コーチ物語 〜明日は晴れ〜 クライアント7 明日は晴れ!
「じゃぁ、軽部のやったことを見逃したってのか?」
「見逃すも何も、軽部くんは何もしていないよ。ただ紅竜会のチンピラに連れ去られた彼女をボクと一緒に助けに行った。ただそれだけのこと」
羽賀さんの事務所。私は羽賀さんを尋ねてきた唐沢さんとの会話を聞きながらお茶を入れている。時間はもう夜の八時を過ぎている。
「それにしても羽賀くんらしいわね。でもそんなことでこれから大丈夫なのかしら?」
もう一人、和菓子をおみやげに持ってきたファシリテーターの堀さんもいる。
「舞衣さんも早く来てぇ。この和菓子、全部種類が違うからジャンケンでどれにするか決めましょ」
「はいはい、ミク、焦らないで」
ミクは堀さんの持ってきた和菓子を目の前に、今にもよだれを垂らしそうな勢い。いつもならミクは帰る時間だったけれど、ちょうどのタイミングで唐沢さんと堀さんが来ちゃったものだから。私もお店を閉めて、ちょうど部屋に上がろうとしていたところだったので、そのままここに居座ることに。
私の本職はお花屋さん。お母さんがこのお店をやっていたけれど、病気で死んじゃって。けれど、その意思を継いでいこうと思って頑張っている。小さなお花屋さんだけれど、一緒に働いてくれている吉田さんのおかげでみんなから愛されるお店になっているって感じている。そして羽賀さんがうちのビルの二階にきてから、さらにそれは加速した。
私は花屋の仕事の合間を縫って、羽賀さんのところに来るお客さんにお茶を出すようになった。そしたらそれが好評で。そのおかげで、ちょっとした茶飲み話に私のお店に来る人が増えちゃって。もちろん、ついでにお花を買ってくれる。さらにはそこから結婚式やイベントなどの大口の注文もいただけるようになった。
さらに、羽賀さんや唐沢さんはもともと四星商事の営業マン。そして今はコンサルタントとして活躍している。だからその会話を聞いているだけでかなり勉強になる。それが好きで、今日もこうやってみんなのお世話をしている。
「舞衣さん、どれにするの?」
「んー、私はこれかな。スイートポテトがおいしそう」
羽賀さんのところにアルバイトに来ているミクも、最初はなぜだか私にライバル心を抱いていたみたいだけれど。今ではなんでも話せる仲になっている。年下でかわいい後輩って感じかな。
「で、今回の話なんだけどよ……」
唐沢さんの言葉でいよいよ本題のビジネスの話しへ。このときにはちょっと離れたところからみんなの様子をうかがう。当然だけど話の内容にはついていけない。でも、たまに羽賀さんは私に意見を聞いてくる。羽賀さん曰く、自分たちの凝り固まった視点じゃなく新しい視点が欲しいんだって。私でも役に立っているって思ったら、なんだかすごく嬉しいな。
「なるほど、ただの研修じゃ終わりそうにないな」
どうやら話はとある企業グループの研修みたい。羽賀さんのコーチング、堀さんのファシリテーションを組み合わせた人材育成研修ということみたいだけれど。でもどうしてただの研修で終わりそうにないのか。
「唐沢くん、その情報は確かなのね?」
「あぁ、研修を受けた連中はグループ長として全国の拠点に送り込まれる。が、それはあくまでも表向きの話。実は拠点といってもほとんどが赤字で、今にも潰れると言われている場所。そしてそこに送り込まれる連中は……」
「体の良いリストラ対象者、ってことか。つまり、ここで実績を出さなければ先はないと言われている。それでも対象者は必死になって食らいつく。企業としては、そこで実績が出せればラッキー、出せなくても人件費を削減できるので問題なし。そういうことだな」
羽賀さんはホワイトボードに唐沢さんから聞いた情報をまとめながら書いていく。こういうのが見れるから、私も後から意見を言いやすいんだよね。
「で、唐沢。お前はこれをどうしたいって思っているんだ?」
「おれも下手な正義感を出そうとは思っていなかったんだけどな。そうもいかなくなっちまって。秋元さんがその対象者に選ばれているのをリストで知っちまったからなぁ」
「秋元さんって?」
ミクが横から口を挟んできた。このことはさすがに知りたい。
「秋元さんは、オレと羽賀の先輩なんだよ。いろいろとお世話になった課長でな。けれど、ちょっと問題を起こして四星商事を辞めちまったんだ」
「問題って、どんな?」
ミクは知りたがりだから、こういう質問は遠慮なくしてくる。おかげで知りたい情報を聞けるから助かるけど。これについても、苦い顔をして唐沢さんが話してくれた。
「実はな、秋元さんはオレたちのミスをかぶってくれたんだよ。あの頃は羽賀とオレはチームを組んでいて。羽賀が考えた戦略でいろいろなところの買収プロジェクトを成功させていて。でも、調子に乗りすぎたんだよな」
「あぁ、あの頃はボクも青かったからな。ある地区の再開発で商店街をつぶす計画を立てていたんだ。もちろん、その商店街の人たちには新たに再生した商業ビルに入ってもらうことを約束していたんだけど。もちろん反対にあったよ」
羽賀さん、そんな仕事もしていたんだ。今の羽賀さんからは信じられない。
「でな、反対派と賛成派に分裂したところで、反対派をどうやって説得しようか考えていたんだが。最後にモノを言うのは金だったからな。買収金額を引き上げることで話を進めようとしたんだけど……」
唐沢さんが意味深な発言で言葉を濁した。そこで唐沢さんは羽賀さんをちらりと見る。羽賀さんはうなずいて話を続けた。
「ボクがちょっと先走りすぎて。上の承諾も得ないまま独断で買収金額をアップさせたんだ。結果的にはそれで反対派もおさまったんだけど。それを当時の役員からかなり指摘されてね。そのときに課長だった秋元さんが責任をかぶってくれたんだ。それは私の判断でやらせたことですって」
「秋元さんってかっこいいっ。でもそれで揉め事になったの?」
「あぁ、実は秋元さんはもともと人情派でね。常々こう言っていたんだ。お金じゃ人は動かない。心が通じ合わないといけないって。けれど今回のミスで、結果的にお金で人を動かした指示をした人間ってことになって。その結果、周りから人格を否定された形になってな。オレたちも秋元さんのせいじゃない、自分たちのミスだってフォローしたんだけど。でも……」
「秋元さんは笑いながらこう言ったよ。これでお前たちが何かを学んでくれれば、自分は満足だって。そして半ば追いやられるように四星商事を去っていったんだ。後から聞いた話だけど、当時の役員や部長だった畑田さんは、秋元さんのやり方を疎ましく思っていたらしい。さっさと金で解決しろ、というのがその当時のやり方だったからね」
「じゃぁ、羽賀さんたちもそれに従っていたってだけでしょ。なのにどうして反対派の買収金額を引き上げたことを責められたの?」
