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馬鹿が作った日本史(35)江戸「無血」開城の裏側

イシ: 西郷は京都での戦いに敗れることを覚悟していた。それだけに、いきなり慶喜が逃げ出したのには、喜ぶというよりも驚いただろうね。
 もちろん残された旧幕府軍はもっと信じられない思いだっただろう。
 そこからはもう目もあてられない。今まで徳川政権についていた諸藩も雪崩をうつように薩長軍側に寝返った
 慶喜・容保と一緒に藩主・松平定敬さだあきが一会桑政権の一員だった桑名藩や、大老・井伊直弼を出した彦根藩までもが薩長側についてしまうんだから、もうどうしようもない。
 ここからは一気に、日本を東西に分けた「東西戦争」の様相になっていく。
 しかも、東軍は会津藩や庄内藩を擁護するために結成されたのに対して、西軍は会津や庄内藩に恨みを持つ長州と、徳川の力を徹底的に潰さないと怖くて仕方がない薩摩が、必要のない戦闘を強行するという形だ。

松平定敬(1847-1908)
桑名藩主。尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主・徳川茂栄、会津藩主・松平容保の弟(末弟)。満17歳で京都所司代。14代将軍・徳川家茂の上洛の際に京都警護を勤めるために随行。鳥羽・伏見の戦いでは会津藩と共に戦うが、敗れた後、慶喜に従い江戸に逃亡し、霊巌寺にて謹慎するが、兄の容保と共に徹底抗戦を主張する。しかし、藩主が留守の国もと桑名では、家老以下、薩長軍に恭順するか抗戦するか、あるいは城を明け渡して江戸にいって藩主・定敬と合流してから決めるかなどを巡って大混乱になった末、恭順が決まる。 定敬は幕臣・大久保一翁の勧めで桑名藩の飛び地領・越後国柏崎へ渡航。その後、会津に移動して兄の容保と合流。仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡る。箱館戦争終結前に従者と共にアメリカ船に乗って上海へ渡ったが、金が尽きて横浜に戻り、降伏した。 明治5(1872)年に赦免されると、横浜でアメリカ人宣教師に英語を学び、その後、私塾を開校。西南戦争では旧桑名藩士を率いて遠征させられた。晩年は兄・容保が務めた日光東照宮宮司を引き継いだ。明治41(1908)年、満61歳で没。

 日本を丸ごと大混乱に陥れてしまった慶喜の無責任ぶりは、常識外れというか、トンデモの部類だね。
 江戸に逃げ戻った後は、徹底抗戦を主張する幕臣や諸侯を次々に解任させ、自ら寺に籠もって謹慎している。これはもう戦にはならないわけだけど、薩長や板垣率いる土佐藩の軍は慶喜の首を取ろうと江戸を目指して兵を進める。
 そこで慶喜は、大奥の天璋院(薩摩出身)や和宮(朝廷から降嫁)に自分は隠居して謝罪するので、徳川家の後継ぎを選んでくれなどという内容を伝えてほしいと頼むけれど、大奥側は当然冷淡。謝罪の意だけは伝えるけれど、他のことは知りません、と言われる。命乞いなど恥ずかしくてできない、ということだね。
 そこで、それまで冷遇していた勝海舟を呼んで、全面降伏するから命だけは……みたいな交渉を西郷とさせる。
 その結果、江戸城は明け渡されたわけだけれど、これには英国公使・パークスの圧力もあった。
「降伏している敵の大将の首を取るというのは国際法違反の野蛮な行為だ。そんなことをしたら、国際社会は新政府を反逆者たちによる野蛮政権と見るだろう」と叱りつけた。
 まったく正論なんだけれど、本音としては、江戸を火の海にされたら、その後の貿易や傀儡政権設立計画の負担が増えてしまうから困る、ということだろうね。

凡太: イギリスは内政不干渉と言ってましたよね。

イシ: そうだよね。でも、しっかりこういうところでは干渉している。というか、表には出てこないけれど、サトウやグラバーを通じて、パークスと西郷の関係というのは、ものすごく深くて謎めいたものがあったように思うよ。

  • 慶応4(1868)年3月3日(3/26) 西郷の命令でテロ活動をしてきた後、西軍の先鋒として赤報隊を率いた相楽総三が「偽官軍」とされ、処刑される。

  • 3月5日(3/28) 板垣退助率いる土佐藩・迅衝隊が甲府城に入城。翌日、甲州勝沼で甲陽鎮撫隊と名を変えていた近藤勇率いる旧新撰組の部隊を撃破。

  • 3月6日(3/29) 駿府に進軍した倒幕軍が軍議で江戸城総攻撃を3月15日と決定。

  • 3月9日(4/1) 山岡鉄舟が、勝海舟に保護されていた薩摩の益満休之助を案内役に立て、駿府で西郷と対面。海舟の手紙を渡し、慶喜が完全恭順する意向だと説明。朝廷に取り計らうよう頼む。西郷が出した条件をほぼ了承し、江戸開城について大筋で合意させた。

