」と言う二つの軸によって語られる考えを「生死二元論」と呼ぶこととする。前述したように、その中に自らの主体が自明的に置かれることはない。何らかの対象が「生」から離れ、「死」んだ/「死」にそうであるという客観的状況の叙述の手段以上の意味合いは持たないのである。


 一方で現実感を持った「死」を自らの主体との関係において思索する時、すなわち「生きながらにして不可避的に死にゆく自分」を考える時、その死生観を「弁証法的死生観」と呼ぶことにする。本レポートではこの弁証法的死生観の元で営まれていく「生」と「死」を、終末期患者の臨床という文脈において分析・考察していく。さらにはこうした思考様式の中で、時代をかけて醸成された日本人の伝統的思想ととも呼べるような日本人的死生観という軸を加えることにより、議論にさらなる深みと発展可能性を示すことを心がける。こうした弁証法的死生観に注目するアプローチによって、「われわれは死が当然持っているはずの、継続する生との関係を指摘(加藤, et.al 1977)」することが可能となり、実際の臨床現場において現象として扱われる傾向を免れない生死二元論的意味合いの「死」と比べ、より患者に寄り添った受け入れ易い視点を提示することが可能となるからである。

II. 日本の伝統的死生観が有する弁証法的死生観


 日本の伝統的思想史を分析することは時間的・能力的制約ゆえにほぼ不可能に近いが、日本人の伝統的死生観にまつわる思想を分析することはそうでもない。ここではやや合目的的となるが、論点の簡素化のために日本人の伝統的死生観のベースとなる思想を、①民間哲学・信仰と②武士道の二つに収斂する。


(1) 日本における伝統的民間哲学・信仰
 「日本には昔から「無常観」という、連綿と続く歴史の中で培われた死生観があった。(木村, 神道文化会編 2008)」とあるように、浄土信仰から発した無常観という思想的ベース上に、自然信仰・祖先信仰が立脚する形で日本特有の民間的死生観は形成されてきた。自分個人そのものの「生」を超克し、祖先や自然、そしてさらにはそれらを包括する宇宙と一体化するほどに、「生と死の世界の隣接性、一体性を語る(島薗 2012)」この死生観は、文字化・意識化されることのない民間哲学として、中世以降の封建体制下のムラ社会で醸成され、やがて近代に至る。その民間に根ざした死生観は近代以降、柳田国男や折口信夫らの民俗学者によって取り上げられ、理論化された。とりわけ注目されるべきは、無常観という言葉が表す諦観や厭世観を付帯した「あの世」信仰的なニヒリズムが支配的であったわけではなく、「死と生、死者と生者が隣り合わせにいてすぐに顔を会わせるような世界、生から死へ、死から生へと転換していく円環的な死生観(同)」に根ざした、「「明日」の死を意識しながらも、なおその「明日」をエポケーして「今日」を「今日」として快く生きようとする発想(竹内 2009)」をもとにする生き方の哲学が「遡ってみれば万葉の昔から、ずっと底流していた(竹内 同)」ことである。


 この伝統的死生観は「死」という現象を客観的に見つめる生死二元論の発想からは程遠く、むしろ「生」と「死」との境界が限りなく混ざり合い、一つの生き方を形成するに至る弁証法的発想である。こうした死生観は「近代において、精神的な部分やこころを扱う問題、目に見えないものに対して恐れ畏う気持ちなど、合理的でない部分が否定され続けた結果(木村 同)」、民間レベルの優勢な死生観としては影を潜めざるを得なかったのであるが、前近代の日本哲学と西洋哲学との融和を図った西田幾多郎ら一部の哲学者により、「個体にとって生と死は、絶対にあいいれない(絶対矛盾)が、個体は死ぬことで他の生命を育む養分になる。だから、個体の生死によって「大きな生命」は運ばれており、それは大きな生命そのものである(自己同一)。このように個体の生死の「場所」を「大きな生命」の「場所」(水準)から見て、個体の生死という絶対矛盾を相対化する(鈴木 2008)」という日本固有の哲学を育む土壌となった。


 一方で現代においてもこのような民間哲学・信仰に根ざした伝統的死生観は、その形を変えているものの思想的片鱗を残している。例えば、先にこの世を去った近親者や知り合いがいわゆる「お迎え」に来たという、運命的な「死」を受容させる発想は、その「死」と「生」との距離が限りなく近いという伝統的死生観の継承性ゆえに「私たちの社会において馴染深い、死を飼いならすためのイメージを想起させる文化装置となっている(田代2016)」のである。