「役員や畑田部長は秋元さんつぶしをしたかっただけなんだよ。そこにボクが先走ったことをやったから、その責任をかぶせたかったんだろうね。ボクたちはお咎め無しで終わったのが不思議だったよ」
「じゃぁ、今回はその秋元さんを救いたいっていうのが羽賀さんと唐沢さんの思いなのね?」
二人の気持ちを確かめるように質問をした。
「あぁ、恩返しってのとは違うだろうけど。でも秋元さんのために何かをやってあげたい気持が強くてな」
「ボクも、秋元さんを放っておけない。堀さんも力を貸してくれませんか?」
「私ははなっからそのつもりよ。今じゃ人情派の羽賀くんだからね。ここで秋元さんを救わなきゃ男が廃るよ。さぁて、作戦会議を開きましょうか!」
ここから先は三人のビジネスの世界にはいる。私がいても何の役にも立たないなって感じた。それに時間も遅いし。ミクも早く帰らせないといけないから、私とミクはここで解散することにした。
翌日、私はいつものように花屋を開店。花屋の朝は意外に早い。開店は九時からだけれど、それまでにお花の手入れをしないといけないし。まれにその時間に予約でお花を取りに来られる方もいる。そういった細々とした準備をやりつつ、羽賀さんの朝食を準備したりする。今朝も七時には起こしに行ったんだけど。
「羽賀さん、入るわよー」
事務所に入ると、なんとソファで爆睡している三人の姿。どうやら徹夜で作戦会議を行ったみたい。ホワイトボードにはたくさんの文字が。さらにテーブルの上には付箋がたくさん並んでいるし。一体何時までやっていたのかしら。
「羽賀さん、唐沢さん、堀さん、もう朝ですよー」
「ん……あ、舞衣さん、おはよ……」
そう言いつつ、また眠りにつく羽賀さん。唐沢さんも爆睡中。堀さん、朝はすごく弱いらしくて微動だにしない。
「まったく、困った人たちだな。とりあえず朝食の準備だけでもしておくか」
私は一度四階の自宅に戻り、三人分の朝食をつくることに。ちょうどそのとき、私の携帯が鳴り響いた。どうやらお店の転送電話みたいだ。
「はい、フラワーショップフルールです」
「花束を頼みたいのですけれど、よろしいですか?」
朝から注文の電話だ。
「はい、どのような用途で花束がお入りようでしょうか?」
「知り合いのコンサートに送るものなの。三十代の女性だからピンクを基調にしたほうがいいかな」
「わかりました。ご予算はどのくらいで?」
「二万円くらいでいいかな。それでお願いします」
二万円となると結構豪華な花束になるな。口調からすると、上品な奥様って感じがするけど。
「わかりました。何時くらいにどちらにお届けすればよろしいでしょうか?」
「悪いけど結構早い時間にいるのよ。十時までには欲しいんだけど。場所は……」
私はエプロンからメモ用紙を取り出し、場所をメモする。そして最後の質問。
「ではお客様のお名前とお電話番号よろしいでしょうか?」
「畑田といいます。よろしくお願いします」
畑田。その名前を聞いて一瞬頭をよぎったのは、羽賀さんの昔の上司で四星商事の専務の畑田さん。そんなに多くはない名前だけど。でもまさかね。
「わかりました。ではお時間までにお届けに伺います」
ちょっと動揺してしまった。もしそうだったら。でもどうして私のところに注文が? 考えていたってしょうがない。今はお客さん優先だ。三人はまだ寝ているだろうから放っておこう。さぁ、仕事だ仕事。
何かを振り払うように、注文された花束の作成の取り掛かった。二万円レベルとなると、それなりに質を上げつつ豪華に見せないといけない。コンサートの花束と言っていたな。私は想像力を働かせ、相手の顔を思い浮かべつつそれに似合う花束を構成していく。これは母から学んだことだ。受け取った時の笑顔、それをイメージしてそれが映えるようなものを作りなさいと教わった。
そうしていると吉田さんが出勤してきた。
「あら、注文が入ったんだ」
「うん、コンサートに送る花束なんだけど。でも注文主がね……」
注文主の畑田さんについて吉田さんに話した。
「うぅん、苗字だけだったら何人もいるだろうから。まさかとは思うけど」
「そうよね。まぁとにかく作ってしまうから」
花束は完成。それを指定された場所へ届ける。場所は市民文化ホール。今日はここでソプラノ歌手のリサイタルが行われるみたい。入り口に行くと、それらしき人物が私を待っていた。見た目はどこかの大会社の社長か重役婦人って感じがする。ちょっとおしゃれで高貴な感じだ。
「あ、お花屋さん。ありがとう。これ、代金です」
すでに封筒に入れられているお金を受け取る。
「ありがとうございます。ところで、今回うちのお店はどこからお聞きになったんですか?」
「うちの主人が、前に娘のお墓参りのときにお花を作ってくれたことがあって。そのときに、とても良いセンスだったのを覚えていたの。だから一度使ってみたくて。それに……」
「それに?」
「いえ、いいの。でもあなたに会えてよかったわ。あなた、うちの死んだ娘になんだかよく似ていて。そうか、だからなのかな……」
さっきから意味深な言葉を発するこのご婦人。一体どういうことだろう。
「では、私は失礼します。御用がありましたらまたご利用ください」
「えぇ、そうするわ。あなたにもまたお会いしたいし」
なんだか訳ありって感じだったな。でも、これでお得意様が増えるのだったらそれに越したことはない。でも、前に娘さんのお墓参りの花をつくったって。それ、やっぱりあの畑田さんじゃないかな? 確か吉田さんがつくってくれたものだ。じゃぁ、死んだ娘さんって、私に似ているってこと?
お店に戻って、早速その話を吉田さんにしてみる。
「うぅん、ひょっとしてそうかもしれないね。でも、羽賀さんの恋人だった人と舞衣さんが似ているって話は初耳よね。私、ちょっと聞いてくる」
そう言うと吉田さんはすぐに二階に上がっていった。それを止めようかと思ったけれど、知りたい気持も半分。なんか複雑だなぁ。
それから十分くらいして、吉田さんが戻ってきた。なんと、一緒に羽賀さんと唐沢さん、そして堀さんもいる。
「ほら、ちゃんと舞衣さんに話して!」
吉田さんにつつかれながら、羽賀さんがバツの悪そうな顔で前に出る。
「わかった、話すよ。別に隠してたわけじゃないけど。舞衣さんって、実はボクの死んだ恋人の由美に面影が似ているんだよね」
羽賀さん、頭をポリポリ掻きながら照れくさそうにそう言う。
「で、どうして唐沢さんはそのことを黙ってたの? ほら、ちゃんと言って」
「いやなぁ、最初に舞衣さんに出会った時にちょっとびっくりしたけどよ。ほら、由美の話をした時。所詮は別人だからって思ってたけど。でも、羽賀がどうしてこんなところに固執しているのか、なんとなくわかってな」
「べ、べつにそんなんじゃないから。舞衣さん、誤解しないでね」
あわてて唐沢さんの言葉を否定する羽賀さん。そんなんじゃないって、じゃぁどんなのなんだろう? 私、羽賀さんにとってどう見られているのかな?