  • 3月11日(4/3) 幕府直轄領である八王子を固める八王子千人隊が、板垣の隊が迫ると速やかに武器を差し出して降伏。

  • 3月13日(4/5) 勝が西郷と会って講和協議。パークスも圧力をかけて江戸攻撃中止が決定される。

  • 3月14日(4/6) 勝・西郷の最終協議にて、勝は「慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎させる」「江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預ける」などを提案。西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止に。

  • 3月14日(4/6) 長州の参与・木戸孝允らの指導で、公家と諸大名に向けて「五箇条の御誓文」を発布。

  • 3月15日(4/7) 一般大衆に向けて「五榜の掲示」を発布。

  • 4月11日(5/3) 江戸城の引き渡し。城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に。慶喜は謹慎のため水戸へ。

  • 4月12日(5/4) 榎本武揚、旧幕府艦隊の引渡要求を拒否し、軍艦8隻を率いて江戸を脱出。その後、説得されて4月17日に4隻を新政府に引き渡す。

  • 4月21日(5/13) 東征大総督・有栖川宮熾仁親王が江戸城に入り、江戸城が完全に新政府の支配下に。

  • 閏4月1日(5/22) 大坂城にてパークスがビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出し、イギリスが明治政府を最初に正式承認した国となる。

凡太: ここまではあっさりと江戸が新政府側に引き渡された感じです。ドラマなどでも、勝・西郷会談がいちばんの見どころみたいになってますし、二人の決断で江戸が火の海にならなかったと。

イシ: 歴史の授業では「江戸無血ヽヽ開城」ということだけが強調されるけれど、そこに至るまでの西郷らの悪行は許せるものではないよ。
 相楽総三なんて、西郷にいいように利用されるだけされた挙げ句、斬首されている。江戸を中心にテロを繰り返させたことを封印するためだというのは明らかだよ。
 ある意味、相楽総三は戊申クーデターの性格を体現したような人物だね。
 少し説明しておこう。

 相楽は下総相馬郡の豪農の息子として江戸の赤坂で生まれている。家は旗本に金を貸すような富豪で、その潤沢な資金を背景に十代から国学を学び、20歳では私塾も開いたそうだ。
 その後、尊皇攘夷思想にかぶれ、北関東から越後、東北を回って、あぶれている浪人や荒くれ者たちを集めた。そうした私設傭兵団みたいなものを率いて、上野国赤城山挙兵や天狗党の乱なんかに参加したものの、失敗や決裂でうまくいかない。
 そんなときに、西郷、大久保、板垣といった倒幕派に見込まれ、拾われる。まず、板垣が土佐藩に無断で相楽らを江戸の土佐藩邸に匿う。その後、薩摩藩邸に引き取られ、西郷の命令で500人規模の不良浪人や博徒、つまりヤクザ者などを集めて、江戸を中心としたテロ活動を展開する。その資金は父親から無心したようだ。
 この大規模テロ展開作戦が成功して、挑発に耐えきれなくなった幕府側が薩摩藩邸に犯人引き渡しを求め討ち入りし、薩摩藩邸が焼けると、うまく逃げ出した相楽は京都に向かった。
 そこで西郷、岩倉具視らの後ろ盾のもと、朝廷太政官に東征軍の結成を願い出る建白書、嘆願書を提出した。太政官からは、「今すぐ東進し、これからは天皇の時代になると伝え回れ。その際、今までよりも年貢を半分にするとも伝えよ」という内容の勅定書を受ける。
 年貢半減という言質は、当時、各地で農民による「世直し一揆」が多発していることを考慮して、そうした幕府への不満をうまく新政府側に取り込みたいということからだ。そんなことは無理だと分かっていたんだが、とにかく今は庶民を新政府軍の側につけておきたいということだね。
 朝廷のお墨付きだということで、ますます張りきる相楽は赤報隊を結成し、新政府軍の東山道軍先鋒として東進した。しかし、新政府軍の優勢が確定的になったのちは、相楽は新政府にとっては邪魔になった。このへんで始末しておこうということで、相楽は朝廷の命に従わず勝手に動いた賊軍であり、年貢半減も相楽らが勝手にふれ回ったとして、東山道軍は信濃各藩に赤報隊捕縛の命令を下した。最初からそのつもりだったようで、相楽に下した勅定書には印が押されていなかった。
 そんなこととは知らず、北陸雄藩と江戸のルートを遮断するべく進軍していた赤報隊は、2月17日に追分宿で小諸藩などに襲撃され惨敗。相楽は驚いて大垣に戻って総督府に出頭し、生き残った仲間の釈放を願い出たが、捕らえられ、3月3日、下諏訪宿の外れで幹部クラス7名と共に処刑された。相楽の死を聞いた妻は、幼子を残して後追い自害した。
 同じように、公家の高松実村を盟主とした高松隊も「偽官軍」とされて、主導した者たちが処刑された。