(2) 武士道的死生観
 「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり(『葉隠』 山本常朝)」に象徴される武士という役割の死生観は、遅くとも平安末期ごろにはその雛形が形成されていた。例えば「屋島の合戦で源義経を守るために身をもって敵の矢を受けて斃れた佐藤継信のような人物が体現する死生観(島薗 同)」について明治から昭和にかけての日本思想研究家として知られる加藤咄堂は、「身敵箭に斃れて莞爾として更に恨にあらずといふ、これ豈に大和民族が先天的に有せる死生観にあらずや(『増補死生観』, 加藤)」と述べる。こうした原始的な忠義心、すなわち儒教的価値を重視しながら、鎌倉以降の「御恩・奉公の原理」に基づく封建主義のもとで、武士という特殊な職業(すなわち領主、戦闘員、官僚などの役割横断的な役割が規定される)の職業倫理は整っていった。


 こうした背景のもと、前近代日本における「職分の体系」という価値観、すなわち「職分というのは家単位の、家が代々伝える家業上の責務、家職、これを果たさなければいけないものであります。これを果たしていれば身分が低くても胸を張ることができるし、果たしていなければ身分が高くても立場を失うというのが、職分の体系であります。(五百旗頭 2019)」と説明される職業観の中で、武士の職分の内にはその「死」までもが含まれた。武士の「理想の死は戦死であり、武士はできるだけ完璧な死に到達することを中心にすえて、その人生を構築(加藤, et.al 同)」することが当たり前であったのである。その究極例が切腹であった。


 武士の死生観を説明するにあたって、この「職分の体系」の論理に加えて「象徴的不死(加藤, et.al 同)」の概念についても触れておきたい。象徴的不死とはすなわち、自分という人間が死んだのちにも、後の世に生きる人々の中に何らかの形で自分が象徴として残存する様態を表している。この象徴的不死の確信度によって、「死を受け入れる相対的能力が大きくなり、それに対して死の不安は軽減する(加藤, et.al 同)」のである。


 武士道的死生観というのはすなわち、武士道の職業倫理が要求する「死」に方を、「象徴的不死」の概念によって超克する。何故ならば、自分の死に方如何によって、「重要な文化的原理を永続させる(加藤, et.al 同)」ことができるかどうかが決定する、わかりやすく言えば、自分の死に方が自分の集団の名誉を守り、自分が生涯をかけて誓った主従関係を守るのである。ここで説明された論理は、今日どれだけ不思議なものであろうが、「伝統的な日本の文化環境の中では、非の打ち所がなかった(加藤, et.al 同)」のである。こうした論理が底通する中で、「一般に武士たちにとって、来世的なものは情熱的に求められてはいません。ひたすらこちらの共同体において生き切るということが「死ぬこと」の実質的な意味です。切腹という自殺も、その目線はあくまで、残された人々、共同体に向かってなされています。(竹内 同)」と弁証法的に説明されるような、「皆な死を以って天地の大霊に帰すが如くに感じ、迷妄懦弱の観のこれに加わらざることこれなり(加藤 同)」と簡潔に述べられる武士道的死生観が成り立つのである。


(3) 現代にも残る日本の伝統的死生観のモデル化の検討
 武士道的死生観が持つ職業倫理性ゆえに、前近代における民間的死生観と武士道的死生観は、根底における哲学としては入り混じった性質を持っていたものの基本的には相容れない別個の存在であった。近代以降の身分解放と西洋哲学の流入により両者は衰退せざるを得なかったが、その片鱗は現代においても残った。


 民間的死生観は前述したように、「死」との距離性において特徴的な現代的死生観にその思想性は継承された。一方で武士道的死生観は、武士という職業の滅亡とともにその思想の正当な継承者は姿を消したが、前時代の残滓という意味での明治天皇崩御時における乃木希典将軍夫妻の心中事件、そして戦中期の帝国軍的発想としての神風特攻隊やバンザイ突撃の正当化手段として、さらには戦後の三島由紀夫割腹事件といった自己実現の根拠として時代を超えて部分的に継承された。これらは現代日本の思想から見たその異常性は際立つものの、一方では現代において小説として、映画として、美談として語られることにより、そして他方ではその思想的異常性を際立たせたネガティヴなイメージとして語られることにより、その死生観が現代に直接継承されているかについては議論を待つものの、現代的死生観の形成には一定の影響を持ったと言える。