「でさ、さっき舞衣さんが配達したって人。やっぱりあれは羽賀さんの元上司の畑田さんの奥さんっぽいんだよね。知り合いにソプラノ歌手がいたらしいし。また舞衣さんに会いに来たいって言ってたんでしょ。そしたら羽賀さんと顔を合わせることもあるかもよ」
「羽賀くん、そうなったらどうするの?」
堀さんの問いに、頭を抱える羽賀さん。さすがのコーチも自分のことにはお手上げみたい。
「さぁ、そんな話はもう終わりにして。唐沢、堀さん、最後のまとめをやりに戻りましょう。ほら、うかうかしてたらもうお昼になるよ」
その場をごまかすように羽賀さんは二人を連れて事務所に戻っていった。そうか、やっぱりあの人は羽賀さんの恋人だった由美さんのお母さんなんだ。私のこと、気に入ってくれたのかな。でもなんだか複雑だな。
そんな感じで午前中も終わり、午後はちょっと一息入れる時間ができた。
「吉田さん、ちょっと羽賀さんたちにお茶を入れてくるね」
「はーい、お店はまかせて、ゆっくり羽賀さんとお話してきてね」
「もう、そんなんじゃないって」
言いながらも、羽賀さんの気持ちはとても気になる。あれ、いつからだろう。こんなに羽賀さんのことを気にしだしたのは。でも、恋人ってわけじゃないし、部屋を貸しているだけなのに。なんだか意識したら、ちょっとドキドキしてきた。うぅん、羽賀さんにどういう顔をして会えばいいんだろう。
「それじゃ、計画通りに進めるからあとは頼んだぞ」
ドアを開く前に、羽賀さんの事務所からは唐沢さん、そして堀さんが出てきた。どうやら研修の計画が立ったようだ。
「あ、舞衣さんおじゃましました」
「お帰りなんですね。せっかくお茶を入れようかと思ったんだけど」
「舞衣さんのお茶も味わいたいけど、ちょっと急ぎで動かないといけなくなったから。またゆっくり。オレらの分も羽賀のやつにたくさん味あわせてやって」
唐沢さんと堀さんが去って、私は羽賀さんの部屋に入る。
「羽賀さん、お茶飲みます?」
「あ、舞衣さん、ありがとう。お願いします」
羽賀さん、めずらしくパソコンを前にしてうなっている様子。どうやら企画書を作成しているみたい。あまり邪魔しちゃ悪いな。でも、研修がどうなったかは気になる。だからそれとなく聞いてみた。
「研修はこんな計画を立ててみたんだよ」
羽賀さんは私になんでも話してくれる。私のことを信頼してくれているんだな。そういう羽賀さんのことを、私も信頼してしまう。
羽賀さんいわく、今回の研修は表向きはコーチングとファシリテーション。しかし内容はそれぞれが経営者として事業を興せるようなスキルと仕組みを組み立てる、というもの。
各事業所へ飛ばされる人たちは、雇われ感覚ではなくそれぞれが経営者、社長という意識を持って事に取り組む。すべて独立採算がとれるようにしていく。そこで黒字になれば問題なし。さらに本社側には、それぞれが事業主としてやっていく意志があれば、子会社化して独立採算をとらせるように仕向ける段取りをとるそうだ。
細かいところはよくわからないけれど、これがうまくいけば研修を受ける人にも会社にとっても利益となるものになるらしい。
「まだ細かなところを詰めないといけないけれど、みんなが笑顔になる仕事にしていけると思っているよ」
みんなが笑顔、か。羽賀さんたちらしい言葉だな。だれも悪者を作らない。みんなが幸せになることを願っている。こういう考え方を持っているからこそ、羽賀さんのそばにいると安心できる。
けれど、四星商事は敵じゃないのかな? ふとそんなことを思ってしまった。今まで何度となく四星商事の仕事とぶつかり、そして四星商事の思惑を消してしまった。この前の軽部さんの時も同じ。軽部さん、四星商事に辞表を提出したって聞いているけど。こうなると専務で元羽賀さんの上司、そして亡くなった恋人の由美さんのお父さんでもある畑田さんは確実に羽賀さんを敵視しているはず。今回の仕事も、四星商事から妨害工作がなければいいけれど。
「ねぇ、羽賀さん」
「ん、なんだい、舞衣さん」
この屈託のない羽賀さんの笑顔。これを見ていると、そんな心配が一気に吹き飛んでしまった。
「うぅん、なんでもない」
心配はいらない、かな。羽賀さんのことだから、きっと四星商事も笑顔になれるようにうまくやってくれるはず。私はそれを信じている。
「じゃぁ、私はお店に戻るね」
「舞衣さん、いつも美味しいお茶をありがとう」
「どういたしまして」
よし、私もみんなの笑顔のために、お花を届けてくるとするか。
翌日、いつものように配達に出ようとした時。
「あの……」
「あ、はい」
振り向くと、そこには一人の女性が。
「あ、昨日の……」
なんと、昨日お花を届けた畑田さんがそこにいるじゃない。ちょっとびっくりしてしまった。
「お忙しいところごめんなさい。どうしてもあなたに会いにきたくて」
「いえ、とんでもないです。あぁ、どうしようかな。ごめんなさい、これから配達に行かないといけなくて」
「こちらこそ、忙しいのにごめんなさいね。ここで少し待たせてもらってもいいかしら?」
「えっと……吉田さん、吉田さん」
はーい、と奥から吉田さんの声。
「吉田さん、私ちょっと配達に行かないといけないから。こちらの方が私に用があるんだって。しばらくお願いしていいかな?」
「今日は円応寺の配達だから舞衣さんじゃないとダメだもんね。わかった、まかせて」
吉田さんにはあの方が畑田さんであることはあえて黙っておこう。というか、吉田さんならきっとあのご婦人からうまいこと話を聴きだしてくれると思うから。そういうの、吉田さんは上手だからなぁ。
あのご婦人が本当に畑田さんの奥さんなら。羽賀さんにとっては恋人だった由美さんのお母さんってことだから。なんかちょっと複雑な思いで配達に出る。
今から行くお寺、円応寺は私をご指名でお花を注文してくれる。もちろん、花を届けるだけでなく生けるところまでやってくる。お母さんの時代からのお得意さんだ。いつもここの奥さんと会話をしながらお花を生ける。
「へぇ、出かける前にそんなお客様が来たの。舞衣さんに会いに」
「そうなんですよ。死んだ娘さんが私に似ているって」
「その方、お名前は?」
「畑田さんっていうんです」
「畑田さんって、四星商時の専務さん?」
「えっ、奥さんご存知なんですか?」
「えぇ、死んだ娘さんのお墓って、ここにあるんですよ。事故で亡くなったって聞いているけど」
やっぱり、あの方は畑田専務の奥さんなのかな。気になって仕方ない。
「舞衣さん、今日は心に迷いが出てますね」
「えっ、どうしてそれが……」
「いつもの繊細かつ大胆な感じがお花から感じられないわ。きっとそのご婦人のことが気になるのね」
「はい……」
これが今の本音。円応寺の奥さんにはバレバレなんだ。
「わかった。舞衣さん、まずはすっきりさせてきなさい。お花はそのあとでもいいから。いい、心をしっかり入れること。これが今のあなたのなすべきことですよ」
「はい、わかりました」
お花の片付けもそこそこに、急いでお店へと戻った。あの奥様の素性をどうしても知りたい。でも知ってどうするの? そんなことはいい。心のモヤモヤを晴らしたい。それだけだ。
「ただいまっ」
「あれ、舞衣さん。今日は早かったですね」
「うん、円応寺の奥さんに事情を話したら、一度帰ったほうがいいって言われて。奥様、お待たせしました。今お茶を入れますね」
あいさつもそこそこにお茶を入れにかかった。まずは気持ちを落ち着けなきゃ。いつものペースで、いつもの調子で。心静かにお茶を入れる。
「お待たせしました。お茶をどうぞ」
「ありがとうございます。舞衣さんっていうんですね。ホント、雰囲気が私の娘にそっくりだわ」
「その娘さんのことですけど……失礼ですが、奥様は四星商時の畑田専務の奥様でいらっしゃますか?」
「えぇ、さっきもそのことでこちらの吉田さんと話してたの」
「ということは……羽賀さんをご存知で」
「はい、こちらの二階にいらっしゃることも存じております。本日はそれを承知であなたに会いに来たの。あの羽賀さんが気に入っているっていう女性にどうしてもお会いしたくて」
そう言われてドキッとした。どこでそんなことを……というか、羽賀さんは私のことをそう思ってくれているのかしら?
「舞衣さん、私はあなたを見て安心したわ。羽賀さんは由美のことをとても愛してくれていたと思っていたの。けれどどうしてその由美を忘れて別の女性にって思って。けれど、あなたなら羽賀さんが気に入るのも無理はないわ」
そう言って微笑んでくれる畑田婦人。私はその笑顔を見つめるしかなかった。
「あの……失礼を承知で一つ質問してもいいですか?」
吉田さんがそう言い出した。何を質問するのだろう?