凡太: 使い捨てどころか、口封じのために殺してしまうなんて、ひどすぎます。

イシ:  相楽は薩摩からのテロ作戦終了の命令に従わず、それ以降も勝手に動き回ったために粛清されたという人もいるけれど、そもそも相楽に暴れるように命じたのは誰か、と言いたいよ。西郷らは、江戸でのテロ作戦の証拠隠滅をしておかないと、政権をとった後も都合が悪かった。相楽たちは完全なスケープゴートにされたんだ。

 見捨てられたという意味では、新撰組も同じだね。
 江戸開城計画を決めた勝海舟は、新撰組が江戸にいるとスムーズに事が進まないと懸念した。そこで新撰組の近藤勇に「幕府直轄領の甲府に行って新政府軍を抑えてほしい」と命じ、新撰組を体よく江戸から外に出した。
 甲陽鎮撫隊と名を変えた新選組は甲州勝沼で西軍と戦闘状態になり大敗。その後、散り散りになっていく。
 これはもう、勝による厄介払いだね。

 それと、西郷と勝による会談で江戸無血開城が実現したというのが一種の友情物語のように美化される傾向があるけれど、これも注意が必要だ。
 江戸城引き渡しと慶喜の安堵については、江戸での勝・西郷の会談の前に、勝に命じられて駿府へ趣いた山岡鉄舟がすでに大筋で合意させている。敵陣に単身乗り込んでいった山岡の行動があってこその会談成功だったことも忘れてはいけない。
 その際、山岡は西郷に、甲府での新撰組の戦闘について「あれは脱走兵が勝手にやったこと」と言いきっている。甲府行きを命じたのは勝なのに、新撰組もまた、もはや用なし、邪魔だとされて切り捨てられたんだ。

月岡(大蘇)芳年・画「勝沼駅近藤勇驍勇之図」 大善寺門前で仁王立ちする近藤

 さらには、江戸開城は、勝の説得というより、パークスによる圧力が大きかったんじゃないかな。
 西郷や大久保はグラバーやサトウを通じて、イギリスの後ろ盾がなければ倒幕は絶対に無理だと悟っていた。長州の木戸らもそうだ。パークスが江戸攻撃を避けさせようとしていたことが決定打だろうね。
 もちろん、山岡や勝の交渉術もあってのことだろうけれど、イギリスの意向なしで西郷は江戸攻撃を中止しただろうか。
 勝は、敵前逃亡する情けない主君の慶喜より、冷酷、狡猾ながら絶対的なカリスマ性と剛胆さを持ち合わせる西郷のほうが、天下の趨勢を決する一大局面でははるかに怖ろしい存在であることを知っていた。坂本龍馬は勝の教え子だから、当然、薩摩の後ろ盾がイギリスであることも知っていた。そうした構図を分かった上での交渉だったはずだ。
 勝は西郷説得に失敗して江戸で戦闘が始まったときに備えて、江戸焦土作戦も考えていた。江戸を焼き払うことで戦いを有利にするという、まさにやけっぱち作戦で、実際、どこに火をつければ一気に燃え広がるかを知っている火消しの棟梁・新門辰五郎や、住民を千葉方面に逃がすために船頭たちと話をつけていた。

凡太: そうならなくてよかったです。

イシ: まったくだね。

勝海舟(1823-1899)
幕臣。江戸本所生まれ。6歳のとき、大奥にいた親戚の紹介で11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞の遊び相手として江戸城へ召される。9歳のとき、狂犬に陰嚢を一つ噛み取られ、生涯、犬嫌いとなったエピソードは有名。
ペリー来航後、広く意見を求めた老中・阿部正弘に意見書を提出して認められ、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任命される。 長崎海軍伝習所に入門し、オランダ人教官との連絡役も務めるが、船酔い体質と、語学はいいが数学が苦手なことで成績抜群とはいえなかった。 万延元(1860)年、日米修好通商条約の批准書交換のため小栗忠順らが渡米した際、護衛名目で別艦(咸臨丸)で福沢諭吉(軍艦奉行・木村喜毅の従者として)、ジョン万次郎(通訳)らと共に随行するが、船酔いでほとんど動けず、後に福沢はそのときの勝の体たらくと空威張りぶりを『福翁自伝』の中で書いている。 帰国後は公議政体論を唱え、軍艦奉行に昇進するが、禁門の変の後、幕府の弱腰ぶりなどを批判したなどで危険視され、罷免され、2年間蟄居生活を送る。この時期、西郷に会って意見交換。 慶応2(1866)年、薩長同盟成立後に蟄居を解かれて軍艦奉行に復帰。会津と薩摩の対立解消を任されるが失敗。 鳥羽伏見の戦いで慶喜が江戸に逃げ帰り、抗戦を主張する小栗忠順が罷免された後は、陸軍総裁を任命され、江戸城の非戦開城を軸とした恭順工作に取りかかり、結果、江戸城は戦うことなく引き渡された。 明治以降は外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任したが、いずれもすぐに辞任するなどして明治政府とは適度に距離を置いた。明治32(1899)、満75歳で脳溢血で死去。