 こうして現代的死生観は、前近代的な伝統的死生観、そして西洋哲学に基づく近代的価値観などの多元的な思想的根拠を持つようになり、その概観を描出するのは難しい。しかしながらその根底における伝統的死生観の影響を読み取ることは可能である。島薗は2008年のヒット映画『おくりびと』にその片鱗を見出す。「死と生は相反するものではない、むしろ表裏一体の何かだという考えが示されている。死があってこその生だ。生から死を切り離して遠ざけることはできないという死生観がほのめかされている、これは現代日本の死生観言説の一つの特徴だ(島薗 同)」。こうして、「「死」と「生」とは切り離されず、今ある「生」に「死」は常に近接しているが、人はそれを(意識的/無意識的に)了解した上で生きていくのである」という現代において捨象された形で継承された伝統的な弁証法的死生観を見出すことが可能となる。


III. 終末期告知を受けた患者心理の分析 − 「とらわれない私」に至るまで


 秋学期第一回臨床死生学・倫理学研究会(2019年10月9日)におけるテーマは、「その人らしい意思決定を支えるケア」であった。この研究会では、実際の臨床現場で働くMSWと看護師の両先生が、ガン告知を受けた患者がいかにして理想的心理状態である「とらわれない私」の発見に至るかに主眼を置いて講義を展開なされた。ここではそのガン告知から「とらわれない私」の発見に至るまでの患者の心理状態の経路を理想的な心理推移であると仮定し、そのプロセスを弁証法的に分析したい。


 「死」に対する連続的な心理的準備を行える老衰や恒常的な病における「死」との付き合い方とは対照的に、ガン告知を受けた患者においては、生的に安定(「死」を日常的に意識することがない)であった自己に「死」という避けようのない現実が理不尽に訪れる。これにより患者自己の内部に、それまで通りに「生きていく私」と、近いうちに高確率で死ぬ「死にゆく私」との矛盾が生起する。すなわち告知以前までは生死二元論的な「死」として認識されていた「死」を、突如自己の主体との関係性において考えられる必要に迫られるのである。この矛盾の生起の段階から、最終的に死を迎えるまでの患者の心理状態の遷移が分析対象である。


(1) 第一段階:告知前の「生きゆく私」と告知後の「死にゆく私」との矛盾

 この段階は、ガン告知を受けてから、自分が近い将来に高確率で死ぬという事実を受け入れるまでの(「死を受け入れた私」に至るまでの)、主として患者内部に発生する心理的な葛藤の第一段階である

画像1


 この段階においては、上図に示されるように、(告知前までの)生死二元論的認識により「死」を他人事として扱っていた自分(青)と、その「死」が近いうちにほぼ確実に訪れる状態にあるという自分(深緑)との対立が自己内部に生じている。すなわち、「『患者にとっての予後告知は、単なる一時の「悪い知らせ』ではなく、その後の人生に「混乱」を生じさせるとともに、大きな『断絶』をもたらす。(田代 同)」のである。こうした中で、自らの主体との関係において近いうちの「死」を考える状態に止揚することで「死を受け入れた私」という次なる心理段階へ到達する。


(2) 第二段階:「死を志向する私」と「生を志向する私」との矛盾
 

画像2

 「死を受け入れた私」の内部でも、破滅的な思考に陥りニヒリズム的になる「死を志向する私(青)」と、死ぬまでの間、何らかの状態で生き続けたい、何かを達成したいなどとする「生を志向する私(緑)」との矛盾が発生し、心理的のみならず、社会的・経済的環境を巻き込んだ上での葛藤が生じる。MSWや看護師、周囲の人間は、主としてこの葛藤の克服に関わる。
 こうして「とらわれない私」という心理段階(=安定)に至るまでが第2段階である。

IV. 理想的な死を迎える場を作ること – 伝統的死生観に基づくアプローチの提案 

 ここでは、前述の2段階弁証法的分解における第2段階である、「死を受け入れた私」すなわち自己の主体との関係性において「死」を捉えるという弁証法的死生観に到達した患者が、「とらわれない私」へ至るまでの、周囲からのアプローチ方法を、伝統的死生観に基づいて提案していきたい。ここにおいて強調したいのは、患者の心理状態を歴史と同一化して考えることで患者の目前の「死」を比較的矮小化して安心させるような即物的なアプローチではなく、患者心理を弁証法的にいくつかの構造へ分解した上で、現代的死生観に基づいた効果的なアプローチを試みることで患者が最終的に自力で「とらわれない私」に行き着くためのソリューションを提供することである。その試みにおいて、特に現代にも継承された伝統的な弁証法的死生観を活用することでこのレポートの新規性とするである。 