「はい、結構ですよ。どんなことでしょうか?」
「奥様は今でも羽賀さんのことを憎んでいるのですか?」
「いえ、とんでもない。むしろあの子をあんなに愛してくれて、今では感謝していますよ」
「じゃぁ、旦那さんはどう思っているんでしょうか? 羽賀さん、旦那さんのお仕事を次々とダメにしているんですよ」
吉田さん、ストレートな質問をするなぁ。私にはとてもできない。
「畑田の仕事のことはわからないけれど……でも、羽賀さんにあまりいい印象を持っていないのは確かかもしれませんね」
そうなんだ。やはり畑田専務は羽賀さんのことを良くは見ていないんだ。この先、どこかでまた羽賀さんと四星商事がぶつかるかもしれない。そんなときにみんなが笑顔になれることはあるんだろうか。
「そういえば、畑田がこんなことをこぼしていましたよ。どうして自分のやろうとしていることをみんな理解してくれないのかって。自分だって社会のためになることを考えて事業を展開しているのにって」
「奥様……」
私は言葉が出なかった。今までの印象だと、四星商事が悪で、羽賀さんたちはその悪の手から庶民を救い出す正義の味方、みたいな印象を勝手に思っていた。けれどそうじゃない。みんな願いは同じなんだ。けれどそこにある価値観や思いの違いで、意見が反発しあっているだけ。
「お忙しいのにこんなつまらない話しちゃってごめんなさいね。そろそろおいとまさせていただきますね」
「いえいえ、とんでもないです。奥様とはまたゆっくりお話ができれば」
「じゃぁ、またゆっくりうかがってもよろしいかしら?」
「えぇ、遠慮無く。ぜひいらしてください」
「ありがとう。あなたと話をしていると、娘を思い出してうれしくて。本当にありがとう」
そう言いながら微笑む畑田夫人。しかしそこにはどこか悲しさが漂っていた。私が力になれることって、なんなのだろう?
それから一週間後、いよいよ羽賀さんたちの研修の仕事がスタートした。内容については先方も理解し、そういう制度なら双方にとって得になるだろうということで丸く収まったようだ。その交渉にあたったのは唐沢さん。さすが営業のコンサルタントをやっているだけある。
私の方はというと、いつものようにお花屋の仕事に勤しんでいる。あれから畑田夫人も顔を出してはいない。本音を言うと、ちょっとホッとしている。だって、どんな顔をして会えばいいのか、なんか迷うんだもん。
まぁとりあえずは平穏な日々、といったところか。そんな状態がしばらく続いていたのだが。その平穏さを壊す出来事が起きてしまった。
「えっ、研修打ち切り!?」
「そうなの。さっき羽賀さんから連絡があって」
ミクが血相を変えて私のところに飛び込んできて、そう報告した。せっかく順調にいくと思っていたのに。
「何があったの?」
「それが……また四星商事がらみらしいの。詳しくは帰ってきてから話すって言ってたけど」
とにかく今は羽賀さんたち一行を待つしか無い。それにしても、みんなが満足するプランで研修がスタートしたというのに。開始からわずか二週間足らずでこんなことになるとは。
ほどなくして唐沢さんの車で羽賀さんたちが戻ってきた。
「ねぇ、一体どういうことなの? 研修打ち切りって」
いの一番にその質問を投げかけてしまった。羽賀さんたちの顔が暗い。
「まさか、ここで畑田専務が動くとはなぁ」
唐沢さんがヤケになった口調でそう言い出した。
「畑田専務って、四星商事のでしょ。今回の仕事、四星商事は絡んでいなかったんじゃないの?」
ミクがそう質問する。
「あぁ、確かにその裏までとって受けた仕事だったんだけど。けれどボクたちより実績のある大手のコンサルタント会社が突然乗り込んできてね。そこは今まで、研修先の会社が契約していたところなんだよ」
「そのコンサルタント会社が何を言ってきたの?」
「うちの計画を邪魔するんじゃないって。例の研修で体の良いリストラ策を打ち出したのは、このコンサル会社らしいんだよね」
「でも、先方は羽賀さんたちの案に納得したんでしょ?」
「あぁ、そうだったんだけど。しかし……」
「しかし?」
「この会社のメインバンクははまな銀行。はまな銀行が今回の研修案に対して進めるのであれば、融資を渋るということを言い出して」
「それが四星商事とどう関係するの?」
「はまな銀行の大株主は四星商事。そこに圧力をかけたのが……」
「畑田専務だ」
唐沢さんは悔しそうな顔でそう言う。
「畑田専務は何を考えてそんな措置に出たのか。オレたちに対する単なる嫌がらせとしか思えねぇんだよな。くそっ、大企業の力に物をいわせやがって!」
唐沢さんはドンッと机を叩いて悔しがっている。堀さんは何も言わずにうなだれている。さすがの羽賀さんも、ちょっと落ち込んでいるようだ。
けれど私はどうしても、あの畑田夫人の言葉が頭から離れなかった。
「どうして自分のやろうとしていることをみんな理解してくれないのかって。自分だって社会のためになることを考えて事業を展開しているのに」
畑田専務は夫人にそうこぼしていたという。今回のことも、単なる嫌がらせではなく何か考えがあってのことだと思う。けれど今の雰囲気じゃこんなこと言い出せない。
「何か手はないの? 羽賀さんたちが救おうとしている人たちのためにも、なんとかならないの?」
ミクの悲痛な叫びは今の羽賀さんたちには届いていない。それだけショックなことだったんだ。
私にできることはないの? そう思った時、ひとつのアイデアが閃いた。けれどこれは実現可能なことかしら? いや、私だからできる事だ。
私は黙って事務所を出た。そして急いでお店に戻り伝票を広げる。
「あったあった、これだわ」
そして私はあるところへ電話をかける。コールが鳴る。一回、二回、三回……八回、九回……お願い、出て。
「はい、畑田です」
電話の主は畑田夫人。
「私です。フラワーショップフルールの佐木野舞衣です」
「あぁ、お花屋さんの。今日はどうしたの?」
「奥様に折り入ってお願いがあってお電話しました」
「あらあら、何かあったのかしら? 私でよかったらお話をうかがいますよ」
「お願いです。私を旦那様に、畑田専務に会わせていただけないでしょうか?」
「うちのに、ですか? まぁ、それはかまいませんが。一体何があったの?」
ここで今起きていることを話すべきか。けれど話してしまったら畑田専務は完全に悪者になってしまう。私が望んでいるのはそんなことじゃない。
「その理由はお会いできた時にお話します。なるべく急いで段取りを付けていただけないでしょうか? お願いします」
電話口の前で思いっきり頭を下げた。
「わかったわ。とりあえずうちのに話してみますから、しばらくお待ちいただけますか?」
「あ、ありがとうございます」
あとは待つだけ。その間に考えた。私が今からやるべきことを。
私がやること、それは畑田専務の思いを聞き出すこと。その思いに正当性があれば、羽賀さんたちにも納得してもらえるはず。逆に羽賀さんたちの思いも伝えて、いい解決策が見つかるかもしれない。
堀さんのようなファシリテーターだったら、うまくいい策を導けるかもしれない。唐沢さんのように頭が切れれば、良いアイデアも出るかもしれない。羽賀さんのようなコーチングが出来れば、畑田専務から思いを引き出せるかもしれない。けれど私はただの花屋。そんな事が本当にできるのか、不安。
いや、そんなことは言っていられない。私が動かないと、みんなが幸せにはなれない。みんなの幸せのために、今できることを精一杯やってみる。それしかないんだから。