 勝は西郷との会談の後、パークスとも会っている。その際、完全降伏している慶喜の首を要求する西軍の野蛮さを嫌悪するパークスと、慶喜の命が取られるような事態になったら、今からでも江戸中に火を放って抗戦するとほのめかした勝との間で、慶喜の安全を保証する密約のようなものが交わされたらしい。
 パークスが、慶喜の命が狙われるようなら、軍艦でイギリスに亡命させてもよいとまで言ったのを受けて、勝は、それならしばらくの間、イギリスの軍艦を横浜に停泊させておいてほしいと頼んでいる。イギリスがしっかり見ているぞ、と、薩長に睨みを効かせてもらう意味で有効だと踏んだんだろう。
 パークスとしても、ここまでうまく進んだ倒幕の最後に無意味な争いで汚点を残したくない。慶喜の首云々よりも、江戸が焼失することで貿易が困難になるのは困る。勝とパークスの利害が一致したわけだ。

 勝海舟という人は、とにかく世渡りの才能に長けていた。刻々と変化する政情を観察し、常に自分は一歩身を引いた場所にいて、ピンチをうまく切りぬけている。
 そうした行動が、明治まで生き延びた幕臣たちからは嫌われている。福沢諭吉は『痩せ我慢の説』で勝をケチョンケチョンに批判しているし、栗本鋤雲に至っては、勝と顔を合わせた途端、問答無用で怒鳴りつけたという。
 勝にももちろん言い分はあるだろうけれど、徳川政権の終わり方がボロボロだった象徴のようだね。

 そんなわけで、江戸城は戦わずして引き渡され、慶喜の首もつながったわけだけれど、これをもってして「無血」開城というのは、誤ったイメージを植えつけるように思うね。血が流れなかったのは慶喜だけで、優秀な幕臣たちはことごとく血を流している。諸外国との交渉で超人的な働きをしてきた川路聖謨はピストルで自害。渡米して金の交換レートが不公平だと訴え、帰国後は横須賀製鉄所などを作って国の近代化に努めてきた小栗忠順は捕らえられ処刑された。
 会津藩の神保修理切腹させられ、尾張藩では藩主が「朝命」に従って家老・渡辺在綱以下14名を処刑(青葉松事件)。
 そして江戸城引き渡し後にも、市川・船橋戦争、五井戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、箱根戦争……と、各地で局地戦が起きて大勢死んでいる。
 また、江戸に入ってきた西軍の兵士たちは、自分たちは「官軍」だと主張するため、肩に「きんぎれ」と呼ばれる錦の布を縫い付けていた。その中には、一般庶民に難癖をつけて「無礼討ち」だとして斬り殺したり、民家に押し入って強奪、強姦をしたりする連中もいた。江戸庶民には「錦ぎれ」は憎悪の対象になった。
 やられっぱなしでは江戸っ子の名が廃るというのか、その錦ぎれをむしり取ってさっと逃げる男が現れたそうだ。このハヤブサのような男に江戸っ子たちは大喝采を送った。
 当然、西軍はこの男を捕まえようと躍起になって追いかけ、万世橋で捕まえた。その男は見守る江戸庶民の前で啖呵を切って斬られた。懐からは奪った錦ぎれが50枚以上出てきたそうだよ。(東京日日新聞社会部編『戊申物語』)
 しかし、この男が西軍兵士に伐られた後も、江戸市中に残っていた佐幕派有志たちが結成した彰義隊の一人、岡十兵衛が錦ぎれ取りを続け、江戸庶民の喝采を浴びたそうだ。

凡太: 彰義隊って、上野戦争で全滅するんですよね。

イシ: そうだね。生き残って、その後の東北戦争にも参加して、最後まで西軍と戦い続けた者もいたそうだけれど、そのへんはまた回を改めよう。


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