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パリ五輪開会式の演出を終末論的に(?)読み解く(その1)

パリオリンピックが始まった。
開会式は、3年前の醜態と違って、お洒落でカッコいい演出があるんだろうなと、ちょっと期待していたのだが、想像をまったく超えたカオスだった。
見終わっての最初の感想は「みな狂う」。

  • :ミスが多い

  • :長い

  • :クセがすごい

  • :ルーズ

  • :ウザイ


しかし、あちこちに違和感や謎を感じて、最初から見直してみると、かなり怖ろしい暗喩があちこちに散りばめられているのではないかという解釈もできることに気づいた。
ネット上でも様々な書き込みがされている。
「キリスト教の冒瀆だ」「フランスもついにグローバリストに支配されたのか」「死神が聖火を運び、五輪旗を受け取って上下逆に掲揚するとはIOCへの辛辣なアンチテーゼか」などなど。
そんな風な解釈も可能な演出を細かく計算したとすれば、それはそれで凄いことだが、まったくそんな気はなくて、ただただ能天気に自由だ革命だLGBTQだと盛り込んだだけなのかもしれない。
でも、せっかくだから、思いきり穿った解釈も織り交ぜて振り返ってみようではないか。

NHKのポカミスは開会式前から

NHKアナウンサーのわざとらしい元気な声と優等生的な喋りに耐えられないから開会式は見ない、という人がいた。今回は各放送メディアに演出内容を一切知らせないままスタートしたらしくて、良識に縛られたNHKのアナウンサーはミスの連発だけでなく、ただただ呆然として無言のままというシーンだらけだった。
これは一瞬「LGBTもここまで来たか」と思ったが、単なるNHKの凡ミスだった。

スタートは、開会式会場を競技場だと間違えた男(コメディアン)から聖火を受け取ったジダンが街中を疾走して会場まで届けようとするという場面を作り物映像で。この街は時代を少し遡ったジオラマかな。

ジダンは聖火を持ったまま切符を買って地下鉄に乗り込むが、ホームから動き出した直後に止まってしまう。奇しくも前日に実際に起きた高速鉄道でのテロを思い起こさせる。そこに、街中で聖火を持って走り抜けるジダンを見つけて追いかけてきた子供たち(スケボー、BMX、キックボードで遊んでいた=子供たちにとっての遊びやスポーツが変化していて、五輪にも採用されてきていることを象徴)がやって来た。ジダンは地下鉄車両の窓を開けて子供たちに聖火を手渡す。

聖火を運んだのは「死神」?

子供たちは地下鉄の線路から地下の墓地に入っていく
ここですでに「死」が暗示される
ワニも泳ぐ地下水路に、顔を隠した怪しい人物がボートで現れ、子供たちを乗せる(おいおい)

怪しい人物(死神?)と子供たち(と聖火)が乗るボートは濁ったセーヌ川に出て行く↓。その後ろに、各国の選手&スタッフを乗せた85隻の船が続く。


「入場行進」はIOCの規定でやらなければならなくなっている。それを船でやったというのは画期的。だけど、船の格差も話題になった。↑これなんか難民船かと思うよね。
一方、フランス選手団は豪華客船並みの大型船を占領↓

インサートでメイン会場のマクロンとバッハが映し出される。会場には謎の動物の像も
その後、レディ・ガガのパフォーマンスとかが挿入されつつ、セーヌ川沿いの有名建造物と一緒に様々なパフォーマンスが披露される
↑↓このへんのパフォーマンスはなかなかよかった。このくらいで十分だったような……?
ルイヴィトンの工場。でかいバッグを縫い上げている。タイアップですかね