そんなことを何度も何度も頭の中で唱えながら電話を待つ。どのくらい時間が経っただろう。長いような、短いような。時計を見るのも忘れて私はひたすら考え続けた。今の私にできることを。
「舞衣さん、舞衣さん、電話よ」
吉田さんの声でハッと我に返る。電話の音にも気づかないくらい、考えに没頭していたわ。
「はい、お電話変わりました」
「あ、舞衣さんね。畑田に連絡がつきました。今夜なら時間がとれるそうです。うちにおいでください。住所は……」
よし、一歩前進。今夜畑田邸にうかがい、私のできる事をやってくるぞ。
「ここね」
午後八時。私は畑田邸の前に立っている。立派なお屋敷だ。玄関の呼び鈴を押すと、程なくして奥様が顔を出してくれた。
「お待ちしていました。さぁ、どうぞ」
「はい、おじゃまします」
私は深呼吸をして、心を落ち着けて家の中へと入っていった。応接室にはスーツを来た畑田専務が待ち構えていた。その顔は意外にもにこやかなものであったのには驚いた。
「おぉ、君が花屋の舞衣さんか。うちのからうわさには聞いていたが……ホント、死んだ由美に似ているな」
「あ、ありがとうございます」
「で、私に話があるということだが。一体何かな?」
「あの……率直に伺います。羽賀さんたちが行おうとしている研修事業。あれをはまな銀行を通じて先方の会社の融資を渋らせる命令をしたのは畑田さんということをお聞きしました。その真意をお聞きしたくて……」
その瞬間、畑田専務の目がギロッとなった。さすがに核心をついた質問だっただけに、厳しい目つきになったみたいだ。
「舞衣さん、君は羽賀に言われてここに来たのかな?」
「いえ、羽賀さんには何も言っていません。私の意志でここに来ました。どうしてもそのことを確認したくて」
「なるほど、君は羽賀の役に立ちたくて、自分の意志でここに来たというのか。ふん、そういうところも由美にそっくりだな」
言葉とは裏腹に、少しニヤける畑田専務。それがどういう意味を示すのか、私にはよく理解できなかった。
「まず君の誤解を解いておこう。私はね、何も羽賀たちが憎くて嫌がらせをしようとして彼らの研修事業をストップさせたわけではない」
いきなり話の核心に入る畑田専務。ただ黙ってその言葉を聞く以外にはなかった。
「彼らのやろうとしていること。これは正義感もあふれているし立派なことだとは思う。だがひとつ大きな欠点もある」
「大きな欠点、とはなんですか?」
「彼らは受講者を救った気になっているが。では赤字にあえいでいる会社はどうなる?どこかで大掛かりな経費削減を行わないといけない状況にあるのだよ。彼らが育つまで待つ、なんて悠長なことは言っていられない」
「でも……」
話を遮ろうとしたが、そんなのお構いなしに畑田専務の話は続く。
「会社が潰れれば、そこで働いているもっと多くの人間を路頭に迷わせることになる。経営者としてはそうすることは許されないのだよ。だから申し訳ないが使えないと判断した一部の人間に泣いてもらうことになる。ただし、冷酷な首切り宣言はしない。だからこそラストチャンスを与えたのだよ」
「ラストチャンスって?」
「赤字を出している各支部に送り、そこで実績を出せば生き残れる。実績が出せなければ去れ。そういうことだ」
「その案を打ち出したのは畑田専務なのですか?」
「私の一存ではない。これは私の知り合いのコンサルタントが打ち出した策だ。そのコンサルも苦肉の策として出したものなんだよ。それを無視して突っ走ろうとした羽賀たちの方が、私から見ればたちが悪い。だからはまな銀行を通じて彼らのやろうとしていることをストップさせたのだよ」
「でも」
「でも?」
私はようやく自分が言おうとしていることを言い出せる機会をもらえた。
「でも、羽賀さんたちは綿密な計画を立てていました。私はその詳細までは知りませんが、これで企業も対象者も笑顔になれるって」
「ふん、また笑顔か。あいつはいつまで経っても甘いんだよ。そんな理想論ばかり言っているから、世の中の本当の経済を甘く見てしまう。舞衣さんといったね、ここで一つ教えておこう」
畑田専務はタバコに火をつけ、一服して一呼吸置いた。その姿は堂々としたもので、私はその空気に飲まれそうになっていた。
「世の中には勝者がいれば敗者もいる。敗者から見れば勝者は自分たちをいじめているようにしか見えないだろう。だがそれは違う」
黙って畑田専務の目をじっと見つめる。畑田専務はあえて私と目を合わせずに話を続けた。
「勝者は勝つために、日々努力を続けている。勉強し、行動し、さまざまな困難をくぐり抜けて今があるのだよ。なのに敗者は自らが何かをしようとすることなく、常に勝者のやることに依存している。そして勝者から見放されたらあいつが悪いと愚痴をこぼす。自分はなにもしないくせにな」
畑田専務の言い分もわらかなくはない。確かに愚痴をこぼすだけで自分からは何一つ行動しようとしない人が多いのは確かだ。
「だから私は最後のチャンスを与えようというのだよ。そこで行動を起こさなければ、君たちは残念ながら敗者だ。そういうことをわからせようとしている。これは間違ったことかな?」
何も言えなかった。でもすべてを納得したわけではない。その言葉にはどこか違和感を感じる。それが何なのか、わからない。
「舞衣さん、君が聞きたかったことはこういうことでいいのかな?」
「……はい、わかりました。ありがとうございます」
違和感を感じたまま、帰路につくことに。その日の夜、悶々とした気持ちを抱えながら一夜を過ごした。
翌日、私は昨日のことを羽賀さんに話そうか迷った。昨日聞いたことをただ話しただけではなんの解決にもならないだろう。でも、話さないと先には進みそうにない。一体どうしたらいいの?
「舞衣さん、なんか今日変だよ?」
吉田さんからもそんな声をかけられる。
「ううん、なんでもない。ちょっと考え事」
そう言ってごまかすけれど、心は全然上の空。私にできることを、そう思って出かけたのだけれど。逆に私じゃどうしようもないことを感じてしまった。
「こんにちは」
お昼すぎ、思わぬお客様がいらした。なんと、畑田夫人だ。
「あ、奥様……」
「昨日は主人が好き勝手なことを言いましてごめんなさい。そのお詫びにと思って。よかったらこれ、召し上がりませんか?」
畑田夫人が持ってきたのはおはぎ。見た感じ手作りのようだけれど。
「ありがとうございます。お茶を入れますね」
私はお茶を入れる準備。ちょうどそのときである。
「舞衣さん、いるー」
現れたのは羽賀さん。
「お、お母さん……」
「羽賀さん、お久しぶり。お元気のようでなによりです」
「ご無沙汰しております。でもどうしてここに?」
「ふふふ、こちらの舞衣さんと最近お友達になって。今日はこうやっておみやげを持ってきたんですよ。あなたもお好きでしたね、おはぎ」
「お母さんの手作りのですね。これ、私大好きだったんです」
「それじゃ、みんなで一緒に召し上がりませんか?」
気がつけば私と畑田夫人、吉田さん、そして羽賀さんの四人でおはぎを食べることに。私が昨日畑田邸に行ったことは誰にも言っていない。どんな話題を切り出せばいいのか、ちょっと迷ってしまった。
「羽賀さん、今回はまたうちの畑田がご迷惑をお掛けしたみたいで」
なんと、畑田夫人の方から今回の話題を切り出し始めた。それにはびっくり。
「いえ、決まったことは仕方ないですから……」
「あら、諦めきれない様子ね。やはり畑田のやり方に不満があるみたいね」
「不満だなんて……といいたいところですが。やはりくやしいです。いくら私たちが知恵を絞っても、大資本の大会社の圧力には負けてしまうんだという現実をつきつけられてしまって」