 日本の伝統的死生観の成り立ちを今一度俯瞰すると、弁証法的死生観に端を発し、伝統的死生観の形成に至るまでの道のりにおいて最も大きな役割を果たしたのは、❶自己・時間を超えた周囲環境との一体性(民間的死生観)、そして❷役割を果たすことで得られる「象徴的不死」の確信(武士道的死生観)の二つであった。この二つを達成することのできる条件を満たす「場」は現代社会においては当時と比べて少ないと言わざるを得ないが、看護師やMSW、そのほか周囲の関係者の一体の協力のもとで、擬似的にその「場」を作り出すことは可能である。

 一つは「自己の多元性」の認識である。「すなわち、自己というものがそもそも首尾一貫した整合性のあるものではなく、その「成り立ちが個々の場面に依存し、多元的である」という認識がそれである。(田代 同)」ここから提案できるソリューションは、患者が持つ複雑な社会的紐帯を解きほぐし、患者自身が認識しきれていなかったような周囲環境とのつながりを患者、そして関係者に認識させるという方法で理解される。具体的には田代が述べるような、「ある施設ホスピスでは、専任のコーディネーターを置き、ボランティア活動に力を注ぐことによって、患者が施設にいても様々なタイプの人々と出会い、交流できる仕掛けを作っていこうとしている。こうした取り組みは、施設であっても、「複数の自己を生きる自由」を担保していこうとする試みだと見ることができる。(田代 同)」という試みがある。こうして患者が周囲環境との想像だにしない繋がりを持った自己を認識することが、患者の「❶自己・時間を超えた周囲環境との一体性」の把握につながっていくのである。

 二つは「世代間の継承」である。これは「「死に直面した人間にとって、自分がこの世を去った後に自分と関係する何かが生き続けることは、ある種の「死を超えた希望」となりうる(田代 同)」という従来的な認識と同一のアプローチである。これを達成することによって患者は、自らが背負った生物学的・社会的役割を次世代に引き継ぎ、自己の生の充実感・達成感を得ることが可能となる。そして歴史的潮流の中で自らが世代をつなぐ働きを達成したという事実が「象徴的不死」の確信(❷)へと合理的につながるのである。 こうして「とらわれない私」という心理段階(=安定)に至るまでが第2段階である。


 以上のことから患者が「とらわれない私」の発見に至るまでに提供できるソリューションとは、「「死にゆく者から看取る者への「受け継ぎ」について、ケアの提供者が担うべき役割は、患者と家族の間で、患者の暮らす地域の中で、自然な形で「遺すこと」、「受け継ぐこと」が可能になるような「場を作る」ことにある。(田代 同)」という田代の言葉に収斂される。こうした「死」と向き合わざるを得ないという状況に陥らざるを得ないという構造を弁証法的分解によりあぶり出し、歴史・民族性を振り返った上でその伝統的死生観に基づいたアプローチ方法をとることは、患者内部に規定される現代的死生観と違和感なく繋がり、患者が理想的な死を迎えるまでの道筋の一つとなるのである。


V. 参考文献


1. 田代志門, 2016, 『死にゆく過程を生きる:終末期がん患者の経験の社会学』世界思想社
2. 村上春樹, 1987, 『ノルウェイの森 下』講談社
3. 竹内整一, 2009, 『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ちくま新書
4. 鈴木貞美, 2008, 『日本人の生命観 神、恋、倫理 』中公新書
5. 島薗進, 2012, 『日本人の死生観を読む:明治武士道から「おくりびと」へ』朝日新聞出版社
6. 加藤咄堂, 1906, 『増補死生観』井洌堂
7. 山本常朝, 1716年頃, 『葉隠』
8. 加藤周一・Mライシュ・RJリフトン, 矢島翠訳, 1977, 『日本人の死生観 上』岩波新書
9. 木村恭子, 2008, 「日本人の生命観と神道」神道文化会編『神道と生命倫理』弘文堂
10. 五百旗頭薫, 2019, 『日本政治外交史講義録4/9』, 2019年夏学期法学部試験対策委員会編

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?