顔を隠した(というか、顔のない?)謎の人物(以下、便宜上「死神」と記す)は造幣局に入っていく。

そこでは五輪メダルが作られていた

作られたメダルは死神が見守る中、ルイヴィトンで製造された大きなバッグに収納されて運び出される↓。

生首が革命歌を歌う

そこでいきなり戦いと殺戮の映像がインサートされる
フランス革命。LIVERTÉ(自由)の文字
マリー・アントワネットの首が革命歌を歌う

「子供には見せられない」「オーストリアとまた戦争する気か?」「五輪開会式に歌う生首とは正気か?」などなど、今回、最も議論を呼んだシーン。
このマリー・アントワネットの生首が歌っていたのは「サ・イラ」という革命歌。
オリジナル版は「反逆者どもを物ともせず、すべては成功するだろう」くらいの歌詞だったのが、革命がピークに達すると、

「われらはもはや貴族も聖職者ももたぬ
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
平等があまねく支配するだろう
オーストリアの奴隷もこれに従うだろう
そしてそれらの忌々しき連中は
地獄に落ちるだろう
貴族どもを街灯へ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!
そして全員を吊るしてやったら
奴らのケツにシャベルを突き刺してやれ」(Wikiより

……みたいな過激な歌詞になっていたそうな。 開会式で首が歌っていたのはどっちのバージョンだったんだろう。このマリー・アントワネットの生首が歌っていたのは「サ・イラ」という革命歌。
オリジナル版は「反逆者どもを物ともせず、すべては成功するだろう」くらいの歌詞だったのが、革命がピークに達すると、

「われらはもはや貴族も聖職者ももたぬ
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
平等があまねく支配するだろう
オーストリアの奴隷もこれに従うだろう
そしてそれらの忌々しき連中は
地獄に落ちるだろう
貴族どもを街灯へ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!
そして全員を吊るしてやったら
奴らのケツにシャベルを突き刺してやれ」(Wikiより

……みたいな過激な歌詞になっていたそうな。 開会式で首が歌っていたのはどっちのバージョンだったんだろう。

その騒ぎを見下ろす「死神」
多くの窓には生首が並ぶ。そこにゴンドラ舟に乗って登場する歌姫
ついには盛大な血しぶきが舞い上がる
下で血しぶきをかぶっているのは聖職者たちだろうか

性と恋愛の自由をしつこく主張する

外では棹の上に串刺しのように乗っている女たちが揺れる。それを見下ろす謎の人物

場面は図書館の中に移動。若い女の子が本を読んでいる。「ROMANCES SANS PAROLE」(言葉のない恋愛)

ポール・ヴェルレーヌが1874年に発表した短編詩集。この詩集でヴェルレーヌは、「現実の曖昧さと、正確に投影された意味の欠如をよりよく表現したい」と考えた。タイトルはフェリックス・メンデルスゾーンのピアノ曲集から拝借した。(Wikiより)

女の子が見つめている青年が読んでいるのは「ON NE BADINE PAS AVEC L'AMOUR」

1834年にアルフレッド・ド・ミュッセが発表した3幕の戯曲。ミュッセは24歳の時、詩による草稿の後に散文でこの戯曲を書き、軽い感傷的な筋書きに基づく世俗的でマイナーな演劇ジャンルである箴言というジャンルを選んだ。しかし最終幕では、ロマン派劇の影響を受け、挫折と死が登場し、このジャンルから離れた。(Wikiより)


その女性を見る別の青年(中性風)
「シンプルな情熱」
「セックス(性)と嘘」
「身体の中の悪魔」
「危険な接合」
女の子が見ていたのはこの青年。書架から出した本は「素晴らしき恋人たち」
外では女たちが相変わらずこうで……
そこに上空から男が手を差し伸べて……
女性を引っ張り上げる。女性解放を暗喩?
図書館では3人の若者たちが本をバラバラにしてぶん投げて
「愛のトランペット」
「書を捨てよ街へ出よう」ですかね
そして3P完成
そういうこと! ……らしい

ハイハイ。
この「多様性を受け入れて」「愛の形も多様であれ」みたいなメッセージはこの後も嫌というほど続くのだった。

ちょっと長くなってきたので、もう寝る。
続きは明日にでも、次のページで……


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こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。