「あら、あなたらしくないわね」
そう言って畑田夫人はおはぎを上品に一口。羽賀さんは下を向いている。
「羽賀さん……」
私はここがチャンスだと思って、昨日あったことを話そうと思った。けれどなかなか口に出せない。すると、畑田夫人が私の方を向いてきたではないか。
「舞衣さん、今があなたの力の見せ場なのよ」
「見せ場……」
その言葉が私に勇気をくれた。よし、言うぞ。
「羽賀さん、実は私、昨日畑田専務に会いに行ったんです」
「えっ、舞衣さんが……どうして?」
ここで私は自分の思っていることを羽賀さんに伝えた。昨日打ちひしがれて帰ってきた姿を見て、私にできる事はなにかないかと思って。
「そうだったんだ……」
「でね、畑田専務の言うことももっともだと思ったの。でもどこかに違和感を感じていて。それがなんなのか、よくわからないの」
「違和感……もしかしたら」
羽賀さんは何かを思い出したようだ。
「お母さん、畑田専務の周りで何か変化があったことって知りませんか?」
「うぅん、私も畑田の仕事のことはあまり知らないけれど。でも最近可愛がっていた部下が辞表を出したって聞いているけれど」
「軽部くんのことだな。そうか、それでか」
「羽賀さん、何か思い当たることがあるの?」
「おそらくだけど。畑田専務はもともと去る者は追わずの主義だからね。自分の意に反したものが去っても、決してそれを引きとめようとはしない。だからこそ、ボクや唐沢はすんなり会社を辞められたんだけど。でも……」
「でも?」
「畑田専務はそれでまた一人になる。そこで開き直ったのかもしれない。所詮人間は一人だってことに。勝者は常に一人。あとは敗者。そういう考え方を昔専務から聞いたことがあるのを思い出したよ」
「違う、そんなの違う。仲間がいるから、みんながいるから楽しいんじゃない。それが本当の勝者じゃないの? その考えは間違ってる!」
私の叫びに、みんなは黙りこんでしまった。しばらく沈黙が続く。
「そうね、その通りよね。確かにその点では畑田は間違っているでしょう」
畑田夫人がそう口を開いた。
「いえ、間違いではありませんよ。そういう価値観もある、ということじゃないかな。ボクはそう思うんだよ」
羽賀さんが畑田専務の考えを受け入れるとは思わなかった。
「でも、私はそんなのイヤ。畑田専務が一人ぼっちじゃない。そんなの絶対にイヤ。畑田専務はいつも寂しい思いをしていないといけなくなるじゃない」
私は羽賀さんに反論した。いくらコーチングが人のことを承認するのが大事だって言っても、やっぱり間違っているものは間違ってる。私はそう思う。
「ボクはね、畑田専務の気持がわかるんだ。なぜなら、昔のボクがそうだったから。由美と出会う前のボクがね」
「羽賀さん……」
「だからって、それが正しいこととは思っていないよ。間違いじゃないのと正しいのとはイコールじゃないからね」
「じゃぁ、何が正しいの?」
「それはわからない。けれど間違いなく一つだけ言えることがある」
「それって何?」
「それは、みんなが笑顔になること。誰一人悲しい思いやつらい思いをすることなく、みんなが笑顔でいられること。これは正しい結果じゃないかな」
「じゃぁ、畑田はどうすればいいのかしら?」
畑田夫人がそう尋ねる。どうすれば畑田専務は一人ぼっちにならずにすむのかしら。どうしたらみんなが笑顔になれるのかしら。
「それは、畑田専務自身に聴くのが一番、かな。お母さん、今まで躊躇していましたが決心しました。専務に、いやお父さんに会わせていただけないでしょうか。直接話をしてみたいと思います」
「わかったわ。私がなんとかします。そのかわりお願いがあるの」
「はい、何でしょうか?」
「畑田を……あの人を決して一人にしないでください。よろしくお願いします」
「わかりました」
羽賀さん、何かを決心したみたい。でもなんだか不安。羽賀さんが不安なんじゃない、何かわからないけれど不安が襲ってくるの。
「あの……羽賀さん、私もその席に一緒にいていいかしら?」
「えっ、舞衣さんが?」
「そうねぇ。あの人、舞衣さんの前だとあんなにもおしゃべりになったのよね。口は悪いけれど、あんなにしゃべったのは久しぶりに聞いたわ。羽賀さん、舞衣さんはとても強力な助っ人になりそうだわ」
「わかりました。じゃぁ舞衣さんも一緒に。よろしくお願いします」
私に何ができるのかわからない。けれど、どうしても羽賀さんと一緒にいたほうがいいって感じがするの。
こうして畑田専務と羽賀さんが会うことになった。あとは畑田夫人からの連絡を待つのみ。
「羽賀さん、畑田専務と……お父さんと会うのってどのくらいぶりなの?」
「もう三年くらいになるかな。ボクが四星商事を辞めた時だからね」
「会って、どんな話をするつもりなの?」
「話をするんじゃないよ。ボクはあくまでもコーチだから。畑田専務に最良の考え方をもってもらうのを促すだけだよ」
「でも……コーチングってクライアントとの信頼関係が成り立っていないとできないって言ってたよね。大丈夫なの?」
「そこはなんとかするさ」
いつもの羽賀さんとは違う。それは感じていた。だけど今はもうやるしかない。そんな気負いも感じられる。
その日の夜。
「舞衣さん、お母さんから電話があったよ。今度の土曜日の夜に会うことになった。場所はこちらが指定していいって。で、お願いがあるんだけど」
「お願いって?」
「ボクの事務所に招くわけにはいかないかなって思ってね。かといってどこか外で話すことでもないし。だから貸してくれないかな、場所を」
「貸してって……えっ、私のお店ってこと!?」
「うん、あそこならお互いに中立を保てるかなと思ってね」
「まぁいいけど。でもどうしてお店なの?」
「それはそのときにわかるよ」
謎が謎のまま、土曜日を迎えた。この日、仕事が終わってから私は念入りにお店の掃除。恥ずかしくないように迎え入れなきゃ。
そして午後八時。時間ピッタリに黒塗りの高級車がお店の前に停まった。
「ありがとう。またあとで連絡するから」
車から降りてきたのは畑田専務。運転手を一旦帰らせて、一人でやってきた。
「こんばんは。お待ちしていました」
「舞衣さん、今日は場所をお借りするよ。羽賀はいるのか?」
「はい、中で待っています」
すると羽賀さんもお店の前にやってきた。
「ご無沙汰しております」
「お前も元上司を呼び出すとは、なかなか出世したな」
皮肉とも取れる言葉を投げかける畑田専務。敵対意識むき出しだ。
「とりあえず中にお入りください」
そう言って店の中に促す羽賀さん。私はお茶を入れる準備。これから一体どんな会話が始まるのかしら? ドキドキする。
「どうぞ」
お茶を出すまで、畑田専務はお店の中をぐるりと見渡していた。羽賀さんはそれを黙ってみていただけのようだ。
畑田専務はお茶を手にして一口。すると表情が変わった。
「ん、うまい。これはおいしい。これ、舞衣さんが入れたんだよね」
「はい。おいしいお茶を飲んでいただくのが私の喜びなんです」
「いやいや、これは参った。こんな美味しいお茶は初めて飲んだよ。こんなお茶を毎日飲めるのは幸せだろうなぁ」
ここで畑田専務、羽賀さんをぎらりとにらむ。
「はい。舞衣さんにときどきお茶を入れてもらっています。とてもおいしくてみなさんに好評です」
「ふん、お前もなかなかいい環境にめぐまれておるようだな。で、私に話しとはなんだね」
これから本題にはいるようだ。どんな展開を見せるのだろうか?
