「世界全体」を騙せる者たち
ナノハナを食う
これからの食糧危機・飢餓時代に備え、玄米をいつもより多めに保管しておきたいなと思う。白米は今でもスーパーやドラッグストアで安く買えるのだが、玄米を売っている店が思い当たらない。
近所の農家や直売店から玄米を直接買えないかなあ……とFBで呟いたら、思いのほか多くの人たちから反応があって、ちょっと戸惑ってしまったくらいだった。
自分のような人間のことを気にかけてくださる人がいっぱいいると改めて知って、ありがたかった。
そんな流れの中から、8年前に一度だけ会った農家の青年(8年経ったからもう十分におっさんか?)から連絡があり、じゃあ、とりあえずお試しで……と、少しだけ届けてもらった。
米よりも、彼と再会したかったということが大きい。
夜になってまっ暗な中、玄関前で立ったまま長話になった(あんなところでゴメンねゴメンね~)。
お土産にナノハナ、餅、麦茶までいただいた。菜の花はさっそくおひたしにして美味しくいただきました。感謝。
都会のミニマリスト
いろいろ面白い話が出た。
都会でミニマリストなどと自称している人たちは、逆に、モノがたくさんある便利な世の中だからこそそういう生き方ができるのであって、これから訪れる物不足の社会を生き抜けないだろう、とか、
無農薬とか天然なんとかと謳っている商売で成功している人たちは、本来の物づくりよりも自分の商売の宣伝に力を入れていることが多い。本当にいいものを作ろうと頑張っている人たちは自分の場所に籠もって仕事しているから、世間に知られることがなく、苦労している、とか、
家畜の糞は一度食物を消化している残りカスだから、有機肥料といっても養分をある程度吸い取られた後の肥料だ、とか、
生産物をネット販売するというのは、遠距離輸送して物流のエネルギーを使うのであまりいいことではない。地域で生産と消費が完結したほうが省エネルギーである、
……といった、興味深い話がいろいろ聞けた。
その一部は、「ぷちぷちサミット」にも取り入れた。
こういう話を多方面から仕入れて、自分の頭の中で整理し、消化する。それが大事なのよね。
情報の真偽が分からない時代
情報も思考も、そのまま取り入れてはいけない。
情報は真偽がどんどん分かりづらくなっている。う~暗いな紛争(というか、実質は米露の戦争)の報道なんかその典型で、どこそこでこんなヒドい虐殺があったという報道にしても、誰の手によるのかは分からない。
現地に直接行って確かめることはできないのだから、メディアが報道することで情報を得るわけだが、そのメディアが信用できなくなっている今、事実を知る術がない。
物事の考え方も、なるほどな、と思っても、そこで一旦止まって、じっくり反芻しながら別の視点を捜したり、細かな修正を試みてみる。
マスメディアが極端に片寄ってしまっている今の日本では、一部の変わり者や情熱を持った人たちが掘り起こしてくる情報を集めるしかない。
それには大変な時間と労力が必要で、ほとんどの人はできないだろう。私のような暇人でも、とてもやってられないな~と思う。
瞞された人がみんな不幸になるとは限らないし、事実を知ろうとして不幸が増す人もいっぱいいるだろう。
個人がどんなに努力しても、勇気をもって行動しても、世界の流れを変えることはできない。
ここ数年、特に媚徒(こびっと、と読んでね)で世界が作りかえられるのを目の当たりにしてからは、「どうしようもないな~」という諦観しかない。
どうしようもない世の中は、多分、今に始まったことではない。だから嘆いていてもしょうがない。
媚徒(倭苦珍)にしても「う~暗いな」にしても、話題にするだけで対立・分断が起きてしまうので、自然と触れないようになる。(noteでもワードチェックで自動的に冒頭にウザイ表示が入るので、こんな表記をする羽目になる。ほんとにしょーもない)
これこそまさに、「世界全体」を瞞そうとする者たちにとって思うつぼだろうが、個人としては自衛もしなければいけないので仕方がない。
話して理解してもらえるならいいのだが、そうではないということが分かってきた。話をすることで仲間が増えるよりも、今まで築いてきた人間関係が壊れていくことのほうが多いのであれば、どうしても本質に触れる話をしないようになってしまう。
対立は疲れる。すでに何度も経験している対立ならなおさらのことだ。
「なんちゃって宗教哲学(3)」の最後の部分を少し書き直してみた。
「……と考えてみることも無駄ではないと思われる」なんて、歯切れの悪い書き方をしながらも続ける意味はあるのか?
ほんと、こういうのって疲れるのに、やめないのが、「物書き脳」の哀しき性なのかな。
養老の滝
オマケとして、⇒こんなのも
最近、養老さんの話をときどき珈琲代わりに賞味している。YouTubeはこういうところ、ほんとにありがたいね。
養老さん、言葉が流れ落ちるようにどんどん出てきて、聞いているほうはそれを浴びることでひとつひとつ気づかされ、なんか悟りに少し近づいたような気になる。
まさに養老の滝だな。
子どもを見るたびに切なくなる
郵便局にご注文の本を出しに行ったついでに、久々にフレッシュマートへ寄った。
店の前に置いてある古いガチャガチャ↓の前に小さい男の子がいて、私がそばに涼風号MarkIIを停めると、「こんにちは」と挨拶してきた。
それだけでなく「ガチャガチャの鉄のハンドルが熱くてやけどしそう」とか言ってくる。
「どれどれ」と触ってみたら、ほんとに熱かった。
こっちはまだ冬の防寒帽子にビニール地のコート着てて、汗がダ~ダ~ダ~。
「ほんとだ」と言ったまま店内に入ったのだが、今思い起こしてみると、あの男の子はもしかして「熱くて触れないから手伝って」と助けを求めていたのだろうか。だとしたらさっさと店内に入ってしまって悪いことしたなあ。
店内では店主の妻さんであるばあちゃんが「早く死にたいのに、うちの家系はみんな長生きで嫌になる」とぼやいていた。父親は103歳、母親は96歳まで生きたんだとか。
「そう言わずに、この店がなくなると困るんだから、頑張ってくださいよ~」と言って店を出た。
店の外にさっきの男の子の姿はもうなかった。
「鬼殺の刀」は手に入ったのかな。
あの子も親に言われて倭苦珍を打たされる(すでに打ってしまった?)のだろうか……などと考えると、また鬱になってしまうので、考えまいとする。
こんな日々がいつまで続くのだろうか。
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。