「まずは軽部くん。彼はどうして四星商事を辞めたのですか?」
「お前には関係ないことだ。と言いたいところだがお前が原因だ。軽部に何を吹き込んだのかわからないが。急に私に反旗をひるがえしおって。あれだけ面倒を見てやったのに」
そう言いながらももう一度お茶に口をつける畑田専務。すると、一度険しかった顔が緩んでくる。そして目線は店先に並んでいるお花に向かう。
「畑田専務、どうしてもお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「なんだ、言ってみろ」
「ボクたちが立てた研修計画。あれを中断させたのは畑田専務だとお聞きしています。その理由も聞きました。彼らにはラストチャンスを与える。そのチャンスを与えられて行動しないものは敗者となる。そういうお考えでしたね」
「あぁ、その通りだ。そのことはそこの舞衣さんにも伝えたとおりだ」
「じゃぁ、そのチャンスを全員がつかめば、全員が勝者として認められる。そういうことでよろしいのですか?」
「ふん、それができればな。だがそんなのは不可能だ。お前はあいつらの実態を知らんからそう言えるのだ。実際にはあいつらは今まで何もしてこなかった、社会の落ちこぼれにすぎん」
「その人たちが本当に勝者となれば、いかがですか?」
「何度言わせるのだ。そんなの無理に決まっておる。そんなことに時間とコストをかけてなんになる。この競争社会を生き抜くのにそんな悠長なことをやっておる時間はない。羽賀、お前ならわかるだろう」
「はい。それはよく承知しています。だからこそ出来る人材を求めていることも。その出来る人材が、また畑田専務の前から消えてしまったら。どうします?」
「そのときはまた、新しい人材を入れればよい」
「つまり永遠にそれを繰り返す、ということですね。それこそ、時間もコストもかかってしまう気がするのは私だけでしょうか?」
「それは軽部のことを言っておるのだろう。確かに、あのクラスまでを育てるのには時間はかかったがな。また見つければよいことだ」
「見つかりますかね?」
「見つけてみせる」
「どうやって?」
畑田専務は言葉に詰まった。だが、もう一度お茶を飲んで周りを見回し、なにか答えをひらめいたようだった。
「そういう人材を求めていることを私が発信すればよいのだ」
「どこに?」
間髪入れずに羽賀さんが質問を入れた。
「どこにって……それは社内の他の部署や取引先に……」
「しかし、勝者は一人なのでしょう。そういう人に協力しますかね?」
「うっ、それは……」
再び言葉に詰まる畑田専務。
「専務、いつも一人でいるのは辛くないですか?」
話題を変える羽賀さん。畑田専務はギロリと羽賀さんをにらむ。
「辛いわけなかろう。私はあの四星商事の専務だぞ。一流企業の専務がそんなことで辛いなどと言うわけなかろう」
「畑田専務、本当に辛くないと言えるのですか? 畑田専務が目指している社会って、作りたい社会ってそんなものなのですか?」
「作りたい社会、だと?」
「はい。今まで四星商事はいろいろな事業を手がけてきました。けれど、それは他のライバルを蹴落として自分たちの利益を追求する。そういう思想のもとに事業を行なってきたのではないでしょうか」
「それのどこが悪い。今は競争社会だ。世の中では共存だとか協業だとか虫のいいことを言っておるが。それは他業種と組んだ時の話だ。同業者間では激しいシェア闘いや叩き合いが行われておるじゃないか。私が何か間違ったことを言っているかね?」
「いえ、畑田専務の言われることに間違いはありません。それが実際の社会の現状ですから。どこもトップシェアを取ろうとして、他社よりもよいものを創りだそうと必死な状況にあります」
「お前だってそうではないか。聞けば唐沢やファシリテーターの堀と組んでいろいろとやっておるが。逆を言えば今まで入っていたコンサルタントを出し抜くために行なっているのだろう?」
「さすが、これから四星商時の専務の言葉ですね。図星を突かれて私は何も言えませんよ」
「ふん、おべっか使っても何も出はせんぞ」
畑田専務と羽賀さんの攻防とも言える会話がそうやって続く。ただ私の目から見てわからないのは、羽賀さんの真意だ。語れば語るほど畑田専務の手の内に引きこまれているようにも感じる。羽賀さん、一体何を狙っているんだろう?
羽賀さんを見ると、まだ笑っている。そしてこの質問が飛び出した。
「ではもう一度お聞きしてよろしいでしょうか? 畑田専務が目指されている会社づくり、四星商事の未来とはどんなものなのですか?」
「それはもちろん、国内の取引量がトップシェアになる、他社には負けない会社にすることだ。今はライバルとして五井商事や住有商事が肩を並べておる。いや、正直この二社には負けている状況だからな。ここをなんとか逆転せねば、我々の会社の負けが見えておる」
「畑田専務がおっしゃる負け、とはなんでしょうか?」
「それはもちろん、シェアであり売上であり……」
「負けるとどうなるのですか?」
「負けると……売上が減るじゃないか」
「売上が減ると?」
「利益が減るから、社員のリストラをせねばいかん。事業の再編などをしなければいかんからな。私には社員を守る義務がある」
「その結果、他社の社員が犠牲になろうと知らんこっちゃない、ということですよね」
「あ、あぁ、そこまで我社が面倒を見る必要はないからな」
「そういう人が増えると、世の中の消費はなかなか増えることはない。違いますか?」
「もちろんそうだ。だから我社の社員を路頭に迷わせることはできん」
「ところで、四星商時の社員ってどのくらいいるんでしたっけ?」
「関連企業まで含めれば、グループで約六万人だ」
「それって日本の人口の何パーセントですか?」
畑田専務の言葉が詰まった。
日本の人口を約一億二千万人とすると、0.05%にすぎない。その家族を含めても0.2%ほど。千人に二人の割合だ。それが多いのか少ないのかは今ひとつピンとこないけど。
「四星商事がライバルとみなしている企業の人数。それってどのくらいなのでしょうね? その人数が路頭に迷うと、日本の経済ってどうなりますか?」
羽賀さんの執拗な質問。明らかに畑田専務を追い詰めている。
「羽賀、お前が私に言いたいことはわかっておる。四星商事が一人勝ちしても、他の会社が潰れていけばそれだけ路頭に迷う人間は多くなる。そうなれば日本の経済はさらに低迷し、その結果モノが売れなくなる。結果的には我社の売上も減ることになり、自分で自分の首を締めることになる。そうだろう?」
「さすが畑田専務。というかそのくらいはとっくの昔にわかった上での行動だとは思いますが」
「そんなこと、今さらお前に教えられなくてもわかっておる。だが他社に負けることは許されん。競争が我々の技術力やサービス力を向上させておるのも確かだからな」
「はい、そのとおりです。今回私たちも、研修企画を立てるのにかなり時間をかけました。それは既存のものに負けたくないからです。おかげでいいものができたと自負していたんですけどね」
「だが、それを私が潰した。それをお前は私恨だと思っているのかな?」
「いえ、とんでもない。畑田専務なりに考えて行った行動ですからね。いわば私たちは競争社会に負けた、ということになります。ただし、中身ではなく資本の差によって、という意味で捉えていますが」
「ふん、お前たち自分が立てた企画に相当自信があるようだな」
「はい、自信がなければ表には出しませんよ。それが私たちの仕事ですから」
「ではそのプラン、ちょっと聞かせてもらうじゃないか」
ここでようやくわかった。羽賀さんの狙いが。畑田専務は羽賀さんたちが立てたプランの詳細を知らずに、表面だけで判断して今回の措置を行った。だからこれを知ってもらおうと思ったに違いない。
ここからしばらくは羽賀さんのプレゼンテーションとなった。畑田専務も悪い人ではない。自社の利益を確保するために仕事を行なっているに過ぎない。その思いが強すぎて、周りを蹴落とすことしか目を向けていなかった。
私はお茶を入れなおし、そっと二人の横に置く。二人は無意識にお茶に手を伸ばしながら説明をし、説明を聞く。
そして……
「なるほど、そういうカラクリがあったのか。なぜそれを早く言わん」
「早く言わんも何も、言う前に専務が潰しちゃったんでしょう」
「バカいっちゃいかん。こういう仕組みがわかっていれば私だってお前たちのやることのバックアップをしてやるわ」
畑田専務の顔つきが明らかに変わった。今までは羽賀さんに敵対意識を燃やしている感じがしていたのに。今は表情が晴ればれとしている。
「お前たちの気持はよくわかった。これで多くの人を救おうとしているのだな」
「はい、みんなが幸せになる。みんなで幸せになる。これが私たちの仕事ですから」
「その思いは私も同じではある。ただお前とは住む世界が少し違う。それだけのことだ。だが私は四星商事をナンバーワンにするという目標を変えることはない」
「畑田専務の考えを変えるつもりはありませんよ。こういう考え方、こういう世界もあるということを知っていただき、納得していただければと思いまして」
なんか安心した。けれどまだ心の奥に一つ引っかかっていることがある。
「あの……失礼を承知でお聞きしたいのですが。先日退職された軽部さん。彼はこれからどうなるのですか?」
「どうなる、というと? 彼は自分から望んで私の元を去っていったのだぞ」
「本当に望んでいたのでしょうか? ひょっとしたら今の仕事にはまだ未練があるんじゃないかって、そう思えて仕方ないんです」
「どうしてそう思うのかな?」
「なんとなく、としか言えないけど……今まであれだけ畑田専務の下で働くことに生きがいを感じていた人だったんでしょ。今まで何度も羽賀さんと対立したことは聞いています。けれど、それでも畑田専務についてきていた人だったから。一時的な感情で辞表を出したんじゃないかって思うんです」
「畑田専務、軽部くんに電話をしてあげてくれませんか?」
羽賀さんが私の言葉を聴いてそう提案した。だが畑田専務は少し躊躇している。どうやら自分のプライドが許さない、そんな感じだ。
「ではボクが電話をかけてもいいですか?」
「待て、私がかける」
畑田専務、まだ思いつめた感じがするけれど、携帯電話を取り出してダイヤルを始めた。
「あぁ、私だ。今なにをやっている?」
不器用に話す畑田専務。受話器からはかすかな声しか聞こえてこないが、電話の向こうで驚いた感じがしているのは伝わる。
「そうか、まだ今からのことは決まっておらんのだな。うむ、一つお前に手伝ってもらいたいことがある」
その言葉で、電話の向こうの軽部さんがさらに驚いた感じが伝わってきた。
「今、羽賀がやっている事業。これを四星商事としてバックアップしたい。それにはお前の力が必要だ」
まさか、こんな言葉が飛び出してくるとは。羽賀さんもさすがに驚いたようだ。私も表情が明るくなった。
「あぁ、戻ってこい。私にはお前が必要だ。まだ会社の退職手続きはすんでおらん。今なら一週間ほど休んだことにすればよいだけだ。明日から私のところに来い」
そのときの畑田専務の顔。それはとても柔らかくて、周りを包み込んでくれる。そんな印象を受けた。
電話の向こうですすり泣きの声がかすかに聞こえる。軽部さん、どうやら感激したみたい。だって、今まで信頼をしていた上司からそんな言葉をかけられたんだから。無理もないわよね。
畑田専務、静かにうなずき電話を切る。
「羽賀、これでよかったのか?」
「はい、それでいいと思います。ボクは畑田専務のことを信じています。ボクとはやり方が違うけれど、目的は同じだって」
「確かに、私はお前たちのやっているコーチングを全面的に認めたわけではない。そんなやり方だけでこの厳しい環境を生き抜いていくことは無理だ」
ここで、私が淹れた、もう冷えてしまったお茶を一気に飲み干す。そしてまたお店の周りをぐるりと見回す。そしてこんな言葉が。
「だが、お前たちのやり方も一理ある。私にはできんやり方だがな。今日はそのことに気付かされたよ」
「ありがとうございます」
羽賀さん、深々とお礼をしていつものにこやかな羽賀スマイルを浮かべた。
「舞衣さん、今回はお世話になった」
畑田専務、急に私の方を向いてそんなことを言い出すものだから。ちょっとびっくりしてしまった。
「い、いえ。私は何も……」
「あそこで軽部のことを言い出さなければ、私はとても貴重な人材を失うところだった。心の中では気にはなっていたのだが、どうしても踏ん切りがつかなくてな」
そしてまたお店の中をぐるりと見回す畑田専務。
「こうやって花に囲まれていると、気持が安らぐ。うん、いいな。そのおかげもあるんだよ、今回こうやって羽賀と落ち着いて話ができたのは」
そうだったんだ。だからさっきからお店をぐるりと見回すことが多かったんだ。羽賀さん、それを狙っていたのかな?
「そしてこのお茶だ。熱いお茶もおいしいが、これは冷えてもなお美味しさを保っている。このお茶の淹れ方をぜひうちの秘書にも知ってもらいたいものだ」
はははと笑う畑田専務。その笑いにつられて私も、そして羽賀さんも笑いが飛び出す。
心が通い合った。そう思えた瞬間だった。
「羽賀、お前もよい彼女を持ったな」
「えっ、ち、違いますよ」
羽賀さん、赤面しながら慌てて否定する。
「私に遠慮せんでもよい。由美はもう戻らないのだから。お前はお前の幸せを求めれば、それでいいんだからな」
「おとうさん……」
「舞衣さん、羽賀のことをこれからもよろしく頼む。こいつを支えてくれないか。これは私からのお願いだ」
「えっ、でも……」
私は返事に困ってしまった。別に羽賀さんと恋人ってわけでもないし、同じビルの同居人だから世話をしているだけなのに。
そう自分に言い訳をしていることに気づきながらも、まだそこだけは素直になれない私がいる。
「まったく、羽賀はいつまで経っても色恋沙汰には疎いやつだからなぁ。わぁっはっは」
豪快に笑う畑田専務。その笑いを照れながら見守る羽賀さんと私。思わず目が合い、ちょっとはにかむ。なんて言っていいのかわからないんだもん。
「だが、羽賀。よく聞いておけ。この先またお前たちと対立する場面が出てくるかもしれん。そのときは遠慮なく全力で向かわせてもらうからな」
「はい、承知しております。私たちも全力で立ち向かわせてもらいます。そうすることで、さらによりよいものができると信じていますから」
「うむ、それでよい、それで」
こうして一つの問題が解決した。なんだか清々しい気持ちになれたな。
三人でお店の外に出る。空を見上げると満天の星空。
「うわぁ、きれい」
思わずその星空を見つめる。
「こんな星空だから、きっと明日もいい天気になりそうだな」
畑田専務の言葉。その言葉に羽賀さんがこう応えた。
「はい、明日も晴れです。天気も、そしてみんなの気持も」
「うむ、そうだな」
明日も晴れ。天気は雨になっても、気持ちはずっと晴れでいたい。どんな困難があっても、いつも笑顔でいたい。それが今の私の気持ち。そしてみんなの気持ち。明日は晴れ、そうありたいな。
畑田専務はこのあと、迎えの車に乗って去っていった。後に残された私と羽賀さん。
「舞衣さん、今日はありがとう。舞衣さんのお陰で仕事のことだけじゃなく軽部くんのことまで一気に解決することができたよ」
「私は別に、何もしてないわ。羽賀さんがうまく畑田専務とお話できたから、その成果が出たんじゃない」
「ありがとう。そういう言葉がボクの気持をいつも支えてくれているんだ」
「羽賀さん……」
私と羽賀さん、じっと目を見つめ合う。羽賀さん、私の両肩に手を添えてくれる。羽賀さんの手のぬくもりが肩を通じて伝わってくる。
そして羽賀さん、両肩を自分の方に引き寄せる。羽賀さんの胸が私に迫ってくる。私はゆっくりと目をつぶる。
羽賀さんの顔が私の顔にゆっくり近づいてくる気配を感じる。そして……
「おーい、羽賀ぁ、まい〜っ、そんなところで何やってんだ〜」
その声であわてて私から離れる羽賀さん。
「お、お父さん! なに、酔っ払ってるの?」
「バカ言っちゃいけねぇよ。このくらいの酒で酔っ払いますかってんだ。ったく、オレサマを何だと思ってるんだよ、オレは天下のひろしさまだぞぉ」
「はいはい、まったくもう」
「ひろしさん、ほら、つかまって」
羽賀さん、お父さんを介抱しながら四階の自宅へとあがっていく。私もその後ろからついていく。
このとき、羽賀さん後ろを振り向いてにっこり笑う。羽賀さんの気持ちは受け取った。あとは私にその覚悟を持てばいいだけなんだな。
「羽賀さん、ありがとう」
心のなかでそうつぶやく。うん、これでいいのよね。よし、私も自分の信じた道を歩いて行くぞ。
「まい〜、早く幸せになりやがれってんだ」
お父さん、半分寝ぼけてそんな事を言う。まったく、だれのせいでもう少しのところを逃したと思ってるのよ。そう思いつつ、つい笑ってしまう私。
明日も晴れ。心はずっと晴れ。仲間と、そして羽賀さんと、これからもずっと晴れの日になることを信じて進んでいくぞ。
<コーチ物語 完>
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